名もなきわたしと毒花の姫
東堂杏子
郭の用心棒
第1話
おしろいの匂いがする。
わたしは窓から街を見おろした。
西陽が眩しい橙色の並び。宵の刻にはまだ遠いけれど、遊郭にはすでに赤い灯りがともっている。女の声がする。男の声がする。厨房から漂う肉料理の匂い。宴会の気配が漂ってくる。
どこからともなく人が増えてきた。
遊郭では連れ立って歩く男同士も艶めかしい。淫靡に色づいた秋風をわたしは吸う。木製の窓枠に顎を乗せて目を閉じる。
ここは北大陸のなかでもっとも幼弱な国、イグルス。
二百年前に大陸皇帝に封じられた最後の国。
すでに帝国は崩壊し、各地の領主がそれぞれ国王を名乗るようになって百五十年。いくさばかりの大陸で、覇気もなくその日暮らしを続けているどうしようもないイグルス国。
その国都タァリス。
堕落して衰退した都なのかと思えばそうでもなかった。人々の眸は黒く輝いている。女は朗らかでよく笑い、男は陽気で娯楽好き、遊郭は毎晩大盛況で命の営みは盛んだ。つまり堕落しているわけでも衰退しているわけでもない。ただどうしようもなくいくさが苦手だというだけ。街中ではまともに剣を扱える者はなく馬に乗れる者も少ない。民がいくさを知らず、知りたいとも思っていない。
素晴らしい。
だからこそ傭兵には都合が良いのだ。
「そうだ、用心棒の娘さん。あんたの名前を聞いていなかったわね」
わたしの背中を娼婦が呼んだ。
振り返って曖昧に笑ってみせる。
「わたし、名前はないの」
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