飛ぶ

 幼いときに読んだライト兄弟の伝記が強く印象に残っている。漫画の中のライト兄弟は不可能に挑戦するスーパーヒーローだった。ライト兄弟に憧れ、いつの日か空を飛びたいと思うようになった。

 暑い八月の昼頃、窓から見える飛行機雲を見て、改めて空を飛びたいと感じた。

「たかし、ごめんね。ちょっと仕事が長引いちゃって」

 母さんが慌てて部屋に入ってくる。

「今日はね、りんごを貰ったのよ」

 母さんは嬉しそうにそういいながらりんごを取り出し、皿に盛り付けてくれた。

 生まれてから今日まで常に病弱で入退院を繰り返す僕を母さんは文句も言わずにサポートしてくれる。それが僕にとって苦痛でもあった。

「ありがとう。僕本の続きが気になっているから今日はお話の相手できないや」

 母さんは「でも」と名残惜しそうにしていたが、無理矢理に帰ってもらった。

「そうなの。また来るからね」

 そういって母さんは何度も振り返りながら病室を後にした。

 僕はよれよれになったライト兄弟の伝記を読み始めた。何度目かも分からないが、知っているストーリを追いかける。

 母さんに嘘をついてでも、病室で共に過ごしたくなかった。自分自身が母さんへの負担だと認めたくなかった。

「あら、たかし君またライト兄弟読んでいるの」

 看護師さんが優しく話しかける。

「うん。この本が一番好きなんだ」

「ライト兄弟、かっこいいわよねぇ。不可能に挑戦して人類で初めて空を飛んだ人たち、って素敵よね。あのね、私も昔CAさんになりたかったのよ。でも残念ながら私には無理だった」

 看護師さんは笑いながらも熱く語った。

「本当にかっこいい」

「たかし君は将来パイロットになりたいの」

「うーん、それはどうだろ。だって僕はこんな身体だし」

 僕が答えを出し渋っている間に「ごめんね。また会いにくるね」と言って看護師さんは忙しそうにどこかに行ってしまった。

 僕はライト兄弟の伝記を読みながら一人外の飛行機雲を眺めた。なれるのなら僕だってパイロットになりたい。だけど全く健康な人だってなることが難しいのだから僕なら尚更だ。

 生涯この病院という檻の中で過ごすのだろうか。そうして僕という足枷を死ぬまで母さんに与えるのだろうか。

 そんなことを思いながら眠りについた。

 その日はなんだか素敵な夢を見た。飛行機なんかなくても自由に空を飛べる夢だった。夜空に浮かぶ少し欠けたお月様が僕を誘ってくる。

「ほぉら、こっちへおいでよ。窓を開けて、飛び出してごらん。そうすれば自由になれるさ」

 僕はお月様に誘われるままに窓の外へ飛び出した。身体が重力を失い、浮き上がった。まるで水中にいるかのように宙を掻いて自由に過ごせた。左右上下はもちろんのこと、ホバリングから急旋回まで難なくこなせた。ついには急降下に急上昇、急停止、回転なんかもできるようになった。

 僕は夢中で空を飛んだ。心も身体も踊っていた。そうしてお月様の元を目指して急加速。しかし、どれだけ加速してもお月様に近づくことはなかった。しまいにはだんだんと減速していった。最後には止まってしまい地面に真っ逆さま。

 ぶつかる。と思ったところで目が覚めた。ひどい寝汗をかいていた。体にまとわりつくベトベトとした感覚が不愉快だった。けれども、この寝汗は死に直面したことによるものではないと理解していた。本当に自由に空を飛べると感じていたのだ。この病院を飛び抜け、どこへだって、心の赴くままに行けると思っていたのだ。

 何とも言えない虚無感に打ちひしがれている間に、汗が冷えると共に、僕は冷静になった。どうしたら人間が空を飛べるというのだろうか。ライト兄弟だってこの身一つで空を飛べるとは思わなかったろう。冷静になって僕はもう一度眠りについた。

「今日はお母さん来ていないのね」

 看護師さんが僕に話しかけた。たかし君と話すのを毎日楽しみにしているんだ、と笑顔を見せながら。

「母さんは忙しいんだ」

「たかし君のお母さんシングルマザーだもんね。一人でも頑張ってて本当にかっこいいよね」

 その言葉が胸に小さな針を刺した。力なく「うん」と返事した。

 大した会話もせずに今日も看護師さんは忙しそうにどこかへ行ってしまった。

 母さんも看護師さんも、その他の大人も皆んな忙しそうにしている。僕だけ。僕だけが、何もしていない。ベッドに寝て、身分不相応の夢を見て、ただそれだけだ。

 今日も同じような夢を見た。お月様に誘われ、窓を飛び出し、空を泳いだ。そうして最後には空中浮遊の力を失って地面へ落ちてゆく。それから何度か似たような夢を見た。

 ある日、今日も同じような夢を見た。しかし、今日は地面に叩きつけられることなく目が覚めた。そこは確かに病室で、間違いなく現実だった。

 いつものお月様が見える。今日は一つも欠けていない、完全な満月だった。お月様は喋らない。それはそうだ、現実なのだから。

 しかし、いつもと異なる終わり方の夢が、欠けた箇所のない満月が、何かを変えてくれると思わせた。

 這うように身体を動かした。この檻から僕を救ってくれる気がした。窓の淵に上半身を引っ掛け、目一杯の力を振り絞って鍵を開けた。全身をスライドさせるように窓を開けた。そして全身を窓の外へ投じた。また、重力を失い、浮いた感覚を掴めるのではないかと、疑いながらも縋った。

 身体は重力に従い、地面へ真っ逆さまに落ちていった。どこか解放的な感覚を覚えた。

 次目が覚めたとき、そこは地獄でも天国でもなかった。母さんが涙を流していた。

「どうしてそんなことしたのよ。お願いだから死なないでちょうだい。生きているだけで、それだけでいいから」

 最初は説教のような力強さを誇っていた母さんの言葉もみるみる窄んでゆき、最後には泣きながらベッドへ突っ伏した。あの看護師さんも涙を流していた。

 違うんだ、自殺しようとしたんじゃない空を飛ぼうと思ったんだ、とは言えなかった。信じてもらえないからではない。本気で空を飛ぼうと思っていなかったからだ。

 その後、周りの人たちはいなくなり母さんとあの看護師さんだけになった。

「ライト兄弟だって、飛ぶことを諦めなかったから空を飛べたのよ。たかし君も、生きることを諦めないで。お母さんをひとりにしないであげて」

 そういって母さんと二人にしてくれた。

 母さんはまだ何も言えそうになかった。生きているだけでいいから。母さんに言われた言葉が胸に残った。僕は足枷かもしれない。それでも僕がそれを認めたらダメな気がした。僕だけが母さんの助けになれるはずだから。

「僕、僕パイロットになるよ」

 泣いている母さんにそう呟いた。パイロットになれるとは思わない。でも、これは嘘じゃない。

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