俺、気づいたら異世界にいたので帰ります
ユキシロ屋
第1話 俺、異世界に飛ばされた
真夏のアスファルトは、焼き焦がしたような熱気をまとって俺の足を絡め取る。
灼けるような陽射しがビルのガラスに反射して、景色全体がぼやけて見える。
この交差点を渡れば、今日で五社目の転職面接。たぶん、また落ちる。
白いシャツの背中は汗でじっとりと張りついて、わずかな風すら感じられない。
額の汗を拭うふりをして、スラックスのポケットに突っ込んだ千円札を何度も確認する。
──これが、俺の全財産だ。
37歳。
職歴はバラバラ。派遣、バイト、短期契約、在宅ワーク……それからFX。
何に手を出しても長くは続かず、気がつけば、食うのに精一杯の毎日になっていた。
昼飯抜き。家賃滞納三ヶ月。電気代は今朝止まった。
それでも「人生なんとかなるだろ」と言っていた自分を、今ではいちばん恨んでいる。
……なぜ俺は、こんな世界で生きていかなきゃならないんだろうな。
そんな俺が、今日も面接に向かっていた。炎天下のスクランブル交差点を渡る途中で──
視界が、真っ白になった。
「……は?」
目を開けたら、そこは森だった。
蝉じゃない虫が鳴いている。鼻を突く、木と土と花の匂い。
座っていたのは、巨大な木の根元だった。
幹だけでマンション一棟ぶんはある。太い枝が、空を覆うほど広がっている。
……夢か?
そう思って頬を叩いたら、ちゃんと痛かった。
俺はふらつきながら立ち上がる。地面は湿っていて、どこか温かい。
見たこともない草が足元に生えていて、触るとふわっとしている。まるで羽毛のようだ。
周囲には、奇妙な木ばかりだった。
樹皮が青みがかっていたり、幹にうっすらと光が走っていたり──明らかに地球の植物じゃない。
鳥の鳴き声も聞こえるが、どれも異様だ。
ひときわ大きな声で囀っているのは、体が真っ赤で、尻尾が三つに分かれている鳥だった。
どこかフェニックスのようで、でもあんな神々しさはない。
葉の裏には、透けた翅を持つ虫が止まっている。
胴体は半透明で、中の赤い血管のようなものが見えていた。
──これは夢じゃない。俺は、知らない場所にいる。
“パカッ、パカッ”という音が、草の向こうから近づいてくる。
蹄の音だ。──馬だ。
俺は咄嗟に木の陰に隠れようとして、すぐに思い直す。
隠れる理由も、そもそもここがどこかも分かっていない。
むしろ話せる相手なら、願ったりじゃないか。
視線の先、茂みをかき分けて現れたのは──鎧を着た男だった。
銀色の胸当て。肩にまで回る革の装甲。腰には剣。
そして、馬に乗っている。
……いや、馬じゃない。足が六本ある。しっぽが蛇みたいにうねってる。
でも顔は完全に馬だった。なんだこれ。
その男は、こちらに気づくと馬から降り、剣に手をかけた。
「……何者だ、お前は?」
声が、通じた。
それがいちばんの衝撃だった。
意味が分かる。まるで日本語のように、耳に届いた言葉が脳に自然に染み込んでくる。
「え、あ、いや……あの、俺、どこ……?」
情けないほどのテンパった声が出た。
けど、男は怪訝そうな顔をしつつも、剣を抜くことはなかった。
「記憶が混乱しているのか?」
男が少し近づいて、眉をひそめた。
年は四十代後半くらいか。ごつい体格だけど、目はやわらかい。
少なくとも、すぐに切りかかってくるタイプじゃなさそうだ。
「……あー。とりあえず、村に来るか? こんなとこでぼさっとしてると、魔鳥に食われるぞ」
魔鳥。やっぱりこの世界は俺の知ってる地球じゃない。
改めて、異常な現実を突きつけられた気がした。
「助かる。……えっと、あなたは……?」
「俺か? ラウルだ。村の外れに駐屯してる警備隊の副隊長ってとこだな」
「ラウルさん……ありがとう。俺は……黒栖、けいっていいます」
「クロス……けい? ふむ、言いにくいな」
ラウルはあごに手をやり、うーんと唸った。
そして、にやりと笑う。
「よし、クロスケでいいな。……よし、乗れ。町まで案内してやる」
「えっ、いや……慧って呼んでほしいんですけど」
「ついてこい、クロスケ!」
話を聞いてない。完全にマイペースだ、この人……
村は、森を抜けてしばらく丘を下った先にあった。
柵に囲まれた集落で、屋根は藁葺き、道は舗装されていない土のまま。
だが人の気配は活気があって、屋台や農作業の声が遠くに聞こえた。
「この村はハーランという村だ規模は小さいが活気があっていい村だ。さて、まずは話を聞きたい」
ラウルに案内され、宿らしき木造の建物へ。
中には、くすんだ木のテーブルと、暖かそうなストーブ──あれは薪か。
受付にいた女性にラウルが何か話すと、俺は椅子に座らされた。
少しして、飲み物が差し出される。木の器に入った、白く濁った温かい液体。
どこか麦茶とスープの中間のような味がして、思ったより悪くなかった。
「それで、クロスケ」
クロスケと呼ばれて少しイラッとしたが、言い返す元気はなかった。
ラウルが、椅子の背にもたれながら俺を見つめてくる。
「お前、あの大木の根元で何してたんだ?」
──やっぱり聞かれるよな、それ。
「……気づいたら、あそこにいたんです。俺にも、何が起きたのか分からない」
「ふむ……記憶喪失ってわけでもなさそうだな」
「いえ、名前も年齢も、仕事のことも、全部覚えてます。東京の……いや、日本って国に住んでて──」
そこまで言いかけて、ラウルの顔が完全に怪訝なものになる。
「とう?…なにを言っているんだ?」
真顔でそう返されて、俺は口をつぐんだ。そりゃそうだ。こっちの世界に“日本”なんてあるわけない。
「服も上等なものを着てるようだが……歳は?」
「……34歳、です」
「……は?そんなわけ…」
ラウルは目を細めて、しばらく俺を観察するように見つめていた。
やがて、軽くため息をついて立ち上がる。
「……なるほどな。見たところ貴族の子息だろう。きっと何か大きな事故に遭ったんだろうな」
「え?」
「記憶が混濁して、支離滅裂なことを言ってる。そういう奴、たまにいるんだよ」
その表情は、どこか優しさと哀れみが混ざったようなものだった。
「大丈夫だ。少し、この村で休んでいけ。無理に追い出したりしないさ」
ラウルの言葉が、妙に胸に刺さった。
──優しさが、こんなに刺さるなんてな。
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