心を開いた瞬間
数日後、啓太のスマホがふいに振動した。
画面には、あの名が浮かんでいる。
《恵》
この間はありがとうございました。
今度の土曜日、空いてますか?
「……空いてるけど」
小さく独りごちたあと、再び通知。
《恵》
カフェで、お話でもしませんか?
啓太は少しの間、画面を見つめていた。
迷いのような、戸惑いのような沈黙。
けれど、最後に送ったメッセージは、自然と指が打っていた。
《啓太》
まぁ…いいけど
スマホをポケットにしまったとき、啓太の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
***
土曜日の午後、小さなカフェの窓際の席。
陽射しが柔らかく差し込み、木のテーブルに二人分のカップが置かれている。
恵がカップに口をつけようとした、その瞬間。
「そういえばさ、この前のことだけど――」
啓太がぽつりと呟いた。
「え?」
恵が首を傾げて返すと、啓太は少し遠くを見るような目で続けた。
「……元嫁を見かけた時、怒りに行こうとしたろ? 正直、ちょっと驚いたんだ」
「……ああ、あれ……」
恵は気まずそうに目をそらし、頬を掻いた。
「すみません。私、すぐカッとなっちゃうところがあって…」
「いや、そういうんじゃなくて」
「え?」
「だって、まだ知り合って間もないのに、俺のことで本気で怒ってくれるなんて思わなかったから。 ……何ていうか、嬉しかったというか、ありがたかったというか。ちょっと救われた気がしたんだ」
その言葉に、恵の瞳が揺れる。
「……気がついたら、体が勝手に動いてたんです。
自分でもよく分からなくて……でも、あの時、啓太さんが悲しそうな顔してたのが、どうしても見ていられなくて」
「……そっか」
「変ですよね。私、何様なんだろって思ったんですけど」
「変じゃないよ。
……むしろ、そんなふうに誰かのために怒れる人って、そういないと思う」
その一言が、恵の胸の奥を温かく照らした。
言葉にできない感情が、静かにふくらんでいく。
(この人のためなら、ちゃんと怒れるし、ちゃんと笑える――)
それは、これまでの人生で一度も知らなかった感情。
“誰かと向き合いたい”と、心から思えた瞬間だった。
啓太「そういえばさ……恵さんは、どうしてコンカフェで働こうと思ったんだ?」
ふとしたタイミングで、啓太が静かに問いかけた。
恵「……やっぱり気になりますか?」
啓太「うん、正直ちょっとな。見た目とか雰囲気からして、もっと別の仕事もできそうだし……なんか意外だった」
恵「そうですよね。よく言われます」
少し笑ったあと、恵はカップをそっと置いて、視線を落とした。
恵「……母が、昔とても苦労してたんです。
昼も夜も働いて、私を育ててくれて。
でも、いつも疲れた顔してて……それが、子どもながらにすごくつらかった」
啓太「……」
恵「その時、子どもながらに思ったんです。
“私が誰かの癒しになれたら、誰かが笑ってくれたら、
この世の中ってもう少しだけ優しくなるんじゃないか”って」
啓太「……癒し、か」
恵「最初は興味本位で、友達に誘われて始めたんです。
でも、疲れた顔で来てた常連さんが少しずつ笑うようになって……それが、嬉しかった。自分の存在にも意味があるのかなって、思えたんです」
啓太「……なんか、分かる気がする」
恵「え?」
啓太「俺も似たようなもんだよ。
働いてる時は、自分が家族の役に立ってるって信じてた。
でも……誰かの“気持ち”を癒せてたかって言われたら、自信ないな」
恵「……」
啓太「でもあんたの話聞いて……
癒す側も、本当は癒されたいんだって気づかされたよ」
その言葉に、恵は一瞬だけ息を呑む。
いつもなら明るく笑い飛ばせるところが、今日はうまくいかない。
恵「……ずるいですね、啓太さんって」
啓太「え?」
恵「こんなふうに、ちゃんと私の話を“聞いて”くれる人……今まで、いなかったから」
それは、恋という言葉にはまだ足りない。
でも確かに心の奥の、柔らかな場所が揺れた。
恵(この人と、もっと話したい。もっと知りたい……)
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
カップに残ったコーヒーを見つめながら、恵は少し躊躇するように口を開いた。
「……あの」
「ん?」
「もしよかったら……また、うちのお店に来てくれませんか?」
意外な言葉に、啓太は思わず瞬きをした。
「え、俺が?」
「はい」
恵は恥ずかしそうに、けれど真っすぐに啓太を見た。
「この前、あまり楽しめなかったみたいだったから……」
「……あぁ、まぁ。あの時は……色々あってな」
「だから、今度はちゃんと。ちゃんと、笑って帰ってほしいんです」
その言葉に、啓太は戸惑いを隠せなかった。
コンカフェ――自分には無縁だと思っていた場所。
ただ、その“もう一度”には、どこか温かい気持ちがこもっていた。
「……別に、無理しなくてもいいぞ? 仕事なんだろうし」
「無理なんてしてませんよ。私は……ただ、啓太さんがちゃんと笑ってくれたら、それだけでいいなって思っただけです」
その瞳に、偽りはなかった。
しばらく黙っていた啓太だったが、やがてゆっくりと息をつき、口元にわずかな苦笑を浮かべる。
「……分かったよ。じゃあ、今度はちゃんと笑えるように、行ってみるよ」
「ほんとに?」
「嘘つかないよ。……今度はチューハイじゃなくて、何か甘いの頼むかもな」
恵は思わず笑った。
「それなら、私がオススメ考えておきますね。特別に、癒し付きで」
「癒し付きか……それは期待しとくよ」
そう言って見せた啓太の笑顔は、どこか柔らかくて、あの日のそれよりもずっと――あたたかかった。
カフェの外では、夕暮れが街を優しく包み込んでいた。
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