蝉のアンダンテ
島本 葉
Andante
いつもの通勤風景なのに、今朝はやけに音が溢れていた。車が走る音はエンジン音だけではない。耳に残ったのは、むしろタイヤが擦れる音や荷台の軋むような音だった。耳のそばでびゅうと鳴る風の音。飛び去る飛行機のかすかな響き。見上げてみると思っていたよりもずっと遠くを飛んでいた。
家の前を掃き清めるおばさんも普段通りだ。けれど、今日は箒がアスファルトに擦れるザザッという音や、柄の長いちりとりの蓋を開くガコッという音が聞こえた。自分の靴音すらやけによく響く。
なんのことはない。いつもはサブスクのクラシックチャンネルを流しているのに、今朝はイヤホンをリビングに置いたまま出てきてしまったのだった。惰性で聞いていた音楽がないだけで、町はこんなにもざわめいているのだ。
そのざわめきの中でもひときわ存在感を放っているのは、少し先の公園から聞こえる蝉の合奏だった。まだ距離があるのでそこまでの音量ではないというのに。
アンダンテは『歩くような速さで』と表現されるけれど、人の歩みは案外早い。このときの私も近づくほどに
太陽だけでなく、頭のてっぺんがじりじりと熱を持っている気がして、思わず手で遮った。
公園に入って、足元はアスファルトから砂地に変わる。ザザーっとわざとすり足で歩いて大きく鳴らしてみると、呼応するように右手の木々の蝉たちが高らかに歌う。同じ音が鳴り響いているようでいて、少しずつ違いがある。今の音をメロディのように捉えると、向こうの欅に止まる蝉たちは三連符で揺るぎないリズムを刻む。
そういえば、蝉が鳴くのはオスだけだと聞いたことがある。地中で数年間暮らした彼らは、地上に出てからの短い時間、命を燃やすように声をあげている。
そう。これは恋の歌なのだ。
つがいとなる運命のメスへの、精一杯のアピール。この木々に止まるオス蝉が何匹いて、そのつがいとなるメス蝉は何匹いるのか。ここで大きな音楽を奏でていたとしても、すべてのオスが選ばれるわけではないのだろう。
蝉たちの声を聞き分けていると、すぐ目の前の枝先に控えめに鳴く蝉がいた。時折大きく鳴いては、少し周りを気にするように控えめに鳴く。その蝉を見て、それは私の分身ような気がした。この愛を奏でる大合唱の中にいて、溶け込めないというか、居心地が悪いというか。自信なさそうなデクレッシェンドはまるで
若い頃は、恋だの愛だの、意識していた時期もあった。しかし、五十を過ぎると、そういう感情自体が億劫になる。ともすれば、少し恥ずかしささえ感じるようになっていた。実家に帰っても、もう母親も何も言ってこない。それは心情的にはホッとするようでいて、身体の内側をザラザラとした感触が撫でるようで、やはり居心地が悪いのだった。
その時、一匹の蝉が何かに呼ばれるかのようにその枝に近づいた。飛ぶのがそれほど上手ではないのか、何度か試行錯誤をするように小枝に停まったり離れたりを繰り返して、お目当ての枝にたどり着いた。その蝉は鳴いていなかった。メスだ。彼女が留まった枝の先には、先程の私の分身がじっと停まっていた。
私の分身は、身体全体を震わせるように必死に鳴き始めた。それは、全身全霊を込めた、ものすごい力だった。小さい体のすべてのエネルギーを振り絞るように歌っていた。それはまさしく愛の歌だった。大合唱の中にいても、その声はしっかりと存在を主張していて、彼女は静かにその独奏を受け止めていた。
額に汗が流れた。私は汗を拭うこともせずに二匹を見守った。指先を指揮棒のように細かく振り、彼の奏でるリズムを追うように動かした。
やがて、彼女はゆっくりと動き出した。一歩近づいては止まり、少し後退してまた近づく。彼は更に声を大きくして、私も指揮棒を振った。独奏が続く中、彼も鳴きながら少しずつ彼女に近づいていった。
どれくらい経ったのだろう。彼女がたどり着き、彼の身体を前足でつついたときには、もう独奏は終わっていた。
まだ合奏は鳴り止まないのに、そこだけが
ふと我に返って時計を見る。汗が吹き出して、一斉に音が戻ってきた。
私は少し慌てて駅への道を急いだ。合唱はまだ続いていて、少しずつ遠ざかっていく。
駅に駆け込むと、ちょうど入ってきた電車に飛び乗った。火照った身体は、車内の冷房の風を直接あびても、早々に冷めることはなかった。静かな車内の中で、私だけが熱を持っているようだった。
スマホを取り出すと、私はアプリストアを開いた。
逡巡して、検索ワードを打ち込んだ。
『マッチング』
私にもまだ恋の歌は歌えるだろうか。
「……というのがきっかけかな」
「やっぱ真司くんってややこしいわ」
(了)
蝉のアンダンテ 島本 葉 @shimapon
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