第16話 息子が母の代わりに売却相談してきた家

第16話 息子が母の代わりに売却相談してきた家



春の午後、なごみ不動産の売買営業部に、一本の電話がかかってきた。


「実家の家を売りたいんです。できるだけ早く、現金化したい」


電話の主は佐野健介(さの けんすけ)、40代半ばの男性。

物腰は丁寧だが、どこか焦りの滲む声だった。


対応したのは、売買営業部の新卒3年目の社員、山口優斗(やまぐち ゆうと)25歳。

実直で真面目だが、経験はまだ浅い。



健介が売りたい物件は、築30年の一戸建て。


内覧を終えた山口は、立地も状態も悪くないと判断し、買い手を探し始めた。


「母と住んでいた家なんです。母は今、老人ホームにいますが……母も納得してます」


所有者が高齢や遠方の場合、親族からの売却相談はよくある話である。


所有者と不動産屋で取り交わす売却依頼を受ける契約(媒介契約)を健介と交わした。


山口は、不動産情報サイトに物件情報を出して買い手を探し始め、立地や価格などの条件が良い事もあり、すぐに買い手も見つかり、依頼者である健介も同席の上、買主との売買契約も無事に済んだ。


あっという間の契約に、社内でも「よくやったな!」と声がかかった。



だが売買契約締結の数日後、一通の内容証明が届いた。


——差出人は、「所有者の母」名義の代理人弁護士。


《本人は認知症を患っており、契約の意思能力がありません。従って、売買契約は無効です》


社内に緊張が走った。


山口は慌てて調べ直した。

——確かに、家の登記名義は母親。

——健介は、息子であるが成年後見人ではなかった。


「……俺、やっちまいました……」


山口は、課長である村上に頭を下げた。

村上は険しい顔で叱責する。


「基本中の基本だ。所有者の意思確認は、不動産営業の“肝”だぞ!」



静まり返った会議室に、ふと声が響く。


「村上課長。責任は私です」


それは、直属の上司、主任の小田切だった。


「山口に任せっきりにして、最終確認を怠った。チェック体制の不備は、私の管理ミスです」


その言葉に、山口は顔を上げられなかった。

——悔しさ、情けなさ、そして……感謝。



翌日、村上と山口は手土産を持って、買主の家に行き、契約解除の事情を説明した。


幸い、買主さんも事情を理解してくれ、クレームにならずに済んだ。


「残念です。しかし山口さんが一生懸命にやってくれたので、次も私たちに会う物件を探してください!」と改めて物件探しを受けた。



数日後、小田切は山口を昼休みに誘った。


「お前、悔しいか?」


「……正直、はい。でも……小田切主任が庇ってくれたこと、忘れません」


「俺も昔、似たような失敗したんだ。あのとき先輩に言われた。

“ミスをしても、お前の価値が下がるわけじゃない。隠したり、逃げたりした時に、人は信用を失う”ってな」


山口は静かにうなずいた。



不動産の仕事は、単に「物件を扱う」ことじゃない。

その裏には、人生や、家族や、過去の積み重ねがある。


そして、人と人との“信頼”もまた、

契約書には書かれない、大切なものだ。


次回、第17話'「再会のグラウンド」

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