モヒート

 耳障りの良いジャズ調のBGMが流れるバーで、無口なマスターの目の前にあるカウンター席の隅に女が机に突っ伏していた。そして、今しがた入店したばかりの男が、失恋中とでも考えたのか、突っ伏している女を誘っていた。

「お姉さんこんばんは。そんなに悲しい顔をしてどうしたんだい。せっかくバーに来たなら人生をより良い方向へ持っていかないと。俺でよければ話を聞こうか」

 突っ伏している女の顔など見えようもないのだが、バーで隅のカウンターに座る女は悲しんでいるに決まっているとして、男は隣の席へ座った。

 返事のない女に男は苛立つこともせずに一杯カクテルをご馳走した。無口なマスターが男の前にモヒートを一杯音も立てずに置いた。

 そこで初めて女は顔を上げて男を見た。長く肩先まで伸びた茶の艶やかな髪をたくしあげながら、小さく微笑んだ。しかし、その微笑みは穏やかなものではなく、どこか蔑みの色を感じた。

「一体どんな男がナンパに来たのかと思えばなんとお粗末な。ましてやモヒートとは。勝手に人の心象を決めつけないでちょうだい」

 モヒートのカクテル言葉が、心の渇きを癒して、であることなど全く知らなかった男は動揺して女の首元まで近づけていた顔を大きく引き離した。それどころか、無視されることはあれど笑われる経験などなかった男は完全に女の思う壺であった。

「いや、その。お粗末とは失礼じゃないか」

 男は口籠るも、やられたままでは男が廃ると考え、なんとか一矢報いようと小さな声で呟いた。だが、男は言ってから完全に恥ずかしくなった。客が女と男の二人しかいなかったことに安堵しつつも赤面は消えなかった。

「おや、ごめんね。だけど、そんなに顔を赤くしなくたっていいじゃないの。いじめてるみたいだわ」

 女はそう言いつつも全く悪びれる様子はなく、むしろ男の反応を楽しんでいるように見えた。今度は女が男へ顔を近づけ見つめた。先ほどまで指揮棒を振っていたはずの男はいつのまにか女の指揮棒に合わせて動いていた。

 男は何か言い返そうとするものの、何も言えずに俯いてしまった。俯いた男の赤く染まった耳を女が舌先で舐めた。男は悲鳴にも近い小さな喘ぎ声をあげた。

 マスターにうっすら視線を移すが、こちらへ見向きもしなかった。この横暴な女が見えないのかと男は苛立ちを覚えたが、自ら女を止めようとは考えなかった。

「ふぅん。よく見りゃ可愛い顔してるじゃないの」

 女と目を合わせることになった男は心臓が弾けそうであった。それと同時に女の大きな瞳に飲み込まれそうな感覚を覚えていた。弾力を持った鮮やかな唇も上を向いたまつ毛も愛らしさと恐怖を放つ目尻も男を狂わせることとなった。

 優位性を失ったことに対する恥が興奮で薄れ、プライドと欲求が天秤にかけられた。そうしてとうとう温もりのある呼吸をする男にもう恥はなかった。そしてその興奮が未だ男の血流を速めた。

「ふふふ、さっきまでの顔はどうしたんだい。そんなに欲しがりな顔をして」

 その勢いのまま、柔らかくそれでいて尖っている女の唇を求めて、男は顔を近づけた。しかし、女は男の唇に人差し指を添えてそれを拒否した。

「急ぐんじゃないよ。マスター」

 嘲笑うかのように人差し指でそのまま男の顔を押し除け、今度は女がモヒートを男へご馳走した。

「渇いているのは心じゃなく、身体のようにも見えるけどね。知らなかったでしょう、こんな感覚」

 女はそう言ってモヒートを一気に飲んで席を立った。男も女に続こうと考え、急いでグラスに手をやったが女に止められた。

「カクテルはね、ゆっくり飲むものよ。まだその感覚を味わいたいならまたこのバーで会いましょう」

 そう言って女はミステリアスな雰囲気を最後まで失うことはなくバーを後にした。

 残された男はモヒートを飲み、その爽やかで冷たい感覚を味わった。今まで女を手玉に取り、常に男として優位に立ってきたが、今回は女に手玉に取られた。しかし、恥じるどころか、今までのどの女よりも確かな興奮を感じていた。男は女の心象どころか自身のことも分からずにいた。

 次の日も、その次の日も男はバーへ訪れた。しかし女は一向に姿を見せなかった。痺れを切らした男はマスターへ女について尋ねた。マスターは女のことを知らなかった。それどころかマスターはそんな女見たことがないとまで言った。

 何度尋ねても何一つ知らなかったマスターに呆れた男はとうとうカウンターの隅で突っ伏してしまった。

「お兄さん、何悲しそうにしてるの。それより私とお話ししてよ」

 男に無邪気で若い女が話しかけた。あの時の女と思った男は、慌てて顔を上げたが、そんな都合の良いことは起きなかった。

 今のこの感情は悲しみではなく、解消されない性的欲求に対する不満に近かった。そんなことも知らず呑気な女だと男は思った。あの時の女もそうだったのかもしれないと考え男は小さく笑った。

 そう思ってから男は、あの時女に盗まれたはずの欲求を取り戻した。男がもとより描いていた男女の立場を再び構成すべく口を開けた。

「ありがとう。お姉さん可愛いね。よければ別の場所で飲み直さないかい」

 そこからは慣れた手順を踏んで若い女と優雅に楽しんだ。圧倒的優位な立場を持っていた男と、それを受け入れることを楽しむ若い女は互いに溜まっていた身体的欲求を乱暴に解消した。

 翌朝になって男が目覚めると女はちょうどシャワーを上がったところであった。若い女は相変わらず男に寄りかかり、その表情を見れば惚れていることは明白であった。あれほど雑な行為であったのにも関わらず男へ惹かれる若い女もまた歪んだ欲望の持ち主なのかもしれない。

 一方、男は寝起きの頭でぼんやりとしていた。しかし、目が完全に覚めてタバコと朝食を済ませてそれが寝起きによるものではないと気がついた。

 それから男はぼんやりとした感情を抱えて過ごした。若い女とどれだけ性的欲求を消費しようと、はたまた別の女で欲求を消費しようと、男の心が満たされることはなかった。どれだけ体を重ねても、かつての満たされる感覚がなかった。

 そうして再び無口なマスターのいるバーを訪れた。外国の聞いたこともないフォークソングがよく聞こえるカウンター席で男はモヒートを頼んだ。飲めば何かわかるのではないかと考えた。しかし、男には不明な感情の名前も、あの女の行方も、自分自身のことでさえ結局は分からないままだった。モヒートの中にあるライムの爽やかさも分からぬ男にはただ苦いだけであった。

 そうして、つくづく人の心とは分からないものである、と男は気がつき考えることをやめた。男はゆっくりとモヒートを飲み、落ち着いたフォークソングに心を預けた。

 そのまま若い女に連絡をとった。満たされぬ欲求を抱えて生きていこう。そんなことをぼんやりと考えていた。

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