600立方メートルの抱擁
人形使い
第1話
わたしの家はお金持ちだ。自宅に25メートルプールがあるくらいには。
そう言うと大抵の人は恵まれていると言うだろうし、実際にわたしは恵まれていると思う。市内でも有数のいわゆるお嬢様学校に通えているし、両親との仲はとてもいい。
けれど高校生に上がる頃には、わたしの賢しい自意識は周りの人たちが、先生たちも含めてわたしに対して遠慮がちに、はっきり言えば壁を作って接していることに気付いていた。そんなことには気づかず、自分の周りの世界が正しくて優しいものだと思い込んでいられればよかったのに。
思えば、誰もがわたしを羨んで憧れてきれいなものを見る目で見ていても、触れようとする人はいなかった。遠巻きに「お金持ちのお嬢様」を囲んで騒ぐ人たちはいても、そこから近づいて来る人は一人もいないことに気がついたわたしは、人知れず孤独を深めることにした。
深夜、自宅の屋外プールに向かうのがわたしの日課になっていた。スクール水着に着替え、冷たい水に足先を浸す。そのままするりと水中に体を沈めると、全身が水に包まれる。水に包まれたわたしは外界から遮断されて、孤独でいられた。この25メートルプールに満たされた大量の水の浮力だけが、わたしを自由にしてくれていた。
毎朝登校するたびにかけられる挨拶も、先生の褒め言葉もそこにはない。ないほうがいい。どうせわたしにはそこからだれも近づいては来ないんだから。
別に泳ぐのが好きなわけでもプールが好きなわけでもない。ただ、ここがいちばん一人でいられる場所だった。わたしは毎晩ここに来て、自分の孤独を抱きかかえていた。
そんなある日、いつものようにスクール水着に着替えてプールに向かおうとしていたとき、わたしは異常に気がついた。
音がした。
ぱしゃん、という水が弾ける音。
思わず足がすくんだ。
屋外プールと言ってももちろん防犯用の柵と監視カメラはあるし、警備員だっている。だれかが見つからずに忍び込んできたなんて想像できない。もちろん、こんな深夜に両親がこんなところにいるわけもない。
ニ回目の、ぱしゃんという水が弾ける音にわたしは反射的にプールの出口に向かって駆け出そうとして――その足が凍りついたみたいに止まった。目の前で、信じられないことが起こったからだ。
誰もいないプールの水面。その水面が、まるで水飴みたいにひとかたまり、すうっと持ち上がった。その中には、テニスボールくらいの赤い球状の何かが浮いていた。かと思うと、水面から伸びたその水の固まりは赤い球を中心として、少しずつなにかの形に変わっていった。丸みを帯びたおぼろげな人型から、少しずつ人間の姿になっていく。
目の前の光景を、わたしはとても信じることができない。とても現実とは思えない。その場で固まっているわたしに関わりなく、その水の固まりはついに、わたしと同じくらいの背格好の、水でできた女の子の姿になった。
それは――「彼女」は、たしかにはっきりとわたしの方を見ている。その足元はまだ水飴みたいに伸びてプールの表面とつながっているけど、「彼女」はそのままわたしのほうにすうっと寄ってきた。
「――あ……」
わたしはやっとのことで、言葉にもならない中途半端な吐息を漏らした。そんなわたしの顔を、「彼女」は至近距離から見つめている。
透き通った、青みがかった裸の体。やや幼い顔立ちは、なんだか生まれたての赤ちゃんみたいに無垢に見える。そして――その瞳。
わたしがいつもプールから見上げている、お月さまと同じ色だった。金色の瞳。
その瞳に射すくめられたみたいに、わたしは動けなくなっていた。
金色の瞳が、ふっとほほえみの形に和らいだ。そして、その唇が動き、「彼女」の体の中で、これから口に出す言葉が浮かび上がるみたいに小さな泡がこぽこぽと浮かんで消える。
「アりがト」
不器用な……カタコトとも違う、それこそ、[[rb:人間でない何か > ・・・・・・・]]がなんとかして人間の言葉を話した――そんな感じの、ふしぎな響きの声が、わたしが聞いた「彼女」の最初の言葉だった。
「あリガと」
「彼女」はもう一度そういって、水でできた手を伸ばして、わたしの手を取った。
ふしぎな感触、ふしぎな温度だった。ぱしゃんと小さな音を立ててわたしの手を包んだ「彼女」の手は、馴染み深いプールの水の感触で、でも同時に人間の体みたいな弾力もある。そしてその温度は、冷たいプールの水と人間の体温のちょうど真ん中くらいの、感じたことがない温度だった。
知らない感触と温度に包まれたまま、わたしは「彼女」に問いかけてみた。
「え……ええと、わたし、あなたになにかした……?」
「彼女」は、まるで小さな子供みたいに首をかしげてから、うしろのプールを指さした。
「みズ、たクさん。わたしタち、ミず、なカった。でモ、ミずあって、タすかっタ。だカら、アリがと」
ぎこちない言葉遣いだったけど、言っていることはわかった。でも……その正体はまったくわからない。
「ええと……あなたが助かったなら、よかった、けど。でも、あなたって……その、何者なの? さっき『わたしたち』って言ってたけど、あなたみたいな人……?が、ほかにもいるの?」
わたしがそう聞くと、「彼女」はちゃぷちゃぷと首を振った。
「わたシたちは、わタしたち。あツマって、ワタしたち。こレ、ぜンぶ、わたシタち」
「え……っと」
「彼女」の言っていることがよくわからないけど、なんだか学校の授業でそういう生き物について習った気がする。わたしが考え込んでいるあいだ、「彼女」はちゃぷちゃぷと体を揺らしながら、幼い微笑みを浮かべてわたしを見ていた。
……そうだ。群体生物。クラゲとか、粘菌みたいに、小さな生き物が集まってひとつの生き物になっているっていう……。この子が言っているのはそういうことなのかもしれない。
「え……と、つまり……あなたのこの姿は、たくさんの『あなた』が集まってできてるってこと、なんだよね……?
わたしがそう答えると、「彼女」はうれしそうに両手をぱしゃんと打ち合わせて、ぱあっと笑顔になった。
「すゴい! わたシのコと、ワカってくレた!」
そう言うと「彼女」は、突然弾けた。バケツいっぱいの水を目の前でひっくり返されたみたいな光景に、わたしは反射的に顔を覆う。
「……?」
おそるおそる目を開けると、わたしは「彼女」に抱きつかれていた。
抱きつかれていた……っていうよりも、「彼女」の体の中に飲み込まれていた。
プールの水をさらに吸収したのか、「彼女」の体はさっきの倍くらいの量になっていた。わたしは、空中に浮いた大量の水の中に顔だけ出して浮かんでいた。
……ふしぎな感覚だった。それと同時に、馴染み深い感覚でもあった。わたしが毎晩味わっているあの感覚……そう、一人でプールの中に浮かんでいるときの感覚だった。
でも、今は、わたしはひとりじゃない。
空中に浮かぶ大量の水の固まりの中から「彼女」の上半身が生えていて、お月さまと同じ金色の瞳がふたつ、女の子の顔の中で揺らめいている。
「うレシい、ウれしイ」
そう言って彼女は、無邪気な顔でちゃぷちゃぷ笑った。
わたしはその笑顔に、なぜか泣きそうになってしまった。
その日から、わたしの孤独な日常は、大きく変わった。
一見、わたしの生活には誰の目から見ても変化はないように見えただろう。いきなり不良になったり家出したりしたわけでもなく、いつもの通りの品行方正なお嬢様。
でも、わたしの日常には、わたししか知らない非日常が溶け込んでいた。わたししか知らない、秘密の友達が。
いつもどおりの夜。いつもどおりのプール。
でも、そのプールの中にいるのは、いつもどおりじゃない、わたしの友達。
わたしがいつもどおりに水着に着替えてプールに出ると、その水面がすうっと持ち上がった。その中にあるのは、もう見慣れたテニスボールくらいの赤い球。
空中に持ち上がった水の固まりは、あっという間に女の子の姿になった。
「まタキてくれた、うレしい!」
そう言って、「彼女」はいつもどおりに無邪気な顔で抱きついてきてくれた。
わたしの日常に入り込んだ、ふしぎな女の子のかたちをした非日常。
「彼女」と毎晩こうして会うのが、わたしの日課になっていた。
「彼女」がどこから来たのか、何者なのか……それは今でもよくわからないけど、わたしにとっては、「彼女」がこうしてわたしと会って、いろんなおしゃべりをしてくれることが……そして、今まではわたしひとりきりだった25メートルプールの中に、わたし以外の誰かがいてくれることのほうが、だいじだった。
「がッコウ、にんげん、タくさんいル。たくさんアツまって、わタしたちとオなじ?」
「どうかな……あなたみたいに、なんていうか……ちゃんとまとまってなんかないよ」
プールの真ん中に浮かびながら、私はそう答えた。「彼女」は、わたしの頭の後ろに上半身だけを出して、ちゃぷちゃぷ揺れている。膝枕をしてもらってるみたいで、なんだか照れくさかった。
不意に「彼女」が水でできた手を伸ばして、わたしのほっぺたに触れた。プールの水のはずなのに、妙に暖かい気がした。
その手に、わたしは小さな子供みたいに顔を寄せた。なんだか、無性にだれかに甘えたい気持ちになった。
「……ね、ぎゅってしてくれる……?」
言ったあとで、顔が熱くなるのがわかった。こんなことをだれかに言ったのは、これが初めてだった。
人間じゃない、日常の中にいない……そんな「彼女」相手だったから、言えたのかも知れない。
「彼女」はわたしの子供じみたお願いに、いつもみたいにちゃぷちゃぷ笑った。わたしの周りのプールの水が、ゼリーみたいに形を変えてわたしを包み込む。
わたしはそっと目を閉じて、肌を撫でる水の感触に身を任せた。
慣れ親しんだプールの水の感触の中に、ふしぎと人肌に近い温度を感じる。学校に……ううん、このプールで「彼女」といるとき以外は決して感じない安らぎだった。
「彼女」はなにも言わずに、25メールプールいっぱいの体で、わたしを包んでくれていた。ときおりプールの水面がさざなみみたいに波打って、わたしの肌をくすぐる。まるで「彼女」に触れられているみたいだ……ううん、ほんとうに触れられているんだ。
「アなた、にンげん、すごくふシぎ」
「そう……? わたしからみれば、あなたのほうがよっぽどふしぎよ」
そう言ってわたしが小さく笑うと、「彼女」も合わせてちゃぷちゃぷ笑った。
「あナタ、ワタし、かラだ、ぜんぜんチガう」
「彼女」が手を伸ばして、わたしの頬にそっと触れた。……こんなふうに誰かに触れてもらうのなんて、初めてだった。
なんだか妙に恥ずかしくなって、わたしは逃げるようにしてプールサイドに泳いでいった。プールサイドに腰掛けると、「彼女」はちゃぷんと水しぶきを立てて水の中に消えたかと思うと、プールサイドからにゅっと伸びてきて女の子の姿になって、わたしの隣に座った。
「彼女」は、なにも言わず、うっすらと微笑んだままこっちを見ている。気恥ずかしくなって視線をそらそうとしたけど、でも、寂しがりのわたしの手が、勝手に「彼女」の手を握っていた。
「彼女」は少しだけ笑みを深くして、わたしに顔を近づけてきた。鼻がくっつきそうな近さから、金色の瞳がわたしをじっと見ている。
「ふシぎ。やっパり、ぜんゼンちがう」
そう言って「彼女」は、わたしの顔から身体に、じっと視線を注いだ。
「あ、あんまり見られると、その、は、恥ずかしいよ……」
「恥ずかしい」という感覚があまりわからないのか、「彼女」はきょとんとした顔でわたしを見ている。
「ネ、さわっテいい?」
「え?」
不意に「彼女」がそんなことを言うので、今度はわたしのほうがきょとんとしてしまった。
「そレ」
「それってなんのこと……ひゃあああんっ?」
思わず悲鳴を上げてしまった。「彼女」はいきなり手を伸ばしたかと思うと、わたしの胸に両手で触れたからだ。
それだけじゃない。「彼女」が伸ばしてきた手はすぐに形をなくして、そして――水着を通り抜けて、水が染み込むみたいにわたしの体の中に――入ってきた。
「あ、あ――」
いきなりの出来事に、わたしはまともな声も出せないでいた。でも「彼女」は、そんなわたしの困惑をよそに、わたしの体の中を、探るようにして――。
「こレ、フシぎ。サワってみたカった」
そんなことをされた経験なんてないけど、はっきりと分かった。
わたしの体の中に染み込んだ「彼女」の手が――わたしの心臓を、触ってた。
「あっ、は、あ――」
わたしの喉が勝手に中途半端な吐息を漏らす。苦しくも痛くもないけれど、今まで味わったことがない感覚が、わたしを困惑させていた。
「彼女」の顔が、わたしのすぐ近くで、優しく微笑んでいる。
「トくん、とくン、とクん、うごいてル」
その表情に、わたしはどうしてか……泣きそうになってしまった。
「かワいい」
その瞬間、自分でも自分の心臓が跳ね上がったのを感じた。そしてそのことは、「彼女」にもはっきり伝わってしまったようだった。
いつもうっすら微笑みを浮かべている「彼女」の表情が、珍しく少しだけ驚いた顔になっていた。
「まタ、うごイた。ふシぎ」
そしてまた、「彼女」の表情はにじむようにして笑顔になって、こっちを見た。こんなに近くでだれかの顔を見たことがなくて、わたしは顔を真っ赤にしてしまった。
わたしの胸の中に染み込んだ「彼女」の手……ううん、「彼女」そのものが、わたしの心臓をゆっくりと撫でているのがわかる。
「は……あ、あ……っん……」
唇から勝手に、熱を帯びた吐息が漏れる。今まで味わったことがない……というか、ふつうなら味わうことなんてないはずの感覚に、わたしの心だけじゃなく、体全体が戸惑っているみたいだった。
「くスぐっタい?」
「彼女」は、子供みたいに無邪気な表情で聞いてくるけど、わたしはなんて答えていいのかもわからず、ただ、いちばんだいじな部分を優しく触られて、吐息をこぼすのが精一杯だった。
「わたしたちのも、さワって」
「え……?」
体が熱を帯びて、なんだかぼーっとしていたわたしは、「彼女」の言葉に声にならない中途半端な吐息で答えた。
どういう意味か一瞬計りかねたわたしの手を、「彼女」の水でできた両手がそっと掴んだ。そして、自分がやったみたいに、わたしの手を自分の胸に触れさせた。水と生身の体の中間の、ふしぎなやわらかさ。――こんなふうに人に触れたことなんてないんだけど。
「サわって」
「彼女」はもう一度そう言って――掴んだわたしの手を、自分の胸の、その奥に導いた。水が弾けるちゃぷんという音とともに、わたしの両手は、「彼女」の胸の中に沈んでいた。
わたしの手は、いつも「彼女」の胸のあたりに浮かんでいる、赤い球体――わたしは漠然と、「彼女」の核みたいなものだと思ってる――に触れていた。
「ン……」
「彼女」は目を閉じて、そんな声を漏らした。その表情はなんだかその……えっちな感じで、わたしもさっき同じような顔をしてたのかもと思うと猛烈に恥ずかしくなってきて、わたしは慌てて「彼女」の胸から両手を引き抜こうとした。
「あ、だメ……もっトさわっテてほしい……」
普段あんまり表情が変わらない「彼女」の顔が、そのときには奇妙なくらい切なげに見えたのは、わたしの錯覚だろうか。
わたしは「彼女」の胸の中の赤い球体を、壊れ物に触れる気分で、恐る恐る両手で包むようにして触ってみた。
その感触は――普通の人間で、まだたった17年しか生きていないわたしのどこを探しても、その感触を正確に説明できる言葉は見つからない。
両手の中に包みこんだその球体は、わずかに大きくなったり小さくなったりしてるような気がした。小さくふるえているような気もした。かすかに音が聞こえるような気もした。少しずつ色が変わっているような気もした。
頭の隅っこのほうで、わたしはいきなり気がついた。この感触がなんなのか。
この世の誰もが持っていて、この世の誰もが直接触れたことがないもの。
なぜ、それに気がついたのかはわからない。でも、はっきりとわかった。
いのちの、感触だった。
「彼女」が触れているわたしの心臓よりも、もっと直接的で、むき出しの――いのちの形。
そのことに気づいた瞬間、わたしの目からはなぜか、勝手に涙がこぼれていた。
「ないテるの……?」
「彼女」がわたしに顔を近づけてくる。お月さまと同じ金色の瞳が、わたしをじっと見つめていた。
わたしはこみ上げる衝動のままに「彼女」を抱きしめて――キスしてた。
なんでそんなことをしたのか、わたしにもわからない。でも、体が勝手に動いて、そうしてた。
唇に感じるのは、水の固まりっていうより、ゼリーみたいな柔らかい感触。
ゆっくり唇を離すと、「彼女」は少しだけ驚いた顔をしてた。
「ご、ごめんなさい! いきなり、こんな……」
わたしが慌てて体を離そうとすると、プールから流れ出た水が固まりになってわたしを包みこんで、「彼女」の方に引き寄せた。
「だメ。はなれナいで」
「彼女」はそう言って、わたしの顔を引き寄せて――今度は自分から、キスしてくれた。胸の奥に込み上げた明らかな嬉しさが、心臓を通して「彼女」に伝わってほしい。そんなことを思った。
唇を離すと、「彼女」は今まで見たことがない種類の、甘やかな笑みを浮かべていた。
「うレしい。ふれアうの、うれしい」
「彼女」はそう言って、ちゃぷちゃぷ笑った。その笑顔を見てると、わたしはまた、勝手に涙が出てくるのを抑えられなかった。
わたしが子供みたいにぐすぐす泣いてると、「彼女」はそっと顔を近づけてきた。そして、わたしのほっぺたを伝う涙を、ぺろりと舐め取った。
思わず、涙が蒸発してしまうくらい顔が赤くなってしまった。そんなわたしの顔を見て、「彼女」はまた、ちゃぷちゃぷと笑った。
わたしもなんだかおかしくなって、一緒になって笑った。
ひとしきり笑ってから、わたしはまた、「彼女」と抱き合った。
「人前でこんなに笑ったの、久しぶり。ううん――はじめてかも」
そう言うと「彼女」は、ふしぎそうな顔をしてた。その顔に、わたしはまた引かれるようにキスをした。
そしてしばらくして、わたしはいつものように自分の部屋に戻った。眠って、起きれば、そこはまた普通の日常が始まる。――憂鬱だった。
「わたしも……」
そのつぶやきは、ベッドの中にむなしく消えていく。どうせだれも聞いていないから、わたしはつぶやき続ける。
「わたしも……あなたと同じだったらよかったのに」
――そして、その日が来た。
別に、その日にしようと決めてたわけじゃない。
なにか、きっかけになるよう劇的な出来事が起こったわけでもない。
ただ――今日だって思った。だからわたしは、そうすることにした。
いつものようにプールに向かう。でも、わたしは水着を着ていなかった。――もう、戻るつもりはなかったから。
生まれたままの姿でプールに足を踏み入れたわたしを、「彼女」はまるで、わたしは今日このときにそうすることを知っていたみたいに、待っていた。
プールの上に上半身を出して月明かりに照らされた「彼女」の姿は、なんだか現実ではないように思えるくらい、綺麗だった。
お月さまと同じ金色の瞳が、やさしく揺れている。
「わたしも――」
一歩踏み出すのに合わせて、「彼女」の体が、プールから溢れ出した。まるで、スローモーションで動く津波みたいに、25メートルのプールいっぱいの「彼女」が、わたしを包みこんでくれた。
「わかってル」
「彼女」はやさしく微笑んで、わたしを迎え入れるように両手を広げた。
わたしも合わせて微笑んで、「彼女」に導かれるように両手を広げた。
とぷん、と、かすかな音がして、わたしは――わたしは、
もう、わたしじゃなくて、
「わたし」なんて、狭くて、心細くて、孤独なものはなくなって――
わたしは、もう――
わたしたち、だった。
600立方メートルの抱擁 人形使い @doll_player
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