第3話『演技じゃないキス』



——回想:1ヶ月前——


「は?私が、七瀬アラタ様の契約者!?」


生徒会室で、信じられない通知を受け取った。手が震えて、端末を落としそうになる。


「繰り上がり当選よ」三条ハルカ副会長が事務的に説明する。「本来の当選者が急遽辞退したから、次点のあなたに」


次点。つまり、補欠。


最下位ランクの私なんかが、学園トップの推し様と契約するなんて。


「あの、やっぱり辞退を——」


「却下」


ドアが開き、本人が入ってきた。七瀬アラタ。白銀の髪、青い瞳、そして近くで見ると信じられないほど整った顔立ち。


「せっかく当選したんだ。辞退する理由はないだろう」


アラタが私を見下ろす。視線が冷たすぎて、凍りつきそう。


「で、でも、私なんかが務まるとは——」


「務まるかどうかは、やってみなければわからない」アラタはハルカに目配せする。「契約書は?」


ハルカが分厚い書類を差し出す。推し婚制度契約書。これにサインしたら、一年間、アラタの恋人役を演じることになる。


「第七条をよく読んで」ハルカが重要箇所を指差す。「本物の恋愛感情を持つことは、契約違反です。あくまで演技として——」


「わかってます」


震える手でペンを握る。サインをする瞬間、アラタと目が合った。


「結城ユイ、だったな」


「は、はい」


「一つだけ言っておく」アラタの声が急に低くなる。「俺を好きになるな。それだけは、絶対に守れ」


なんて傲慢な——と思ったけど、顔に出さないようにする。


「大丈夫です。演技なら、得意ですから」


嘘だった。演技なんて、やったこともない。


でも、プライドが邪魔をして、つい見栄を張ってしまった。


「そうか」アラタが小さく笑う。「なら、早速始めようか」


「え?」


「初回レッスン。推し婚の基本から教える」


そう言って、アラタは私の手を取った。


初めての、スキンシップ。


手、冷たい——。


それが最初の印象だった。



初回レッスンは、学園の中庭で行われた。


「まず、手を繋ぐ」アラタが説明する。「推し婚の基本中の基本だ」


私たちは、ベンチに並んで座っていた。周りには他の生徒たちもいて、注目を集めている。


「あれ、アラタ様の新しい契約者?」「地味じゃない?」「なんで最下位ランクが……」


ひそひそ話が聞こえてくる。消えたい。


「気にするな」アラタが言う。「一週間もすれば慣れる」


「アラタは、視線とか気にならないんですか?」


「慣れた」


さらっと言うけど、きっと最初は大変だったはず。学園の頂点に立つって、そういうこと。


「ところで」アラタが急に顔を近づけてくる。「手、ちゃんと繋げてないぞ」


見下ろすと、確かに私の手はアラタの手の上に乗せてるだけ。指も絡めていない。


「だって、恥ずかしくて……」


「演技が得意なんじゃなかったのか?」


皮肉めいた笑みを浮かべられて、カチンとくる。


「わかりました!」


勢いよく、アラタの指に自分の指を絡める。


温かい。


さっきは冷たいと思ったのに、今度は温かく感じる。不思議。


「よし。次は、もっと自然に」アラタが指導する。「恋人同士なら、もっとリラックスして」


「は、はい」


でも、リラックスなんてできるわけがない。アラタの手は大きくて、私の手をすっぽり包んでしまう。


「力、入りすぎ」


「す、すみません」


「謝るな。恋人同士で謝罪は変だろう」


「でも——」


「『でも』も禁止」アラタが私の手を軽く握る。「否定から入るな。肯定的に」


「は——わかった」


「そう。その調子」


アラタが小さく微笑む。営業スマイルじゃない、本当に小さな、でも優しい笑み。


心臓が、どきっとした。


ダメ。これは演技。アラタの笑顔も、手を繋ぐのも、全部演技。


「次のステップ」アラタが立ち上がる。「歩きながら手を繋ぐ」


「え、もう!?」


「何か問題でも?」


問題しかない。立ち上がると、身長差が如実にわかる。アラタは背が高くて、私は見上げる形になる。


「行くぞ」


アラタに手を引かれて、歩き始める。周りの視線が痛い。


「アラタ様と手繋いでる……」「信じられない」「どんな手使ったの?」


聞こえてくる声に、足がもつれそうになる。


「結城」


アラタが急に立ち止まる。


「周りを気にしすぎだ。俺だけ見てろ」


「で、でも、みんなが——」


アラタが、私の顎を指で持ち上げる。強制的に、彼と目が合う。


「俺の恋人なら、俺以外を見る必要はない」


演技。これも演技。でも、アラタの青い瞳に見つめられて、頭が真っ白になる。


「わ、わかりました」


「よし」


また歩き始める。今度は、本当にアラタだけを見ていた。横顔、きれい。


「そういえば」アラタが言う。「なぜ推し婚に応募した?」


「え?」


「最下位ランクなら、当選確率は限りなく低い。なのに応募した理由は?」


正直に言うのは恥ずかしい。でも、嘘をつく理由もない。


「アラタに、憧れてたから」


「……ほう」


「入学式で、新入生代表挨拶をしてたでしょう?あの時から、すごい人だなって」


一年前の記憶。アラタは当時から学園の頂点で、完璧な挨拶をしていた。


「それで?」


「それで、その……少しでも近づけたらって」声が小さくなる。「バカみたいですよね。最下位が何を夢見てるんだって」


「バカじゃない」


アラタの即答に、顔を上げる。


「憧れは、悪いことじゃない。ただ——」アラタの表情が曇る。「憧れと恋は、違う。そこを間違えるな」


「もちろんです」


その時は、本当にわかっているつもりだった。



一週間後。放課後の音楽室。


「今日は、次のステップ」アラタが言う。「キスの練習」


「き、キス!?」


椅子から飛び上がりそうになる。


「推し婚では必須スキルだ」アラタは冷静。「公の場でも自然にできるように」


「で、でも、いきなりは——」


「段階を踏む。まずは、頬から」


アラタが近づいてくる。逃げたいけど、足が動かない。


彼の顔が、どんどん近づいて——


「待って!」


思わず、アラタの胸を押してしまう。


「……何だ」


「心の準備が」


「準備も何も、ただ頬に唇を当てるだけだ」


そう言われても。人生初のキス(頬だけど)が、演技だなんて。


「目、閉じていいですか」


「好きにしろ」


ぎゅっと目を閉じる。アラタの気配が近づいてくる。シャンプーの香りがする。いい匂い。


そして——


ちゅ。


本当に一瞬。頬に、柔らかい感触。


目を開けると、アラタはもう離れていた。


「どうだ」


「あ、あの」頬が燃えるように熱い。「もう一回」


「は?」


「よ、よくわからなかったので、もう一回お願いします」


嘘だった。しっかりわかった。でも、なぜかもう一回して欲しくて。


アラタが呆れたような顔をする。


「仕方ない」


今度は目を開けたまま。アラタの顔が近づいてくる様子を、全部見ていた。


長いまつげ。整った鼻筋。そして——


ちゅ。


今度は、さっきより少し長い。


「これで理解したか」


「は、はい」


でも、心臓がうるさすぎて、何も理解できていない。


「次は、唇だ」


「え」


「二週間後の学園祭で、人前でキスシーンがある。それまでに慣れておく必要がある」


学園祭。推し婚カップルの恒例イベント。みんなの前で、愛を誓い合う。


「練習、しないとダメですか」


「当然だ」アラタが真顔で言う。「下手な演技は、すぐバレる」


「でも——」


「怖いのか」


挑発するような口調。また、カチンとくる。


「怖くないです!」


「なら、やるぞ」


アラタが、また近づいてくる。今度は、唇を狙って。


ダメ。心臓が壊れる。でも、逃げたら負けた気がして。


目を閉じる。


アラタの手が、私の頬に触れる。優しく、顔の角度を調整される。


「力、抜け」


「は、い」


でも、全身がガチガチ。


アラタがため息をつく。


「結城」


「はい」


「これは演技だ。ただの練習。深い意味はない」


わかってる。わかってるけど。


「だから、リラックスしろ。じゃないと——」


アラタの声が、急に優しくなる。


「じゃないと、お前が辛いだろう」


え?


目を開ける。アラタが、困ったような顔をしていた。


「無理にとは言わない。もう少し、時間をかけるか」


「……アラタ」


「何だ」


「キス、してください」


アラタの目が見開かれる。


「演技の練習です。ちゃんとやらないと、アラタに迷惑かけちゃうから」


建前。でも、本音は違った。


アラタの優しさに触れて、もっと近づきたいと思ってしまった。


「……そうか」


アラタが、もう一度私の頬に手を添える。


「じゃあ、行くぞ」


「はい」


目を閉じる。


時間が、ゆっくり流れる。


アラタの息が、唇にかかる。


もうすぐ、もうすぐ——


そして。


唇が、重なった。


柔らかい。温かい。そして、優しい。


演技のはずなのに。練習のはずなのに。


心臓が、壊れそうなほど高鳴る。


アラタの手が、私の頬を包む。キスが、少しだけ深くなる。


ダメ。これ以上は——


「っ!」


アラタが急に離れる。息が荒い。


「ア、アラタ?」


「見ろ」


アラタが自分の端末を見せる。能力値測定画面。


数値が、激しく上下している。


「お前の感情に、反応してる」アラタの声が固い。「このままだと、周りにバレる」


私の感情。つまり——


「ご、ごめんなさい!」


「謝るな」アラタが端末をしまう。「初回にしては、上出来だ」


でも、アラタの顔は青ざめている。


きっと、私の感情が強すぎて、アラタの能力に影響を与えてしまった。


「本当に、ごめん——」


「だから、謝るなと」


アラタが、私の頭をぽんと撫でる。


「次は、もっと上手くやる。それでいいだろう」


「でも、私の感情が——」


「コントロールの仕方を教える」アラタが真剣な顔で言う。「感情を完全に消すんじゃない。適度に抑える方法を」


「できるんですか、そんなこと」


「できる。俺が教える」


アラタの瞳に、決意の光が宿っていた。


「お前を、完璧な恋人役にしてやる。演技のプロに」


その言葉が、なぜか悲しく聞こえた。


だって私は、もう——


演技じゃない。


さっきのキスで、確信してしまった。


私は、七瀬アラタに恋をしている。


でも、それは誰にも言えない秘密。


「よろしく、お願いします」


笑顔を作る。これも演技。


アラタは知らない。


私が既に、取り返しのつかない感情を抱いてしまったことを。


あの演技じゃないキスが、すべての始まりだったことを。


(第3話・完)

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