草花
雑草という名の草はない、という言葉をどこかの誰かが残していたなと、ぼんやりと、それでいて力強く、脳内に浮かんだ。雑草という草がないのならば、今私が刈っているこの草花の名前は何なのだろうか。
桜も散り、日差しが強く、しかし夏と呼ぶには早すぎる季節だった。祝日の続く連休を活かして、久しぶりに帰省した。都会のビル群に慣れた人間にとっては、田舎の景色は新鮮なものである。斯くいう私も、この土地で生まれこの土地で育ったはずなのだが、どうにも感動を覚えずにはいられなかった。
私の実家はそれなりに広く、小さな公園ぐらいの庭があった。その庭にはリビングから連なるウッドデッキがあり、そこでよくバーベキューなどをしたものである。
実家は坂の上にあり、ウッドデッキから一望できる景色はなかなかのものであった。急坂の多い土地柄、海に面しているにもかかわらず、山ばかりであった。ウッドデッキからの景色も左には煌めく海が、右には聳え立つ山が、という具合だった。
「ちょっとあんた、ぐうたらしてないで、少しは運動したらどうなんだい」
リビングで横になり、動画を見るか、友人に返信をするか、ご飯を食べるか、という怠惰な生活を送っている私に、見かねた母がそう言った。
「勘弁してくれよ。ようやく仕事から解放されてゆっくりできるんだから」
一応上体だけ起こして、話を聞く素振りをした。
「そんなこと言ったら私は一年三百六十五日休みなしだよ。いいから働く働く。お父さんと二人で庭の草刈りをしておくれ」
今まで何も言われなかったのに、急に怠惰を指摘した訳は、草刈りの依頼であった。我が家の庭は前述した通り、広い。草刈りといってもそう簡単ではない。人の背丈ほどもある草刈機を担いで一時間や二時間かけて行うのである。
携帯電話に連絡が入っていないことを確認し、汚れても良い服に着替えた。俺は憂鬱な気持ちを押し込めて、外へ出た。草刈機にガソリンを入れながら昔のことを思い出した。実家暮らしだった頃は冬場以外の毎月していたことが、はるか昔のことのように思われた。
父が支度をしているうちにひと足先に庭へ出た。夏でも寒いオフィス勤の人間にとって、肌が焼けるほど熱い太陽はかなりきつかった。帽子をより深く被り、太陽光を遮った。
草刈機のエンジンをかけようと、片膝立ちし、地面に近づいた時、てんとう虫がいるのを見かけた。職場付近ではほとんど虫を見かけることはないため、何でもないてんとう虫を珍しく感じた。
私が草刈機のエンジンをかけると、草刈機の轟音に驚き、赤い羽を広げてどこかへ行ってしまった。それが私に都会でのことを思い起こさせた。私はてんとう虫に友人を重ねた。
入社してから最初にできた友人だった。彼は同期であったが、大学受験で浪人していたため、年は一つ上であった。同じ部署で最も気の許せる相手であり、上司の愚痴を共によくこぼしたものである。彼は私と違って虫が嫌いであった。このてんとう虫にも腰を抜かしたに違いない。
そんな彼が突然仕事を辞めた。理由はまだ聞けていないが、パワハラがあったのではないかというのがもっぱらの噂である。
てんとう虫のようにどこかへ飛んで行ってしまった。それ以来、彼とは連絡を取れていない。どうにも気まずく、連絡することができないのだ。
私は、憂鬱な気持ち引きずって、草刈機を担いだ。田舎に似つかわしくない機械音を轟かせながら、草を規則的に刈り始めた。
草を刈り始めると、どこにそんなにいたのかというほどの昆虫が飛び回り始めた。草刈機の刃から逃げるように、必死に動き回っている。虫は嫌いじゃないが、いちいち気を遣っていてはいつまでも草刈りが終わらない。
その時刃先から伝わる違和感と、何かが弾ける音がした。バッタが死んでいた。私は草刈機を止めて、罪悪感を抱いた。
自分たちの都合で、草を刈り、その過程で理不尽に命を奪われたバッタを見て、私はまた友人を思い出した。
「ちょっと休憩取らないと熱中症になるわよ。ここ、ここにお茶置いといたから」
母がウッドデッキの隅にお茶を持ってきた。
「ありがとう、ちょうど喉が渇いていたんだ」
私はお茶を飲みながら、草の刈られた箇所を眺めた。飛び回る虫たちを見ていた。そうだ、そうして私の手が止まっているうちにそこから逃げるんだ。
そんなことを思いながらお茶を飲んだ。お茶をゆっくりと飲み干して、コップを置いた時に、干からびて死んでいるミミズを見つけた。
前日は雨が降っていた。雨が降るとミミズは地中で苦しくなり、地表へ出てくるらしい。しかし、外へ出たは良いものの、今度は太陽光に焼かれて死んでしまうという。苦しみの果てに別の苦しみがあるとはなんて悲しいのだろうか。
草刈りを再開し、ここから父も合流し、気がつけば、あっという間に終わっていた。父はひと足先にシャワーを浴びに中へ戻った。私はなんとなくウッドデッキに座りながら庭を眺めていた。
刈る前と後では驚くほど違っていた。私は悲しみとも呼べない虚しさを抱えて空を仰いだ。空を見上げて、その鳥の数に驚いた。こんなにも空を飛んでいたのだろうか。
一羽の鳥が私の座っている場所とは対角のウッドデッキの隅に止まった。その鳥は虫を咥えていた。そうか、私たちが草を刈ったことで、絶好の餌場となったのか。
鳥からしてみれば、餌場を作ってくれた恩人であろう。虫からすれば、地獄を生み出した悪魔であろう。はたまた、そのどちらも間違っているかもしれない。私の視点で物事を語っても、虫や鳥の本当の気持ちは見えてこない。
私は何を思い上がっていたのだろうか。鳥も、虫も、干からびたミミズだって、本当の気持ちは分からないではないか。それなのに、彼をそこに当てはめて気が滅入るとは、勝手にも程がある。
私の刈ったあの草花の名前はなんだったのであろうか。そんなことを思いながら、私は急いで家の中に戻り、シャワーも浴びずに携帯電話を手に取った。
「今度飲みに行かないか。お前の空いている日ならいつでも構わないから」
短い文章を打った。話してみようと思った。彼は鳥でも虫でもないのだから。
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