潜った刃

 生暖かい規則的な風を肌に受ける。夏が過ぎても暑い異常な気温を団扇で扇ぎながら凌ぐ。夏場の弁当箱のような湿気と熱が支配した部屋だった。

 そろそろエアコン工事をしようかと考えるが、まだ我慢できるだろうと欲を抑える。去年もそんなことを考えていたと思い出して笑った。

 そう考え、エアコンをつけることを異常に嫌っていた母親を思い出した。設置しているのにも関わらず、ただの一度としてエアコンをつけることはなく、それでいて週に一度以上は必ずエアコン掃除をする粗雑な母のことを。消費期限の切れた食材を躊躇いもなく使用し、ほとんど食べることのできぬ弁当箱を懐かしむ。潔癖症でありながら杜撰な人であった。

 小さなカバンにタバコとライター、それと財布に小刀だけを持って、冷気を求めてカフェに向かった。道端に占い師が座っているのを見かけた。占い師はいかにもな紫色の外套を着て、水晶玉を抱えていた。整理整頓された街中でその占い師は異質であり、それでいてどこか納得のいく不思議な存在であった。まるで元からそこにいたかのような。

 この気温で外套を覆っていては暑くてたまらないだろうと思い眺めていたことをすぐに後悔した。言い訳の余地もなく、完全に目が合ってしまい、あ、と小さく声を漏らした。すぐに目を逸らしてどこかへ立ち去ってしまえばよかったが、無言の中に流れる気まずさから膝の関節が固定され、不自然に立ち止まった。そのとき、口元を黒いスカーフで覆い隠していた占い師の目元が笑っていたことに気がつき妙な寒気を覚えた。

「こっちにきてみぃ」

 老爺とも老婆ともとれぬ、とにかく老いた声で占い師は手招きをした。

 近づいてみると、座席と水晶置きを兼ねている台はなんとも見窄らしく、隅の方が擦れていた。加えて占い師の外套は、汚くはないもののとても清潔とは言い難かった。それに独特な香水の匂いがきつかった。

「お兄さん、昼間からどうしたんだい」

 占い師は口元のスカーフを外し、黄色い歯を見せながらそう問いかけた。

 目尻の皺や深爪、鼻先のイボなどがあまりにもイメージそのままであったことがかえって恐怖を増した。

 手招きされていたにも関わらず、話しかけられたことで少し取り乱して動揺した。それを見て占い師はにちゃりと笑いながら頷いた。

「あの人に会いに行くのだろう。理不尽かつひとりよがりの理由で、どうするんだい」

 この暑さだというのに汗ひとつかいていない占い師は喉を鳴らすみたいに笑っていた。反対に先ほどまで苦笑を浮かべていたはずの自分は顔が凍っているのではないかと思えた。背中を流れる汗が心までも冷やした。

「いや、その、失礼ですよ」

 勇気を振り絞って、占い師へ反抗した。両の手を腰に添え、震える体をなんとか押さえつけた。

「いいや、お前は実行するだろう。カフェなんか行かずに母を尋ねるんだろ」

 非対称に吊り上がった口角から、唾を飛ばしながら、つらつらと言葉が流れる。

「いや、そんなこと」

 何かを喋らなければならないと思い、とにかく口を開ける。しかし、まるで脳の働いていない現状ではそれ以上のことはできなかった。

「怖いだろう。その鞄の中の小刀が警察にでも見つかれば、そうさ、お前は言い逃れすることはできない」

 一縷の希望であった、占い師の適当な虚言の可能性を、たった今破られた。

 外からは見えないはずだと鞄を見た。小刀の所在を確かめるように、やや硬めの生地で作られた鞄を優しく握った。小刀がそこにあることで一呼吸ついた。それと同時に小刀を持つ手が震えた。

 小刀を持って、腐敗した食べ物の匂いを思い出した。異常なまでに綺麗な家具の部屋が脳裏に浮かんだ。占い師の黄色い歯が母によく似ているなと感じた。小汚く、それでいて極端に不潔でもない占い師は強く母を思い起こさせた。

 占い師は優しく笑いながら蓋の壊れている弁当箱を取り出した。それは確かに学生時代に使っていた期限切れの食材が詰まった弁当箱であった。周囲まで臭うわけではないが、顔を近づけると確かに感じる酢酸臭もまた母を思い起こさせた。

「ほれ」

 占い師は弁当箱の中の唐揚げを食べるように促してくる。それは母が使っていた長期間放置された冷凍食品の唐揚げに良く似ていた。

 もちろん全てが食べられない食材ではないが、この唐揚げだけは食べることができず、必ずどこかへ捨てていた。

 占い師は目を逸らすこともなく、食べるように促してくる。何か話すことも逃げることも許されないと感じ、暑さも忘れて震えた。指先は硬直し、歯は震え、不快な音が空間を支配した。

 占い師は箸で唐揚げを掴んで口元まで寄せた。占い師は目尻の皺を寄せ、太く綺麗な涙を流していた。唐揚げの酢酸臭を感じて、体中の毛穴が広がる感覚を覚えた。止まる気配のない汗が混乱を加速させた。涙を見て、同情とも取れぬなんとも言えない感情が食べることへのためらいを打ち消した。涙、臭い、食感、記憶の母。おかしなものだけが自分を支配していた。そのまま地面へ倒れ込んだ。

 目が覚め、自室にいた。寝起きそのままの格好であった。占い師などいなかった。しかし、口の中に残った不快な感情。異常なまでの汗。これらが恐怖を駆り立てた。

 ふと机を見ると、そこには弁当箱が置いてあった。震えながらも好奇心を抱き、弁当箱を手に取った。弾けそうな血管を鎮めようと深呼吸をした。唾を飲み込み、弁当箱を開いた。

 弁当箱の中には小刀と唐揚げが入っていた。小刀を手に持ちその刃先を見つめながら占い師の言葉をぼんやりと思い出していた。手を振るわせながらナイフを唐揚げに突き刺した。酢酸臭と鉄の臭いとが混ざり合い、鼻腔を刺激した。その臭いは唐揚げを捨て忘れた日のことを思い起こさせた。

 汚れることも気にせず、手掴みで唐揚げを押し込まれた日のことを。母の手からする独特な香水の匂い。頬を伝う母の涙。目に焼きついて離れることのない景色が、目の前にある唐揚げを口へ運ばせた。健康的ではない見た目と香り、何より食感の柔らかさが不快感を強めた。

 唐揚げの汚れだけがついた小刀を見つめていた。鉄と酸の臭いであの香水の匂いを消してくれるのではないかと思った。風邪をひいたばかりのような高揚感があった。小刀をぼんやりと見つめ、そのまま勢いにまかせた。

 季節が過ぎてもまだ暑い日が続いている。部屋はいまだ蒸し暑く、きつい香水の匂いと血の匂いが漂っていた。

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