因果の残響

舞夢宜人

第1話 青い衝動の予感

 梅雨明け間近の湿った空気が、蒸し暑さをまとわりつかせる。蓮は、窓から差し込む気だるい午後の日差しを浴びながら、高校三年生の教室でぼんやりと黒板を眺めていた。進路指導の時間が、やけに長く感じられる。教師の声は、蝉時雨のように遠く、耳障りな雑音として響いていた。


 「蓮、お前、本当にそれでいいのか?」


 隣の席から、幼馴染の葵が肘でつついた。葵の視線が、蓮が適当に記入した進路希望調査票に向けられている。そこには、漠然とした「大学進学」とだけ書かれていた。葵はいつも蓮のことを気にかけてくれる。その真っ直ぐな視線に、蓮は少しだけ居心地の悪さを感じた。


 「んー、まあ、なんとなく」


 蓮は曖昧に答えた。葵は少し呆れたようにため息をついたが、すぐに心配そうな顔に戻った。


 「なんとなく、じゃダメでしょ。蓮、ちゃんと考えてる? このままだと、本当に何にもなれないよ」


 葵の言葉は、蓮の胸に小さな波紋を広げた。何にもなれない。その言葉は、蓮自身が漠然と抱えている不安を突いていた。しかし、どうすればいいのか、蓮にはまだ見当もつかなかった。


 葵の髪は、肩にかかるくらいの長さで、少し明るい茶色に染められていた。夏の日差しを浴びて、キラキラと輝いている。彼女はいつも清潔感のある制服を着こなし、白いブラウスの胸元からは、控えめなレースのインナーウェアがわずかに透けて見えた。蓮は、その透ける生地の向こうに、葵の柔らかな肌を想像し、一瞬だけ視線を逸らした。幼馴染として、これまで意識したことはなかったはずなのに、最近、葵の仕草や表情が、蓮の心に小さな変化をもたらしているのを感じていた。


 放課後、蓮は補習のために教室に残っていた。窓の外では、野球部の練習の掛け声が響いている。鉛色の空には、入道雲がもくもくと湧き上がり、遠くで雷鳴が聞こえるような気がした。


 「蓮くん、少し話せるかしら?」


 背後から、優しい声が聞こえた。振り返ると、担任の里桜先生が立っていた。里桜先生は、いつもきちんとしたスーツを着こなしている。今日は、薄いグレーのジャケットに、白いブラウス。ブラウスの胸元は控えめに開いているが、その奥にわずかに見えるのは、上品なベージュのインナーウェアだ。蓮は、里桜先生の知的な雰囲気に、いつもどこか惹かれていた。彼女の髪は肩甲骨にかかるほどの長さで、艶やかな黒髪が蓮の視界に収まる。


 「はい、先生」


 蓮は椅子を引いて、里桜先生に向き直った。里桜先生は蓮の前の席に座り、手元のファイルを開いた。


 「進路希望調査票、見たわ。蓮くん、もう少し具体的に考えてみない?」


 里桜先生の声は穏やかだったが、その瞳は蓮の心を見透かすように真っ直ぐだった。蓮は、葵に言われた言葉が頭をよぎった。


 「どうすればいいか、よく分からなくて……」


 蓮は正直に答えた。里桜先生は、蓮の言葉に優しく頷いた。


 「そうね。でも、蓮くんには、もっと色々な可能性があると思うの。何か、興味のあることとか、やってみたいこととか、ない?」


 里桜先生は、蓮の目を見て問いかけた。その視線に、蓮は少しだけ緊張した。普段の教師と生徒という関係を超えて、里桜先生が蓮個人に深く関わろうとしているのが伝わってきた。蓮は、里桜先生の真剣な眼差しに、胸の奥がざわつくのを感じた。


 里桜先生は、蓮の提出した調査票に、いくつかの大学のパンフレットを添えてくれた。その時、彼女の指先が、蓮の指先に触れた。一瞬の出来事だったが、蓮の心臓がドクリと大きく鳴った。里桜先生の指先は、ひんやりとしていて、しかしどこか温かいような不思議な感触だった。蓮は、その小さな触れ合いに、言いようのない衝動を覚えた。それは、葵に感じたものとは違う、もっと深く、抗いがたい衝動だった。


 「まずは、色々な世界を見てみることよ。蓮くんの未来は、無限に広がっているんだから」


 里桜先生は、優しく微笑んだ。その微笑みは、蓮の心に深く刻み込まれた。蓮は、里桜先生の言葉と、指先の感触を、いつまでも忘れられずにいた。

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