影より深く、月より手前

夜長

第1話「夜が明ける時」

彼は走っていた。

 靴は片方脱げていたし、服のあちこちは枝に裂かれ、泥に塗れていた。

 そして何より、彼の背中は血だらけで、そこからは黒光りする翼が、異常なまでに大きく揺れていた。咳とともに吐いたものは、血だったか、それとも叫びだったか。定かではない。とにかく彼は——エズラ・クロスは走っていた。

 

 エズラ自身、何故逃げているのか、何から逃げているのかはわからなかった。なにしろ、もうかれこれ三日は走り続けているような気がしていたし、疲労と痛みで思考はとうに霞んでしまっていた。

 

 夜の帳はずいぶん前に降りていて、森は濃い闇に沈んでいた。足元すら見えず、空を仰いでも、月の光がただ眩しすぎた。それは、あまりにも明るすぎて、そして、あまりにも遠すぎて、あまりにも冷たかった。

 

 そんなときだった。視界の先に、淡い光が揺れているのが見えた。それは、小さな灯り。まるで人が持つランプのような明かりが、森の奥から近づいてくる。

 

 エズラは、それすらも恐ろしかった。ただの光、ただの人間の気配かもしれないのに、彼は本能的に逃げようとした。

 

 だが、体はもう限界を超えていた。足がもつれ、道端の石につまずき、彼は冷たい土の上に崩れ落ちた。

 

立ち上がる力も、声を上げる力も残っていなかった。

 ただ耳元で、確かに聞こえる。ざり、ざり、と重い足音。草を踏む音。やがて、光が目の前までやってくる。

 

 その瞬間、エズラの視界は、静かに、黒く霞んでいった。

 

  エズラが微かに意識を取り戻した時、彼は何か大きなものの上で揺られていた。

 それは暖かく、まるでかつてのゆりかごの中を思い出させるような揺れだった。

 善意ばかりの、ぬくもり。それが彼の勘違いであったとしても、この痛みの前では、その勘違いに身を任せるほかなかった。


 今度こそはっきりと目を覚ました時、そこにはやはり、見知らぬ天井があった。

 エズラはゆっくりと上体を起こし、辺りを見渡した。

 上等そうな寝具、締め切られたレースのカーテン、そして綺麗な服に着替えさせられている自分。


 少なくとも、ここが金持ちの家であることはすぐに理解できた。

 だが、エズラにとって問題なのはその先だった。この家の主人が、善人か、悪人かということ。

 彼の掠れた記憶の奥には、いくつもの消えない黒がこびりついていた。そこに現れる金持ちたちは、決まって欲のままに他人を喰らい尽くす獣だった。


 その考えが頭をよぎった瞬間、エズラは急いで部屋の鍵付きの扉へと駆け寄った。

 息を呑みながら、ドアノブをそっと回す。……案外、すんなりと開いた。

 彼は慎重に廊下へ出て、静かに階段を降り始めた。


 家の中は薄暗かった。昼間だというのにカーテンはすべて閉め切られており、空気には埃っぽい、どこか廃墟めいた匂いが漂っていた。

 

 玄関と思われる扉の横には、リビングらしき空間があった。

 その中を静かに覗くと、そこには──おそらくエズラを運んできたと思しき男が……いや、大男が、静かに椅子に座っていた。


 玄関からの脱出は難しいと判断したエズラは、身を引き、近くの大きな窓へとそっと手を伸ばす。


 「窓の下にはバラが咲いていて、落ちると痛いぞ」


 リビングから、低く、くぐもった声が響いた。


 「出るなら、素直に玄関から出ればいい」


 エズラは驚いた。ここからリビングの中は、見えないはずだった。

 

 「鍵はかけてない。好きにすればいい」


 言葉の端には、特に感情はなかった。ただ淡々としていて、それがかえって怖かった。

 罠かもしれない。誘い出して捕まえる気かもしれない。いや、それより――


 「……なんで助けた」


 かすれた声が、喉から漏れた。自分でもそう言うつもりではなかったのに、問いがこぼれていた。

 すると、リビングの男が、ふと立ち上がった気配を見せた。

 足音が一歩、二歩、近づいてきて、廊下の向こう、壁の影から大きな影が揺れる。


 エズラは本能的に身構えた。窓の鍵に手をかける。


 しかし、男はそれ以上は近づかなかった。代わりに、穏やかではあるがどこか疲れたような声で答える。

 

 「理由なんてないが、人が目の前で死んだら誰だって嫌だろう」

 

 暫しの沈黙があった。お互いは決して近づこうとはせず、男の気配は、やがて椅子へと戻っていった。再びギィと木の軋む音がして、それきり静かになった。


 エズラは、しばらくその場から動けなかった。窓の外には、確かに棘だらけのバラが咲いていた。

 暫くしてリビングの方から何か物音がし始め、また静かになったと思うと、再びリビングから声が聞こえた。

 

 「もし、君が外に出て行かないのなら、こっちにきて、朝食を食べると良い、パンとミルクがある」

 

 エズラはすっかり、あの男には敵意がないと理解したのか、静かにリビングへと歩いていった。

 

 廊下に比べてカーテンが開き、明るいリビングだった。陽の光が差し込むロッキングチェアに、あの大男が座っていた。先程は後ろを向いていてわからなかったが、かなりの高身長だ。髪は後ろに流され、片目には包帯が巻いてある。いかにも厳格そうな男が今は新聞に目を向けている。

 男から幾分離れたところにある机には、確かに焼きたてであろうパンと、ジャムの瓶、ミルクが置いてあった。

 

 「先に言っておくが——」

 

 男と目が合った。その時少しばかり背筋が凍る感覚がした。冷たい視線だった。

 

 「……毒はいれてないぞ」

 

 その場で固まったエズラを見て、ぎこちなく目線を外す男。新聞はそのための道具でしかすぎず、実を言うと、男はその新聞を随分前に読み切ってしまっていた。

 

 エズラが席に着いて、恐る恐るパンを口に入れた時、彼はようやく、本当の善意を信じて噛み締めることができた。温かいパンに、甘いジャム、新鮮そうなミルクに、窓から見える色とりどりの花が、エズラにとってはどれも夢のようだった。

 

 鼻の奥がツンと熱くなった。誤魔化すように冷たいミルクを喉に流し込むが、どうしようもなく目から涙がこぼれ落ちた。

 

 鼻を啜る頻度がだんだんと多くなった時、後ろにいた大男がやや早足でこっちに向かってきていることがわかった。

 

 「どうした」

 

 先程までと同じように、抑揚のない機械的な声の中には少しの困惑と心配が紛れていた。エズラの横に立っては、テーブルの上の物を順々に眺め、目に留まったジャムの瓶を手に取り、それを訝しげに眺めた。

 

 「もしかしてもう、腐っていたのか」

 

 男はそれをスプーンで掬っては口に入れ、また首を傾げていた。男は何かブツブツと唱えながら、静かに泣いているエズラを幾度か見て、今度はキッチンであろう所に消えていった。

 

 エズラは泣くことに精一杯でそんな男の行動には何一つ目を向けていなかった。エズラにとっては泣く事さえ久しぶりだったのだ。

 

 また少し時間が経った時、キッチンから男が出てきたと思うと、机の上にいくつかのお菓子が置かれた。チョコレートやクッキー、中には手作りそうな名前のわからないお菓子まであった。

 エズラはそれを見て面食らったような顔をして、男を見上げていた。

 

 「どれも最近のものだ、腐ってないはずだが」

 

 食えとでも言っているのだろうか。エズラは困ったように眉を顰めた。この男は一体自分に何をさせたいのだろうか。

 

 「それとも飲み物が足りなかったか」

 

 エズラは首を横に振る。それを見て男はまた首を傾げるが、エズラもまたそれを見て首を傾げていた。

 今度先に口を開いたのは、エズラの方だった。

 

 「なんで突然、菓子なんか……」

 

 その声を聞いて、今度は男の方が驚いたようにエズラの方に目を向けた。男は食べかけのパンの方を指さして言った。

 

 「ジャムが不味くて泣いてるんじゃないのか」

 

 確かに、エズラが食べていたパンは半分以上残ったままだった。男の言う通りジャムをたっぷりつけたパンを。エズラはそこで初めて男が勘違いをしていることに気づいた。

 

 「そんな、まさか。ただ、その……こんな食事が久しぶりで」

 

 男はその言葉を聞いてなお驚いたような、納得したような様子だった。

 

 それから置いたお菓子をそのままにして、またキッチンに戻ったかと思うと、今度はミルクの瓶とパンの包みを追加で机の上に置いた。

 

 「気になった物を、好きに食べれば良い」

 

 そう言い残すと、男はまた窓際のロッキングチェアに戻っていった。もう泣き終わり、落ち着いたエズラはパンとミルクを駆け足で飲み込んだ後、おずおずとチョコレートの包みに手を伸ばし、銀紙を外して、それを口に含んだ。

 

 久しぶりなのか忘れてしまったのか、もしくは経験した事がなかったのか……とにかく新鮮な甘みだった。また泣きそうになるのを堪えながら、やっと小さなチョコレートを食べ終えた後、エズラはゆっくりと男の前に歩いていった。

 

 感謝を伝えようか、そもそもどうして自分を助けたのか、なぜここまでしてくれるのか、言いたいことが沢山あったせいで話し始めるのが遅れてしまった。

 

 先に口を開いたのは男の方だった。

 

 「美味かったか」

 「あ、うん……えっと、ありがとう。俺を、助けてくれて、その……」

 「……礼は要らない」

 

 椅子が軋む音が、またゆっくりと部屋に広がった。

 その音が、まるで「これで会話は終わりだ」とでも告げるように思えた。


 けれど、エズラは立ち尽くしたままだった。

 「礼は要らない」と言われてしまえば、それ以上なにを言えばいいのかわからない。

 それでも、何も言わずに席に戻るには、何かが胸の奥で引っかかった。


 視線を落とすと、まだ手の中にチョコレートの銀紙が残っていた。

 食べ終えたのに、いつまでもその包みを握っている自分が、なんだか子どもじみていて、情けなくなった。


 その時、ふいにロッキングチェアの音が止まった。

 何かが言葉になる前に、男が静かに呟いた。


 「名前、まだ聞いてなかったな」


 エズラは、はっとして顔を上げた。

 急いで、自分の名前を言おうとして、また言葉が喉で引っかかってしまった。

 見かねた男がまた口を開いた。

 

 「こう言うのは、尋ねた方が先に名乗るのが道理だったな——私は、ビクター・ラングハイム……戦争帰りのおせっかいな老人だ」

 

 最後のは男——ビクターなりのユーモアだったのだろうか。ビクターのような男が老人なら、自分は一体なんだろう……赤子だろうか……そんな事を考えていたら、エズラも今度はすんなりと喋ることができた。

 

 「俺は、エズラ・クロス。森で、死にかけた男……」

 

 エズラは最後の言葉を口にした時、少し悲しいというか、虚しい気持ちになった。

 しかし、ビクターはそれを聞いた時、何かを問おうとはせず。ただ「よろしく」とだけ言った。

 また少しの間沈黙が流れた。お互い、人と話すことに慣れてはなかったのだろう。エズラは少し申し訳なさそうなままそこで突っ立っていた。

 

 「もし、行く場所がないならここに居ればいい」

 

 ビクターの言葉に対して、エズラは静かに頷いた。また少しの沈黙の後、ビクターはエズラのやや後ろに目を向けて言った。

 

 「少し無粋な事を聞くだろうが、その翼は……」

 

 エズラの顔が一瞬にして青ざめる。体が氷になったみたいに、スッと冷たくなった。彼は自分の姿をすっかり忘れていた。背中にある大きな、黒く、硬い翼の事さえも。

 エズラが何歩か後ずさった時、ふと視界が明るくなった、窓から差し込む陽の光が彼に当たっていた。その瞬間、バラバラと数枚の羽が翼から抜け落ちた。それは羽というにはあまりにも重く、そして硬く、まるで黒曜石のような物だった。

 エズラがまた急いで陽の下から逃げ出すと、ビクターは納得した様子で、椅子から立ち上がり、今度はエズラと目を合わせるように、前に屈んだ。

 

 「月咬症げっこうしょうだな。それも重度の」

 

 その言葉には聞き馴染みがなかった。エズラが何か聞き返す前に、ビクターはそれについて説明をし始めた。

 

 「夜になると症状の出る、原因不明の病気だ。軽度だと感覚が鋭くなったり、体の一部が少しだけ変わるんだ。例えば、目が光ったり……」

 

 そういうと、ビクターは自分の目を指差した。彼も、その患者のひとり、だというんだろうか。今度はエズラの翼を指さして、続けた。

 

 「重度だと、酷い身体の変化が起こる。角が生えたり、君のように、翼が生えたりする」

 

 自分が病気だとはエズラは知らなかった。それを聞いて、少しの淡い期待を乗せながら、エズラはビクターに問いかけた。

 

 「俺の、これは治るのか?」

 「……いいや。治療法はない。でも、症状を抑える薬はある」

 

  返された言葉は、予想していたよりも静かだった。

 エズラは、頷くことも首を振ることもできずに、ただ黙って立っていた。


 治らない。それは絶望にも似た響きだったはずなのに、

 ビクターの声には謎の安心感があった。


 「すぐには手に入らない。だが。当てはある」


 そう言いながら、ビクターはごく自然に、エズラの肩に手を置いた。

 その手は、年季の入った古い革の手袋のように、ごつごつと硬かったが、ひどく優しかった。


 エズラは、ひとつ深く息をついた。

 胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ抜けていくような気がした。

 

  そのまま二人は、しばらく何も言わなかった。

 窓の外では、バラが風に揺れていた。黒曜石の羽根のかけらが、陽の光に当たって光っていた。


 ビクターはゆっくりと立ち上がり、窓に近づいてカーテンを引いた。

 部屋の光が少しだけ穏やかになった。


 「明日、信頼できる医者を呼ぶ。……少し変わりな爺さんだが、腕は確かだ」


 そう言うビクターの背中を、エズラは黙って見つめていた。

 あの男の言う「少し」が、どれほどのことを意味するのかはまだ知らなかったけれど――

 それでも今、エズラには逃げる理由が、少しだけ減った気がしていた。

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