第9話『副会長ハルカの介入』
執行3時間前。
私とアラタが執行室への廊下を歩いていると、生徒会室から声が聞こえてきた。
「待ちなさい」
三条ハルカだった。
黒髪を完璧に整え、制服を一分の隙もなく着こなした彼女は、いつも通り冷たい微笑を浮かべていた。でも、メガネの奥の瞳は笑っていない。
「最後の確認をさせてもらうわ」
「確認?」
私が聞き返すと、ハルカは手にした書類を掲げた。
「再審査の申請が、先ほど受理されたの」
アラタの表情が険しくなる。
「今更何を——」
「あら、アラタ様。そんなに急いで記憶を消したいの?」
挑発的な口調。でも、その声には別の感情が滲んでいた。
「まあいいわ。とにかく生徒会室へ」
有無を言わせない雰囲気だった。監視役の生徒たちも、副会長の権限には逆らえない。
重い足取りで、生徒会室に入る。
「座って」
促されるまま、ソファに腰を下ろす。アラタは私の隣に座ったが、距離を保っていた。
「単刀直入に言うわ」
ハルカは私たちの向かいに座り、足を組んだ。
「結城ユイ、あなたの涙は演技だったんじゃない?」
「は?」
思わず声が出た。何を今更——
「証拠があるのよ」
彼女はタブレットを操作し、画面を見せた。そこには私の過去の成績表が表示されていた。
「中学時代、演劇部」
「それが何——」
「主演女優賞、3年連続受賞」
ハルカは淡々と読み上げる。
「特に評価されたのは、『涙の演技』。審査員のコメント——『まるで本物と見分けがつかない、完璧な涙』」
血の気が引いた。
確かに、私は演技が得意だった。でも——
「つまり」
ハルカは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あなたの涙も、計算された演技だった可能性がある」
「違う!」
思わず立ち上がる。
「アラタへの気持ちは本物です! 演技なんかじゃ——」
「証明できる?」
冷たい一言に、言葉を失う。
感情は証明できない。だからこそ、涙の成分分析なんて方法を使っているのに。
「面白いことを教えてあげる」
ハルカはゆっくりと立ち上がった。
「実は、涙の成分は意図的に操作できるの」
「え……?」
「特定の思考パターンを繰り返すことで、脳内物質の分泌をコントロールする。あなたみたいな演技の天才なら、可能でしょうね」
そんなこと、考えたこともなかった。
「だから」
彼女は私に近づいてくる。
「もう一度、確認が必要なの。あなたの感情が本物かどうか」
「どうやって」
「簡単よ」
ハルカは残酷な笑みを浮かべた。
「アラタ様を、別の女と契約させる」
「——!」
「そして、あなたの反応を見る。本当に愛しているなら、きっと——」
「やめろ」
アラタが低い声で遮った。
「もう決まったことだ。蒸し返すな」
「あら」
ハルカはアラタの方を向いた。その瞬間、表情が変わった。
「心配しなくても、あなたの記憶は消させないわ」
「何?」
「だって」
彼女は一歩、また一歩とアラタに近づく。
「あなたには、もっとふさわしい相手がいるもの」
そして——
ハルカは自分の胸に手を当てた。
「私よ」
空気が凍りついた。
「……ハルカ」
アラタの声が震えた。
「お前、まさか」
「思い出した?」
彼女の瞳から、一粒の涙がこぼれた。
「2年前のこと」
2年前。
アラタが2年生、ハルカが1年生の時。
「私たち、契約していたわよね」
ハルカの声が震える。
「あなたは優しかった。演技だって分かっていたのに、私は本気で恋をした」
「だから、記憶消去を——」
「そう、受けたわ」
彼女は眼鏡を外し、涙を拭った。
「でも、完全には消えなかった」
薬、と私は思い出した。記憶保持の薬。アラタが持っていたのと同じような——
「断片的にだけど、覚えてる」
ハルカの声が、だんだん感情的になっていく。
「あなたの優しさも、温かさも、全部」
「ハルカ、それは——」
「演技だったって、分かってる!」
彼女は叫んだ。
「でも、忘れられない! この気持ちは消えない!」
生徒会室に、ハルカの慟哭が響く。
「だから、せめて」
彼女は私を睨みつけた。
「あなただけでも消えて。アラタ様の隣から」
憎しみと、愛情と、執着が入り混じった瞳だった。
「私なら、大丈夫だから」
ハルカは壊れた笑顔を作る。
「もう一度記憶を消されても、また思い出す。何度でも、あなたを愛し続ける」
狂気だった。
でも、その気持ちは痛いほど分かった。
愛する人を忘れることの恐怖。
それでも愛し続けることの苦しさ。
「ハルカ」
私は口を開いた。
「あなたの気持ち、分かる」
「はあ?」
「だって、私も同じだから」
ハルカの顔が歪む。
「一緒にしないで! あなたなんて、たかが1ヶ月——」
「期間は関係ない」
静かに、でもはっきりと告げる。
「1ヶ月でも、2年でも、愛する気持ちに違いはない」
「黙れ!」
ハルカが手を振り上げた。
でも、その手は震えていた。
「なんで……なんであなたなの」
崩れ落ちるように、彼女は膝をついた。
「私の方が、ずっと前から……」
アラタが動いた。
ハルカの前にしゃがみ込み、静かに言う。
「すまなかった」
「……え?」
「2年前も、今も、お前を傷つけた」
彼の声は、本当に申し訳なさそうだった。
「でも、ハルカ」
アラタは真っ直ぐ彼女を見つめた。
「俺が愛しているのは、ユイだ」
決定的な一言だった。
ハルカの顔が、みるみる青ざめていく。
「そんな……」
「だから、もう終わりにしよう」
アラタが立ち上がる。
「再審査は必要ない。予定通り、記憶消去を受ける」
「待って!」
ハルカが必死に手を伸ばす。
「お願い、行かないで! 私、私は——」
「副会長」
監視役の一人が、静かに声をかけた。
「執行時間が迫っています」
現実に引き戻される。
ハルカは震えながら立ち上がり、最後に私を見た。
憎しみと、諦めと、羨望が入り混じった瞳。
「……いいわ」
かすれた声で呟く。
「どうせ、みんな忘れるんだから」
そして、壊れた人形のように笑った。
「でも覚えておいて」
最後の言葉は、呪いのようだった。
「忘れても、苦しみは消えないから」
執行まで、あと2時間。
生徒会室を出る時、振り返ると、ハルカは一人机に突っ伏していた。
その肩が、小さく震えていた。
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