煙草のように火を付けて

天音伽

煙草のように火を付けて

「先輩、シャワー浴びてきますね」


 そう言って柊(ひいらぎ)は脱衣所に向かった。

 俺が勤める会社の中でもかなり小柄な体がひょいひょい、と揺れると、扉で区切られた脱衣所へと消えていく。

 俺はその背中を眺めながら、鞄から取り出した水を飲んだ。

 酔っている。その自覚はある。

 でなければ、自分の後輩をわざわざホテルなんかに連れ込むものか。

 生ぬるい水が体の全身に染み渡る。水を飲んだところで気分がよくなるものでもなく、ただ目の前に横たわる生ぬるい現実にため息を吐いてみれば、付いてきてくれた柊に対して申し訳が立たないな……という気持ちが去来する。

 立っていても仕方ないので、ベッドに腰掛ける。サイドテーブルには、今し方まで柊が吸っていた煙草のパッケージが転がっている。

 たまにはいいだろう。

 普段吸わない煙草を口にして、ライターに火を付けてみれば、煙草は一瞬燃え上がるばかりでちっとも火が付いてくれない。


「こういう時は息を吸うんですよ、先輩。でないとすぐに消えちゃいますからね」


 柊の言葉が脳裏を過る。そうか、俺に煙草の吸い方を教えたのも柊だったな。

 ちっとも燃え上がらない煙草にようやく火が付いて、煙を盛大に中空に吐き出した俺は、さてどうしてこんなことになったんだっけ、と思い返していた。



 柊九音(くおん)は、俺の勤める印刷会社の後輩。

 明るくて素直。小柄な体をひょいひょい揺らしながら近寄ってくる様はなんとなく猫を想起させて、いつも「先輩」「せんぱい」と俺のことを頼ってくる、可愛い後輩だ。

 うちは昨今流行りのオンデマンド印刷の会社で、規模としてはかなり小さい。それでも大手の印刷会社とは違い、少部数を短納期で刷れる強みもあってか、なかなかに繁盛している。

 俺と柊は、共に営業部門の担当。

 今日は珍しく法人の大口注文が取れそう、とのことで、二人でレンタカーをかっ飛ばし二時間ほど掛けて先方に挨拶。

 柊の持ち前の明るさが相手に大受けしたようで、俺のアシストも入れつつ、なんとか受注が取れるというところまで話を進めることができた。


「先輩! お仕事決まりそうですし、祝杯挙げませんか!?」


 そんな柊の言葉に、退社した俺達は焼肉屋に行ったのだが、その後がいけなかった。

 おそらく長時間のドライブで疲れていたのだろう。疲労した体にビールが――というよりはアルコールが染み渡り、俺はあっという間に前後不覚に陥ってしまった。

 いや、それだけなら良かったんだ。


「先輩? 大丈夫ですか、先輩?」


「あ? う、うーん……」


 柊の慮るような声にも何も返せない。どころか――ああ、思い出したくもない。

 その時俺は、柊の顔が――その、とても普段より可愛く見えて、思わず言っちゃったんだよな。


「柊、ホテル行こう」


 って。



 で、気がついたらベッドに座っている。

 半分くらいでまた火が消えてしまった煙草に、途中で火が消えた煙草に点火することはできるのだろうか……なんてどうしようもないことを考えていたときだった。


「先輩、珍しいですね。自分から煙草吸うなんて」


 いつの間にかシャワーを済ませたのか、タオルで胸元まで隠した柊が俺を見て、にへへ、と笑う。彼女の笑うときの癖だった。


「……手持ち無沙汰で。ごめん、後で返す」


「いらないですよ、別に。それより、そんな半端に吸わないでください」


「あ、ああ……」


 柊はライターを持つと、俺の煙草に火を近づける。タオルで隠された胸元が少し緩んだ気がして目を逸らせば、にやり、と笑う柊と目が遭う。


「先輩もシャワー、浴びてきます?」


「……すまん、柊」


「なーに謝ってるんですか、先輩。あ、私も一本吸っちゃお」


 俺よりよっぽど器用に火を付けてみせる柊を横目で見ながら、俺は手をぐっ、と握りしめる。


「ホテルなんか連れ込んで。悪かった。その、酔ってたんだ。それで」


「そういうの、聞きたくないんですけど」


 ふーっ、と柊の吐く白煙が中空に消えていく。その煙を目線で追いながら、柊は少し拗ねたような口調で俺に言う。


「……聞きたくない、か。言い訳に聞こえるかもしれないけど、その……」


「だから。私は先輩が酔ってないと、ホテルに連れ込んでももらえないような女だって言ってますよね、それ。そういうの、ホテルに連れ込まれるより最低ですよ」


「あ……」


「なんて。ちょっと冷たいこといっちゃいましたね、先輩」


 ふひひ、と笑う柊。笑顔はいつも通りで、少しほっとする。


「すまん」


「謝らないでくださいって。先輩、私に入社したときになんて言ったか覚えてます? 『これから理不尽なクライアントに遭うこともあるかもしれない。だけど、自分が悪いとき以外は謝らなくてもいい』って。あれ、すっごく励まされたんですけど。あの言葉は嘘だったんですか?」


 確かにそんなことを言ったような記憶がある。覚えていてくれたんだな。

 考え事をしていると、また煙草がくすぶっている。つくづく慣れないことはするもんじゃない、と思う俺の口元を見て、柊は笑いながら言う。


「先輩、その煙草みたいですよね」


「煙草?」


「はい。普段吸わないくせにたまには思い切りよく吸ってみて、でも途中でくすぶって、半端に火を付けて。普段お仕事している先輩はそんなことないのに。ま、そんな先輩も可愛いもんですけどね」


 柊は火の付いた煙草を、俺の口元に近づけてくる。

 ん、と煙草の先端を差し出し、彼女は言った。


「一旦火を付けたなら、最後まで燃やし尽くしてくださいよ。私もそのつもりで、ついてきたんですから」


 柊の煙草と交わった俺の煙草に、また火が付く。


「……柊」


 思わずその言葉に、体のどこかに火がつくような感覚を覚えた俺に――柊はいたずらめいた口調で、言った。


「はいはい。まずは煙草を吸い終えてから、ですね。それから……灰になるまで、互いに燃やし合いましょ?」

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煙草のように火を付けて 天音伽 @togi0215

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