第10話 Hello, World!
午後2時。
とある小学校のコンピュータ室。
西日がブラインドの隙間から斜めに差し込み、古い蛍光灯の白色光と交わって、宙を舞う埃をスポットライトのように浮かび上がらせている。
列にならぶ古い液晶モニターはバックライトが経年劣化で黄みを帯び、静電気に吸い寄せられたプリントくずがベゼルに貼り付いている。
USBメモリが挿しっぱなしになった共有ハブが窓際に雑多に転がり、奥のレーザープリンタは紙詰まりを知らせる赤いランプを点滅させていた。
終業を知らせるチャイムが鳴る——金属的な余韻が天井を這い、ほどなく廊下の歓声と足音に溶けていった。
教室がざわつき始める。
「じゃあ、今日の授業は終わり!みんな、お家の人によく聞いて今日作った新聞の続きを作ってきてください。忘れないようにね!」
教壇に立つ担任の先生は、優しい笑顔を浮かべながらも、どこか疲れた様子が見て取れる。肩までの髪をきちんとまとめ、眼鏡の奥から生徒たちを見守るその姿は、母親のような温かさを感じさせる。
「よっしゃ、ドッチボールしに行こうぜー!」
「行こう行こう!」
イスを鳴らして立ち上がった少年たちが列を成し、上履きの擦れる音を残して教室の外へ雪崩れ出ていく。ふと振り返った一人が残った生徒に向かって声を張った。
「和季も行かねーの?」
「いーよあいつは。パソコンが友達なんだろ、な? ワハハ!」
誇らしげな背中を揺らしながら廊下へ消えていった彼らを、和季はまったく意に介さない様子で見送った。廊下の向こうで体育館シューズがタイルを滑る乾いた音が遠ざかり、やがて鼓膜にこもる静寂が戻った。
PCに向き合って一人で何か黙々と作っている和季。
ディスプレイの光だけが彼の顔を白く照らす。
「……俺が好きなのはパソコンじゃなくてコンピュータな」
「あとドッチボールじゃなくてドッジボールだっつうの」
喋りながら一人でカタカタとキーボードを叩いている。
別の机の前では、女子生徒がPCとにらめっこしながら「うーん……」と小さく唸っている。
小学校6年生にしては既に目鼻立ちが整った端正な顔。
その顔の持ち主は眉を曲げ、目を細めてPCと睨めっこしている。
思案して時々唸りながら、たまに人差し指でキーボードを叩いては画面を見比べる。
和季は彼女の名前を知っていた。
百瀬夏希。
父親が有名な学者で、和季自身も学術書としては異例のミリオンセラーとなった彼の著書を読んだことがあった。
どうやら夏希は今日の宿題に四苦八苦しているようだ。ブツブツと独り言をこぼしている。
著名な学者の娘といえど、この程度か。和季はそれを見て、少しだけ安心した。
和季は指を止めずにちらと視線を向け、彼女の独り言がアヒルのおもちゃに向けたものだと気づく。
机の上に置かれた掌サイズのラバーダックが、蛍光灯の光を受けて艶やかに黄色い輪郭を際立たせていた。
そうしているうちに和季は自分が作業に集中できていないことに気づいた。
周りの様子をキョロキョロと見回す。
そして、ポケットの中に隠していたイヤホンケースを取り出した。
それをスマートフォンに繋ぎ、音楽を流し始める。
和季がイヤホンを耳に付けたちょうどその時──
「ねえ……何やってるの?」
夏希の顔が目の前にあった。
突然の距離の詰め方に戸惑い、和季は椅子ごとわずかにのけぞる。
「え、ああ、これ、ただの耳栓!」
和季は真っ白な頭で即席の言い訳を口にした。
「いや、そうじゃなくて……これ」
夏希は和季のPCの画面を呼びさす。
和季のPC画面には、カラフルなインターフェースが広がっていた。画面の中央には、仮想の新聞のトップページが表示されており、見出しがいくつも並んでいる。各記事のタイトルは、和季のクラスメイトたちが書いたもので、彼らの個性が垣間見える内容だ。
「あ、ああ……これはさっきの新聞のWeb版……。まだローカルでしか見れないけど、URLでアクセスできるようにして、みんなが書いた記事をここに載せられるようにすれば面白いかなって──」
「えええええ!!!すごい!!!和季くんプログラミングできるの!??」
「うち、ただの根暗なオタクだと思ってた!」
失礼だな、と和季は内心舌打ちする。だが女の子は純粋に目を輝かせている。
「すごいね、和季くん、うちのお父さんみたい」
「お、あ、ありがとう」
「うちさ、お父さんが忙しくて全然会えないんだけど、この間プラグラミング教えてもらったんだー!はろーわーるどってやつ!」
「へえー、そう」
和季は適当に相槌を打ちながら、画面に視線を戻した。
「じゃあ、僕はこれ作るから、また」
和季は再びPCに向かってキーボードを叩き始める。
夏希は横の席に腰を下ろし、手に持っていた黄色いラバーダックを机の中央に“ぽふっ”と置くと、つまらなさそうに頬をデスクに押し当てた。
「和季くん全然話してくれないね、ぷかりん」
「そうだね、夏希ちゃん。夏希ちゃんが勇気を出して話しかけてあげてるのに失礼だね」
夏希は口の前にラバーダックを近づけ、声をワントーン落とし──普段のハイトーンな声とは打って変わって──わざと低く太い声で腹話術風に応える。
「そうそう、夏希ちゃんは頑張って話しかけてるのに、その和季くんって子は全然愛想がないねぇ」
「やっぱり夏希ちゃんと違って他の子に興味ないのかな、パソコンしか友達いないのかな?なんだか可哀想だね」
「うふふ、ぷかりん。それは言い過ぎだよ」
「……」
和季は振り返ることなく、画面に向かったままため息を一つ吐いた。
キーボードを叩く手は止まらないが、肩の力が微かに抜け、呆れたような表情が顔に浮かぶ。
(……こいつ、本当に天然なのか計算なのか分からん)
夏希の一人二役に、和季は内心で苦笑いを浮かべた。
「お前って、いつもそのアヒル持ってるよな」
「これ?良いでしょ?」
夏希は黄色いラバーダックを胸の前で両手で包み込むように抱え、少し背筋を伸ばして誇らしげに微笑んだ。まるで大切な宝物を見せびらかすような、でもどこか恥ずかしそうな表情で頬が薄っすらと赤らんでいる。
「お母さんがくれたんだ」
「なんか悩んでる時とか、ぷかりんと話してるといつの間にか解決してるの」
「……はあ、良いけど。あんまり人前でそれに話しかけない方がいいぞ」
「変な奴って思われるから」
「ええ!なんでえ!?」
ぷかりんを掲げた夏希がむくれる。
「ぷかりん、和季くんってデリカシーないのかしら?」
「そうだよね、夏希ちゃん。自分もパソコンに話しかけたりしてるのにね。それって自分のこと棚上げしてるよね」
夏希が再び一人二役を始める。
「仕方ないよぷかりん。きっとイヤホンで周りの世界を遮断しないと生きてけないんだから」
「ぎくり」と和季は息を吐き、そのまま机に向かって背中をつく。
「あーはいはい、悪かったよ俺が」
「ぷかりん辛辣すぎだろ。加減をしろ加減を」
「うふふ」
夏希が悪戯な笑顔を浮かべる。
「それで?えっと……夏希さんは何ができなくて困ってんの?」
#####
放課後のパソコン室。
夕陽が西向きの窓から差し込み、二人の影が長く床に伸びている。
「あー、やっぱりここの構文がおかしいじゃん」
和季がキーボードを叩きながら指摘する。
「えー、そんなのわかんないよ」
夏希が頬を膨らませて反論する。
「セミコロン忘れてるし、カッコの対応も間違ってる。基本中の基本だろ」
「基本中の基本って言われても、私プログラミング習ったことないもん!」
「だから今教えてるんだろうが」
「もっと優しく教えてよ〜」
机の上では黄色いラバーダックが、二人のやり取りを見守るように置かれている。
モニターには緑色の文字でコードが流れ、時折エラーメッセージが赤く点滅する。
「ほら、ここをこう直して……」
「あ、動いた!」
「まだまだだけどな」
空調の音と、遠くから聞こえる部活動の声。
二人の声が重なり合い、夕暮れのパソコン室に響いていく。
モニターの片隅で緑色のカーソルが静かに瞬き、夕闇に沈む教室で小さく点滅を続けていた。
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