尻尾

 世の中色んな人がいるからね。品行方正で真面目が何よりも取り柄の母がよく言っていたセリフだ。私はこの「色んな人」には属さないと考えていた。私から尻尾が生える前まで。

 その日、私の尾骶骨がするすると伸びて、立派な尻尾へと成長した。何が起きているのかはまるで分からなかったが、ただ一つ確かなことは、私のお尻の付け根から尻尾が生えているということ。それは爬虫類の尻尾によく似ており、イグアナのようであった。かといって私の身体は人間そのものであるからチープな仮装のようにも見えた。

 初めのうちはただずるずると地面を引きずるばかりであったが、次第に感覚を掴むと左右上下へと自在に動かすことができた。小刻みに動かすコツも掴み、床に尻尾を規則的に打ち付けて遊んだりもした。

 楽しかったのも束の間、これは夢ではないと明確に意識してから、私は異様な焦りと緊張を覚えた。一人暮らしであることを神に感謝しながら、どうすべきか悩んだ。ひとまず大学生であるから授業を少しサボったところで問題はない。それは、私が不良学生であるからではない。むしろその逆である。ほとんどの授業に真面目に出席しているからこそ二、三週間休んでも問題がないのだ。むしろ不良学生であれば尻尾自慢をするために大学を闊歩していたかも知れない。でも私は真面目だからそうはいかない。

 どうすべきか悩みながら尻尾を適当に動かしながら遊んでいた。お尻から生えた尻尾を身体の前を通し、そのまま真っ直ぐ上まで持ち上げると、胸の少し下ほどまで届く。ここまで大きな尻尾となると隠すのは容易くない。ぐるぐると身体に巻き付けてみると思いの外フィットした。細いウエストが思わぬ形で役に立った。

 春の訪れを感じる陽気であったが、私は尻尾を隠すため、オーバーサイズのアウターを羽織った。立て鏡で全身を確認してみるが、パッと見ただけでは分からなかった。

 私はモノは試しと近くのコンビニをゴールとする冒険に出かけた。

 再度全身を鏡で確認したのちに、お気に入りの靴ではなく、スニーカーを履いて玄関のドアを少しだけ開けた。ドアの隙間から顔を覗かせ、左右をチラチラと見た。人がいないことを確認すると思い切って「えいっ」と小さく呟きながら外へ出た。

 誰かに見られているわけでも大犯罪を犯したわけでもないのに、見つかってはいけないと何かが強く思わせた。その何かから逃れるように慌てて階段を降りた。認めたくない何かが確かに私の中にいることがどうしても嫌だった。

 マンションを出てすぐの横断歩道で信号が変わるのを待っていた。最寄りのコンビニは信号を進んで左に曲がりそのまま直進すれば三分ほどで着く。

 ただちょうどその時、運が悪かった。信号が変わり、左へ進もうとしたタイミングで三人組の集団がこちらへ向かってきた。その内一人は私と同じマンションの住人である。咄嗟に私は右側へと走り出した。

 とにかく見られまいと必死になって走って数分経っただろうか。後ろを振り向き誰もいないことに安堵した。よく考えれば、これからマンションで友人と集まって遊ぶに決まっているのだ。私に尻尾が生えていることを疑って後をつけるなんて馬鹿な話はない。

 そこまで考えて、他人に見られても問題ないことを確かめるために外へ出たのに、見られることを恐れる小心者の自分を嘆いた。

 身体に巻き付けている尻尾が少し緩んでずれていくのが不快だったため、陰に隠れてグッと尻尾を巻き付け直した。走った直後の熱った身体には尻尾が冷たく感じ、とても気持ちが良かった。

 そうして、ここまで来たからにはコンビニというゴールを目指さねばならない。自宅から二番目に近いコンビニの方面に来ていたためそちらを目指すことにした。

 ただ、できればそのコンビニには行きたくなかった。そのコンビニ、というかその周辺は少し治安が悪いのだ。

 私は何もないようにと願いながらコンビニを目指した。道中何人かの人とすれ違ったが、特に何の問題もなかった。案外他人に注目などしていないのだと気がついてからは少し余裕を持って歩けるようになった。

「いらっしゃせい」

 件のコンビニについた。コンビニの駐車場には柄の悪そうな集団が喫煙所に屯していた。

「何でこんなに高いんだ。おかしいだろ、おかしいだろう。私の時代はもう少し安かったがね、つくづく嫌な時代になったもんだよ」

 ぶつぶつと悪態をつくおじさんが雑誌コーナーにいた。早速やばいやつと出会ってしまったと私は思ったが、金額に文句を言うおじさんと尻尾の生えた女子大生、普通ではないのは恐らく私のほうだろう、と思って悲しくなった。

「何だお前」

 今度はレジの方から叫び声のような金切り声が聞こえた。おばさんが店員に対して何か文句を言っている。

「私に手で食べろっていうのか。普通に考えれば分かるだろう、普通に考えれば」

「すみませぇん。お客さんがいらないっておっしゃったんでぇ」

「何なのよその態度は。店長呼びなさいよ店長を」

「すみませぇん。今日僕だけなんですよぉ」

「全く、もう二度と来ないわよ」

「ありざしたぁ、またお待ちしてまぁす」

 レジの店員は慣れているのだろうか雑に対応をしていた。

 以前までの私であればすぐキレるおばさんも舐めた態度の店員もおかしな人と認定していただろう。しょうがない色んな人がいるのだからああいった人もいるだろう、と。

 しかし、今の私にはとてもそんなことは言えない。箸がないだけでキレるおばさんだろうがクレーマーに適当な対応を取るワンオペ店員だろうが可愛いものではないか。金額に文句を言うおじさんなんか健全な人間といえる。

 何せ私には尻尾が生えているのだ。色んな人たちはよく見てみれば何も悪者とかやばい人ばかりではないのだ。少し変わっているだけなのだ。尻尾が生えている人に比べれば全く普通だ。

 そうか、あの時私の中にあった何かは普通ではない人間を迫害する気持ちであったのだろう。それが、私自身を締め付けていたのだろう。

 そう思ってからお母さんに相談してみようと思った。コンビニを出て、喫煙所の可愛い集団を横目に携帯を取り出した。

 尻尾が生えました。どうすれば良いですか。文章を打ってから少し笑ってしまった。いきなりこんなこと言われても母は受け入れられないかもしれない。真面目すぎて娘に尻尾が生えたと知ったら縁を切られるだろうか。

 それも仕方ないか。世の中色んな人がいるのだから母のように真面目な人は尻尾を受け入れられないかもしれない。

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