ダイオキシンの影
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第1話 ダイオキシンの影
二十世紀の終わり、日本の産業風景を覆い尽くしていたのは、バブル崩壊後のけだるさと、そして見えない恐怖、ダイオキシンの影だった。1999年の廃棄物処理法改正。それは大阪の下町で小さな焼却炉を製造していた佐藤竜一の実家「佐藤金属工業」にとって、青天の霹靂だった。改正法はダイオキシンの排出基準を厳格化し、中小企業が製造するような小型焼却炉は、もはや法の定める基準を満たしようがなかった。
「もうアカン、竜一。これじゃあ、うちの炉は誰も買わんようになる」
父の、まるで年老いた獅子のような声が、薄暗い工場の片隅で響いた。油と鉄の匂いが染み付いたその場所は、竜一にとって幼い頃から遊び場であり、未来への道標でもあった。しかし、その道標は唐突に、瓦礫の山に変わろうとしていた。
当時、佐藤竜一は京都の大学院で、医学博士号の取得を目指し、昼夜を問わず研究に没頭していた。名門高校から東大医学部を目指し、挫折。しかし、その知的好奇心は工学部へと彼を導き、最終的には生物物理学の分野から医学へのアプローチを試みていた。彼の頭脳は常にフル回転し、複雑な数式や概念が脳内を駆け巡る。医学博士の学位は、彼の知的な探求心を満たすだけでなく、かつての挫折を乗り越えるための贖罪でもあった。
だが、実家の窮状は、そんな彼の研究生活に冷水を浴びせかけた。父からの電話で、工場の閉鎖と多額の負債を知らされた竜一は、大学院の休学を余儀なくされた。研究費と生活費を捻出するため、彼はアルバイトに明け暮れ、睡眠時間を削りながら独学で博士論文を書き上げた。借金にまみれながらも、「医学博士」の称号を掴み取った時、竜一の心には、達成感とは別の、冷たい感情が芽生えていた。
社会に出た竜一は、大手環境機器メーカー「エコアステック」に就職した。彼はその卓越した知識と論理的思考力で、すぐに頭角を現した。最新の焼却炉や廃棄物処理プラントの設計に携わる日々。しかし、どれほど最先端の技術に触れても、彼の心には常に、あの錆びついた町工場と、父の憔悴しきった顔が焼き付いていた。
「環境規制……ダイオキシン……」
会議室で、排出ガス規制の厳しさについて議論する同僚たちの声を聞くたび、竜一の胸には黒い感情が渦巻いた。実家の家業を潰し、彼の青春に泥を塗ったのは、まさにこの「環境規制」そのものだ。それは正義の名のもとに、多くの弱者を切り捨ててきた偽善に思えた。
ある夜、自室で資料を整理していた竜一の目に、一枚の古い写真が飛び込んできた。それは小学生の息子が、夏休みの自由研究で割り箸を熱分解させた時のものだった。密閉した試験管の中で割り箸が黒く炭化し、わずかな可燃ガスが生成される。その光景を見た瞬間、彼の脳裏に稲妻が走った。
熱分解炉。
その言葉が、彼の頭の中で閃光のように輝いた。廃棄物処理法では、焼却炉と熱分解炉は明確に区別される。焼却とは酸素を供給して完全に燃焼させることであり、熱分解は無酸素下で有機物を加熱し、ガスやオイル、炭化物に分解することだ。熱分解炉には焼却炉ほど厳しい排ガス基準が適用されない。もし、小型焼却炉を熱分解炉に見せかけることができれば……?
しかし、熱分解は基本的に吸熱反応だ。外部から熱を加え続けなければ成立しない。一方、焼却は発熱反応であり、一度火がつけば反応熱で自ら燃え続ける。この根本的な熱力学の法則をどう誤魔化すか。
「酸素だ……酸素の常磁性を利用すれば……」
竜一の頭の中で、高校時代に見た物理実験が蘇った。液体酸素が強力な磁石に引き寄せられるデモンストレーション。気体の酸素の常磁性は非常に弱く、通常の磁石では全く影響を受けない。だが、もし、ごく微量の酸素を特定の場所に集め、それが「偶然」磁石に引き寄せられているように見せかけることができれば、あるいは、空気の流れを巧妙に制御し、「酸素が供給されていない」と誤認させることができれば……。
彼はさらに思考を深める。
「割り箸の熱分解で、あたかも発熱反応のように見せかけることができたのは、密閉された環境下での緩やかな不完全燃焼だった。これを応用すれば……熱力学上はありえないが、化学と物理、理論と実験のすべてに精通した人間でなければ、その矛盾を見抜けない。素人どころか、半端な専門家では熱分解が発熱反応で勝手に進むものと誤認させることもできる!」
そして、もう一つ。焼却炉の象徴である煙突。熱分解炉であれば、排ガスはごく少量で、有害物質も少ないとされる。
「煙突は限りなく短くできる。代わりに、不完全燃焼で発生する煤や未燃焼ガスは、オイルトラップで吸い取ってしまえばいい。表面上は煙が出ず、クリーンに見えるだろう」
出来上がるのは、不完全燃焼をゆっくり行うことで、廃棄物中の酸化カルシウム(CaO)と不完全燃焼で生じた二酸化炭素(CO2)が反応し、炭酸カルシウム(CaCO3)が生成される。
「これだ! 焼却灰に含まれる酸化カルシウムが炭酸カルシウムになっていることを悪用し、『これは焼却ではなく、熱分解によって生成された炭素系の物質と、無機物の反応によるものだ』と主張できる。完全に燃え尽きた焼却灰ではない、という完璧な根拠になる!」
竜一の顔に、悪魔的な笑みが浮かんだ。彼の頭脳は、復讐という名の燃料で、かつてないほど鋭利に研ぎ澄まされていた。
彼はすぐに、実家「佐藤金属工業」の工場長を務めていた男、田中健吾の顔を思い浮かべた。田中は竜一が幼い頃から工場にいて、手先の器用さでは誰にも負けない職人だった。工場閉鎖後、日雇いの仕事で食い繋いでいると風の便りで聞いていた。
数日後、錆びついた居酒屋で、竜一は田中と向き合っていた。田中の顔には苦労の跡が刻まれ、かつての精悍さは失われていた。
「健吾さん、俺と一緒に、もう一度あの頃の技術を世に出しませんか?」
竜一は、熱分解炉と称する「偽装焼却炉」の構想を、熱のこもった声で語った。田中の目に最初は戸惑いと不信の色が浮かんだが、竜一の綿密な計画と、かつて彼らが培ってきた技術への誇りを再燃させる言葉に、次第にその色は熱を帯びていった。
「竜一……本当に、そんなことが……」
「できます。そして、我々の技術は、この理不尽な世の中に一泡吹かせることができます。これは詐欺ではない。世直しです」
竜一の言葉は、田中にとって甘い毒だった。閉鎖された工場の記憶、職人としてのプライド、そして失われた日常。それらを取り戻せるかもしれないという希望が、田中の心を蝕んでいった。
かくして、「プロジェクト・プロメテウス」と名付けられた、壮大な詐欺計画が静かに、そして着実に動き出した。佐藤竜一は、自らの頭脳を駆使し、社会への復讐の狼煙を上げようとしていた。彼らの目指すは、もはや小さな町工場の再建ではない。環境規制という名の、偽善の仮面を剥ぎ取り、社会に大きな爪痕を残すことだった。
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