第2話 巨人の沈黙
20XX年7月5日 04:11 UTC
アメリカ・カリフォルニア州 マウンテンビュー
Google セキュリティ演習施設 “セキュリティベース・ゼロ”
https://kakuyomu.jp/users/I_am_a_teapot/news/16818792435873509045
インターネット。
地球上を覆い尽くす、人類の神経網。
リアルタイムの株価情報から最愛の人とのチャットメッセージまで。
事実、憶測、作り話。
インターネットを通して、人々はあらゆる情報を共有する。
それはもはや、人類にとっても、一人の人間にとっても、必要不可欠な身体の一部だ。
その神経網の一角――
アメリカ・カリフォルニア州マウンテンビューにある、人類最大のセキュリティ拠点「セキュリティベース・ゼロ」。
人工照明に包まれた広大な室内では、無数のホログラムが宙に浮かび、何十ものチームがセキュリティインシデントの対応に当たっている。
深夜4時、40名近くのホワイトハッカー達が険しい表情で操作卓に向かっていた。
「ノード47、陥落しました!」
世界地図上には無数のノードが点滅し、その一つが赤に染まる。
「東海岸ノード、バックドア経由で突破されてる。レベッカ、遮断ルートを確認」
レオの低い声に反応して、レベッカがすぐに手を動かす。
「経路ログ照合。バックドア経由、L7層から突破されてる」
「マイク、ACLルール確認。アウトバウンド流量もミラーリングで拾って」
「確認、ルール4適用中。動的IP。クエリのパターンが細かく変わってる」
マイクが素早くログをスクロールさせる。
「サミール、経路3段階。最終ノードで再帰ルーティングされてる。おそらく誘導型。手動トレース入れて」
「入れた。迂回先をこちら側のモックDNSにスイッチング中。30秒で切れる」
「レベッカ、既知のペイロードと照合。シグネチャは?」
「第6パターンに一致。レッドチームの訓練テンプレと同一。対策済みのシナリオ」
「よし、静的ルールを強化して流し込む。ログの解析完了と同時に打て」
「解析完了まであと5秒!」
マイクが手を止めずにカウントを始める。
「3、2、1──今」
サミールがエンターキーを弾く。遮断スクリプトが一斉に展開される。
しばらくの沈黙の後、合成音声らしき無機質な音声が室内に響く。
『対象アクセスを遮断しました』
『締め出し成功。演習内最短記録を更新』
一瞬、誰も動かない。
中央のモニターには『演習完了 チームS2 記録:6分59秒』の表示。
数秒後、他のチームからまばらに拍手が起きる。
「OK、全員お疲れ。完璧だった」
マイク、サミール、レベッカの3人は安堵の表情でハイタッチしあう。
『演習を終了します。レッドチームは引き上げてください。両チームとも、お疲れ様でした』
合成音声の正体であるGoogleのセキュリティ基盤AI『オラクル』の声が響く。
室内全体の緊張感が一気に解け、リラックスした話し声で溢れる。
後方にある観覧席では幹部らしき数人が話している。
「今年もレオチームか。これで3年連続だな」
「リーダーのレオも優秀ですが、他のメンバーも珠玉ですね。全員がMIT出身のエリートだけある」
「ああ、中でもサミールはあの異常検知システムを提案した人物でもある。今じゃうちの全リージョンで使用されている方式だ」
「間違いなく、彼らは地球上で最も優秀なホワイトハッカー部隊ですよ」
#####
レオ達はデスクで寛ぎながら話している。
「誰かコーヒー要るか?」
レオが伸びをしながら声をかける。
「もらおうかな」
サミール・パテルがあくびをしながら答える。
「ミルク多めで頼むよ。昨日彼女とZoomで話してて、向こうの時間に合わせてたからほとんど寝てないんだ」
サミールは言いながらスマホを俯瞰でのぞく。
ロック画面の通知には "Good night, see you in 5 days ♥" のメッセージと、深紅のサリーをまとった婚約者の笑顔が並んでいた──ふと浮かぶ未来の式場の景色に、頬がわずかに緩む。
「幸せの絶頂期って感じね」
レベッカが優しい表情で少し羨ましそうに反応する。
レオは淹れ待ちのドリッパーを眺めつつ、作業台の隅に立てかけたタブレットを指で弾いた。
ロック画面には、ピンクのヘルメットを被った娘が補助輪付き自転車を押す写真。
「寝不足仲間だな」
「こっちもエミリーが真夜中に『ユニコーンがベッドの下にいる』って泣きわめいてさ。結局二時間しか寝られなかった」
コーヒーポットに豆を詰めながら返答する。
「娘さん、もう3歳でしたっけ?」
マイク・チェンがモニターに視線を向けながら問いかける。
マグカップ代わりのメタルタンブラーには、古びたカブスのロゴステッカーが貼ってある。
マイクはレオに向き直り、にやりとする。
「寝不足なのは、そのあと昨晩の試合を観てたからじゃないですか?」
レオがタンブラーを軽く振りながら答える。
「ああ……まあ、逆転負けだったけど爽快だったぜ。九回裏でオオタニの満塁弾。あれにはガックリ来たね」
サミールが笑って頷く。
「オオタニはさすがに伝説だね。ハイライトだけで鳥肌が立ったよ」
「僕はもうむしろ清々して気持ちよく寝落ちできましたよ」
マイクはそう言って、タンブラーのふたを開けコーヒーのおかわりを催促するように掲げた。
「ちょっとあなた達、大事な演習の前日に夜更かしないでよね」
レオがクスッと笑いながら豆を量る。
「結果が全てさ、今年も君たちと組めたおかげでこうして勝利できた。素直に喜ぼうじゃないか」
「ええ、まあ。たかが演習での勝利にどんな意味があるかは置いておいてね」
レベッカが釘を刺す。
「それはそうだ」
マイクとサミールが同時に肩をすくめる。
「さて、豆は中煎りのグアテマラにした。これなら文句ないだろ?」
レオはこの仕事について早5年、すっかり慣れて自前のコーヒー豆を職場に持ち込むようになった。
業務に戻る前に自分用にこだわりの一杯を淹れ始めようとした、
──その時だった。
Slackの通知が端末とスマホで同時に鳴り響き、会話が途切れる。
「……ん?」
サミールが Grafana(OSS ダッシュボード)のグラフを眺めながら首を傾げる。
「US-West-2 のレイテンシ、ちょっと変だな。95 パーセンタイルで 2.1σ超過」
グラフの棒は徐々に橙から深い紅へ、まるで体温計が沸点に近づくようにじわじわと色を濃くしていく。
レオはゆっくりとコーヒーサーバーを置き、モニターに視線を戻す。
「他のリージョンは?」
「……正常値内です。でもこのパターン、普段のトラフィック変動と違う気がします。バックグラウンドジョブのスパイクでもないはず」
「PagerDutyは?」
「まだ発報してません。まあ、でも一応ログを……」
その時、室内に甲高い警告音が響き渡る。
> ALERT: High Latency Detected - us-west-2
> ALERT: Unauthorized OAuth Token Usage
> CRITICAL: Trust Store Override Detected (root store delta)
> WARNING: OCSP Response Anomaly (stapled responder mismatch)
> CRITICAL: CRL Distribution Poisoning Suspected
複数のモニタリングサービスから同時に警報が鳴り始め、赤く明滅する。
室内にいる全てのエンジニアとホワイトハッカー達に緊張が走る。
『Trust Store Override(信頼ストアの強制書き換え)』という前例のない文字列にアレックスは顔色を変えた。
マイクは素早くSlackチャンネルを切り替え、#incident-responseを開く。
キーボードを叩く音が激しさを増していく。
「一応確認しますけど、演習の続きじゃあないですよね……?」
マイクの声が少し震える。
「いや、トークンの発行元が不一致。kid 誘導で攻撃者の JWK に解決されてる」
「検証ライブラリのキー解決順序を悪用されたかもしれない」
「そんなの……検証側の穴を突かれてるってこと?」
レベッカは困惑しつつも、発信元の解析を始める。
管理AIが起動する
『カウンシルブラフデータセンターで異常を検知。LEO衛星ネットワークのヘルスチェックが失敗しています』
マイクは即座にターミナルを開き、緊急分離プロトコルを実行しようとする。
「まずは論理遮断で時間を稼ぐ」
> gcloud compute networks subnets update --enable-private-ip-google-access=false
Enterキーを叩く音が響く。
応答がない。
「え……?」
「発信元の座標、出ます!」
レベッカが忙しなくコンソールを叩きながら言う。
世界地図が拡大されていき、発信元のIPから座標が絞り込まれていく。
北アメリカ大陸の一部が徐々に拡大されていく。
「これって……」
「ああ……ここだ」
「内部にバックドアを仕掛けられた……!?」
「カウンシルブラフだけじゃない、本部が……ここが攻撃されてる!?」
レベッカが驚愕する。
制御室の照明が瞬き、全ての端末画面が暗転する。
警告音が鳴り、非常用電源に切り替わる際の一瞬の静寂。
空調が止まり、ひんやりしていた室内にこもった熱気がじわりと上がる。レオの首筋に汗が一滴、つっと走る。
レオはヘッドセットの通話ボタンを押し、管理AIに呼びかける。
「オラクル、こちらで信頼ストアの強制書き換えを確認。物理分離プロトコルを実行中だ。LEO衛星は手動でダウンリンクに切り替えられるか!?」
ノイズ混じりの音声が返ってくる。
『制御プレーンが乗っ取られたようです。バックボーン切断を最優先してください。幸運を祈ります』
レオは瞬時に事態を理解する。
「物理的な回線切断、今すぐだ!」
近くにいたエンジニアが制御パネルに駆け寄り操作を始める。が、電子ロックが作動し、アクセスを拒否される。
通電はされているが、管理コンソールは完全に応答を停止。
sudo権限が次々と剥奪され、rootアクセスが消失していく。
端末に打ち込まれるコマンドが、まるで霧の中に消えていくように効果を失っていく。
サミールが青ざめた顔で叫ぶ。
「内部APIが外部からの呼び出しを受け付けてる。ファイアウォールルールが全て上書きされてます!」
管理AIが今にも消えそうな音声で応答する。
『量子─通信の研究施設に────侵入─認───クラウドインフラが一部ダウン────本部との通信も──────』
幹部の一人が駆けつける。
「どうした!制御プレーンの手動切断はまだか!?」
「今やってます!」
サミールが叫ぶ。
「こんなのおかしい。いくらなんでも早すぎる」
「うちのがRSA暗号が10秒そこらで破られてる!スパコン使っても300年はかかる計算だぞ!」
マイクが小さく舌打ちする。
「クソが!」「こんなこと可能なのか!?」
サミールが呻くように声を漏らす。
「ダメだ……奪われる」
サミールが最後の瞬間までコンソールに齧り付きあらゆる手段を講じているが、どれも功を奏していない。
制御室の照明が完全に消え、非常灯だけが赤く明滅する中、全てのスクリーンに同じメッセージが浮かび上がる。システムフォントが歪み、まるでデジタルの腐食のように文字が崩壊する。
> BLACKOUT PROTOCOL INITIATED
ホワイトハッカーたちは皆言葉を失い、ただ立ち尽くす。
「おい、今からデータを移すことは出来ないのか!?」
幹部がやっと事態を把握したように彼らを責め立てる。
「権限が完全に書き換えられてます。残念ながら、こうなったら我々になす術はありません……」
「な……」
幹部は唖然とした表情で固まっている。
サイバーセキュリティは事前が99%。
ハッキングされてからできることなど高が知れている。
室内のエンジニア・ホワイトハッカーたちはそのことを承知し、険しい表情を浮かべていた。
彼らにできるのは、もはやこのインシデントのログを記録することだけだった。
世界最大のデジタルインフラを制御する数百台のモニターが、まるで夜空の星が一斉に消えていくように、一つ、また一つと、闇に飲み込まれていく。
サーバールームから伝わってくる振動が徐々に弱まっていく。
T₀ + 0 分。人類最大のデジタルインフラが、完全に沈黙した。
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