赤白三本煙突とソーセージパンと、ぼくらの便所工場

@morimori19

子どものころ確かに存在した記憶

忘れたはずの記憶が、ある日ふいに戻ってくる。

ぼくにとっては、それが「便所工場」のことだ。


秋田の田舎で育ったぼくの町には、下水が整備されていなかった。

だから、どの家にも汲み取り車が来ていた。大きくて、臭くて、でも当たり前に走っている車。

その汲み取り車が毎夕決まって、東へ消えていくのを見ていた。

カラスや夕日とは逆のほう。町の奥、誰も近づかない、あの巨大な赤白三本煙突のある工場のほうへ。


「絶対、あれは便所工場に行ってる」


ぼくたちはそう決めていた。

暗くて、臭くて、何かとんでもないことが隠されてる、秘密の施設。

それを突き止めるのが、ぼくたちの“冒険”だった。


土曜日。昼過ぎにランドセルを「気をつけー」みたいに玄関框にそっと立てかけて、チロに「またね」って言って、家を出る。

今日も、あの西野パン工場に行くんだ。


西野パンは、便所工場とはまるっきり反対方向。

世界の最西端みたいな、あの遠い遠い場所にある。自転車で8分。

だけど、行かない理由がない。だってスパゲティパンがあるんだ。ソーセージパンもある。50円ずつ。

耳がついてて、ちょっとだけまずいサンドウィッチもついでに買う。


それらを、自転車のぶらぶら揺れる前カゴに入れて、ぼくとユタカは出発する。

佐野の分も忘れずに買って。佐野は家で待ってる。

みんなジャムパン嫌いだけど、佐野は好き。でも西野パンだったらソーセージパンなんだよね。


佐野の家に寄ると、変速ギアを駆使して飛び出してくる。

いつも少し顔が引き攣ってて、強くもないのに偉そうにしてる。

でも佐野には誰も逆らえない。年下ならなおさら。

ぼくも、兄ちゃんたちがガチヤンキーだったからか、同学年ではNo.2くらいの存在感があった。

小さくて、成績も運動もできて、ラグビーでも将来を嘱望されてるような――そんなキャラだった。

でも実は、ぼくには“親友”と呼べる存在は少なかった。


佐野は工務店の長男で、大きな家に住んでた。

最新のボードゲームはほとんど持ってたし、口を開けば誰かを小馬鹿にしていた。

ある日、その家が突然空になった。家族ごと、ペットごと、いなくなった。

その後に住んだのは、元従業員だった人。なぜかもっと威張ってた。


佐野がいなくなった翌日、彼が「人生ゲームいる?」って言ってきたのを思い出す。

顔は、いつものように引き攣っていた。

「ありがとう」って受け取ってあげればよかったのに、ぼくは、うまく言えなかった。


便所工場のシンボル巨大な赤白三本煙突は、その家から東へ20kmぐらい。

脇本の海を見て、左、東側にずっと進んでいく。

やがて南へ湾曲する道に出るが、三本の赤白の煙突はずっと遠いままだ。


汲み取り車の臭いは、耐えがたいほどだった。

でも、道で出会うと、“いいこと”が起きると信じられていた。実際にも。


一番覚えているのは、友美ちゃんがアポロチョコをくれたとき。

ぼくも彼女も、お互いに好きだった。

中学生になって、別の小学校の友達に「友美なんか好きなのー!」って笑われた。

その瞬間から、なぜか距離ができた。


大人になって、ぼくの妻が子どもの治療で病院に行ったとき、偶然そこに友美ちゃんがいた。

保険外の薬の情報を教えてくれた。

家に帰って、妻に「昔、あの子のことを好きだったのは、この時のためだったのかも」と言った。

言わなきゃよかった。


ユタカは、佐野のことがずっと嫌いだった。

一緒にいると、いつも顔が引き攣っていた。

ユタカはちょっとヤンキーだったけど、本物の番長ではなかった。

ポマードの匂いをさせて、兄貴の真似をしていた。


ぼくのことを、とても好いてくれていた。

話しかけてくるときの満面の笑みは、いつだって嬉しかった。

だけど、あの少し粗暴なところが苦手だった。

言えなかったから、距離を取るようになった。


その後、暴走族を卒業した彼は結婚して子どもができて、離婚して、自ら命を絶った。

ぼくは何もしていない。何も言わなかった。


ぼくら三人は、三本煙突を目指して、便所工場へ向かった。

生まれた街の端を少し超えたとき、そこに、きれいな建物があった。


巨大な赤白三本煙突は、まだずっと東の方なのに。


11台の汲み取り車が並んで、静かに停まっていた。

異臭なんてしない。汚物処理場のパンフレットまで用意されていた。


「あれ? チロの散歩コースの少し先じゃん」


ぼくらは、パンフレットを持って帰った。

ああ、ここまでだったんだ。

でも、それは少しもがっかりじゃなかった。

むしろ、心の中で何かが「完結した」気がした。


あの時、ぼくらは確かに世界の秘密を解き明かそうとした。

それは、くだらなくて、何も起きなくて、全然格好よくなかったかもしれないけど、

それでもぼくにとっては、何よりまっすぐな冒険だった。


物語の主人公になれた気がした。

そして、何十年たった今でも、なぜかそれは心の中の大事な大事な場所にある。


便所工場は、ほんとは、ちょっと先にあった。

でも、それを知らないあの頃のぼくらには、もっと遠くて、もっと眩しかったんだ。

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