第3話

   (三)

 十月になって急に秋らしくなってきた。

 九月の終わりに一度佳織と会って、更に佳織の悩みや考え、子供の頃からの思いを聞いてやった。

 東山にとっては二人の関係は興味深いものだった。お互いに二人の関係が認められないものであることを分かっている。そのことが、却って二人の気持ちを熱くさせていた。それ自体は、よくある話ではある。

 ところが、そのこと以外は、至って良識ある判断ができ、実際にそう行動もしてきた佳織が、唯一、世の中の枠組みを外れているのだ。そして、それが分かっていて自分を止められないでいることが不思議に思える。恋とはそういうものかもしれない。

 だからこそ東山には信じることができないでいたのだ。

 これまでにもそうした恋の悩みはいくつも聞いてきた。カウンセリングの場面では、クライアントの状況を理解し、その辛さに共感もし、認めていかなくてはならない。では、東山が同意できるかというと、答えは間違いなくノーだった。

 その不完全さも佳織の魅力でもあったようだ。申し分のない女性というだけでは、ここまで惹かれることはなかったのかもしれない。

 半年の間、カウンセラーを引き受けるとは言ったものの、二人の間には、具体的ではないにせよ将来結婚を考えて行こうという関係性ができ上がっている。厳密には、純粋にカウンセラーとクライアントという存在ではいられない。佳織が辛い思いを話せる相手として、東山の存在が佳織にとって必要なものであればいい。

 それにしても、その間に無茶な恋の一つでもしてみようなどとよく言えたものだと思う。いくらそんな佳織を見て新鮮に思えても、自分がこれまでの自分から飛び出すのはそう簡単なことではない。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、モリへと向かっていた。七時を過ぎて、通勤のラッシュが幾分落ち着いてくる時間だった。

 地下鉄から乗り換えて、京阪電車の淀屋橋の駅から階段を登ると御堂筋に出る。土佐堀川にかかる淀屋橋を渡ったところで西へと御堂筋を横切ると、日銀大阪支店の重厚な佇まいがある。その先の大江橋を越えれば、いわゆる北新地と呼ばれる歓楽街である。金曜日ということもあって、いつもより人の数は多い。

 その大江橋の中ほどで、呼び止められた。

「あの、すみません」

 振り返ると、二十歳前後の若い娘だった。

 道でも尋ねられるのかと、何でしょうかと少しだけ微笑んで見せる。

 しかし、あらためて顔を覗き込むと、彼女の様子はひどく緊張しているようでもあり、思い詰めているようにも見える。気軽に声をかけただけではなさそうだ。

「どこか、お探しですか」

 東山が重ねてそう尋ねると、その言葉に驚きでもしたように小さくびくっとして俯く。

「あ、いえ、すみません」

 声をかけたことを詫びるように、無表情に小さく頭を下げて、一歩後ずさりする。人違いで声をかけてしまったというニュアンスでもない。

 おかしな子だと思いながら、こちらから用事があるわけでもない。そうですかと小さく会釈を返して再び歩き始めた。

 数歩歩いて振り返ると、石造りの橋の欄干に凭れてふっとため息をついているように見えた。

 長い髪を無造作に束ね、白のTシャツの上に大きなチェック柄のシャツを重ねて、ジーンズにスニーカーと大学のキャンパスにでもいるようなスタイルである。この時間のこの場所にはなじまない。

 こちらから関わることもないだろうと歩き始めると、その歩みを止めるように信号が赤になる。

 振り返るとやはり先ほどと同じように力なく欄干に凭れたままだ。

 道を尋ねようとしていたわけではなさそうで、東山に声をかけた後、誰かにそうしている様子もない。誰かと待ち合わせをしているようでもない。眼の前をたくさんの人が通り過ぎている中で、やはり東山に声をかけたのだ。

 昭和大学の学生だろうか。ならば、たまたま見知っていただけにせよ挨拶をするだろうし、東山と知っていて呼び止めたのであれば用件も言わずに身を引くこともない。

 過去に東山のカウンセリングを受けた女性だろうか。しかし、その顔に見覚えはない。何年か時間が経っていれば名前と顔は一致しないことはあっても、全く覚えがないということはまずない。その記憶もないほど昔ならば、彼女はカウンセリングを受けに来る年齢ではなく、もしもそうならば余計に記憶に残っているはずだ。

 どうにも解せない。そして、やはり気になる。これも職業病の一つかもしれない。

 信号は青になったが、東山は踵を返して彼女の方へと戻った。

 先ほどまでは欄干にもたれていたのが、今は肘をついて堂島川の流れを見つめている。何かを思い詰めているようにも見えるし、どこか心ここにあらずで何かの拍子に川へ飛び込んでしまいそうにも見える。東山がすぐそこまで近づいても気が付かない。

「あの、失礼ですが」

 東山が遠慮がちに声をかけると、彼女は振り返り、あっ、とまるで悪いことをしていたのを見つかってしまった時のように、また一歩下がる。

 同時にその表情には見知らぬ男に対する一般的な警戒心も見て取れる。先ほどはその見知らぬ東山に声をかけてきたのだから余計に訳が分からない。

「ひょっとして、昭和大の学生さんですか」

 東山の質問が意外だったのだろう、いいえ昭和大では、と生真面目に答える。

「失礼しました。うちの学生だったら知らん顔をするわけにもいかないと思ったものですから」

「そう、ですか」

「私には全く思い出せないのですが、どこかでお眼にかかったことがありますか」

「いいえ、そういうわけでは」

 ひどくばつが悪そうな顔でそう答える。

 この繁華街で若い娘が中年の男に声をかける理由。

 東山は、最近、週刊誌で読んだ記事を思い出した。援助交際と言えば女子高生が遊ぶ金欲しさの行為だと思っていたが、最近は女子大生が生活苦から体を売ることも珍しくはないというものだ。

 もしかすると、その類の目的で東山に声をかけたのかもしれない。

 だとすると、その相手に選ぶのはある程度年齢層も限られているはずで、経済的に余裕がありそうでなくてはならない。見た目にはなるが、性格的に厳格そうでも気弱そうでもいけない。それよりも第一に、身に危険を感じるような男ではいけない。東山はそうした条件に当てはまりそうだ。

 確かに、贅沢どころか、飾らないを通り越して、みすぼらしい身なりであり、見た限りでは化粧さえしているようには見えない。また、どことなく疲れとやつれを感じさせる。

 もっとも東山には想像もつかない理由があるのかもしれない。そんなことを考えてしまうのが失礼な誤解であればいいのだが。

 ただ、仮に彼女の目的がそうだったとしても、場慣れしているようには思えない。東山の他にもその条件に合う男はいくらでもいたはずなのに、その後は誰にも声をかけてはいない。迷っているとも、途方に暮れているとも言えるような表情で川面を眺めていたのだ。

 今日、一大決心をしてここまで来て、勇気を振り絞って東山に声をかけた。しかし、そう簡単に実行できるはずもない。結局言い出せずに、すみませんと身を引いてしまった。そう考えると辻褄は合う。確信はないが、ほんの少し見せた生真面目そうな表情からも、そんなことが抵抗なくできる娘ではないように思える。

 何の関係もない娘であり、敢えて首を突っ込む必要はないのかもしれない。

 しかし、もしも推測が当たっていれば、このまま放置してしまうと、やがては誰かに声をかけて道を踏み外すことになる。それを黙って見過ごすわけにはいかない。勘違いであれば謝れば済むのだ。

 そう考えて、東山は敢えて踏み込むことにした。

「もしよろしければ、その辺りでコーヒーを付き合っていただけませんか」

 彼女は、驚いたように顔を上げ、どう返事をすればよいのかと迷っている。

 年頃の娘が見ず知らずの中年男性にコーヒーをと誘われて迷うことはまずない。すっぱりと断るか無視をするのが普通である。それを迷うというのは、東山の推測が当たっている可能性もありそうだ。

「は・・・い」

 やがて、意を決したように頷く。

 呼び止めてはみたものの言い出せなかった相手から逆に誘われてしまったのである。却って決心をする手助けになり、どうとでもなれと、開き直らざるを得なくなったのかもしれない。

 そんな投げやりな表情と、それでいて従順であろうとする不思議な素直さもある。やはり、見過ごすわけにはいかない。

 再び大江橋を渡り、信号を越えたところにコーヒーのチェーン店がある。いつも通っている道なので、そこで話をしようと決めていた。

「夕食はまだでしょう、付き合って下さい。ここのサンドイッチはなかなかいけますよ」

「あの、私、そんなつもりでは」

「まあ、そう仰らずに」

 東山は彼女の言葉を無視して、ミックスサンドとコーヒーを二人分頼む。

 そして柔らかく彼女に向き合う。

「名乗りもせずに失礼しました。私は東山といいます。カウンセラーをしています。大学の話もしましたが、関西昭和大学で講師とキャリアカウンセラーもしています」

 彼女にはまだ東山の意図が通じていないようで、はい、と小さく頷く。

「こうしてお誘いしたのは、あなたが道を踏み外しそうな気がしたからなんです」

 彼女はその言葉にさっと表情をこわばらせる。

 東山はその緊張をほぐすために、ゆっくりと二枚の名刺をテーブルに置く。もちろん東山のことを信用してもらう必要もある。

「私の思い違いであれば、許して下さい。いくらでもお詫びをします。でも、いかがですか、随分苦労をしてらっしゃるのではありませんか」

「どうしてそんなことを」

「あなたのプライベートに立ち入るのは大変失礼なことであると承知しています。しかし、大学ではあなたと同じ年頃の学生をいつも見ていますし、カウンセラーとしてもいろいろと事情を抱えて悩んでいる方々と付き合っていますから、どうにも見過ごせなくて」

 彼女の表情には、覚悟をしなくて済んだほっとした気持ちと、人の気も知らないでというちょっとした反発もあるようだ。

「いいんです。自分で決めたことですから」

「我々カウンセラーは普段は待つのが仕事です。しかし、例外があります。それは、その人に命の危険性がある場合や、犯罪につながる場合。その時には飛び込む必要があります」

「犯罪、ですか」

「でなければいいのですが」

 犯罪と言われて一瞬たじろいだものの、だからと言って考えを変える気はなさそうだ。それでも仕方がないと割り切ったようにも見える。

 ただ、思いつめていた気持ちはふっと緩んで肩を落とした。

「そうですよね、やっぱり。でも、もう他にできることがなくて。ごめんなさい、誰かに私を買ってもらおうと思ってここへ来て、先生に声をかけました。それで、先生は私を補導しようと」

 開き直ったように淡々とそう言う。

「いいえ、私は警官ではありませんし、結局、あなたは何も言わずにいたわけですから」

「では、どうしてですか」

「カウンセラーとして、あなたの悩みを放っておくことはできない。ということもありますが、奇跡のような偶然で、こうして出会いました。そこにはそうなるべき理由があったのではないかと勝手に思っています」

「でも」

「聞かせていただけませんか、どうして、自分を誰かに買ってもらおうなんて」

「お話しても、どうにもならないことですから」

「どうにもならない」

「はい、生きて行くため、なんです。だから、見逃して下さい」

 東山を信用もしたのだろう。また、その目的まで言葉にしたことで、それまでの緊張から解放され、ある種の親しみも生まれてきたようだ。彼女は、先程までとは別人のようなというのが大げさではなく、人懐っこい笑顔を見せる。

 聡明そうな中にもまだいくらかあどけなさの残る年齢相応の笑顔に、東山の表情も自然と緩んでしまう。どうしたってこんな可愛い娘さんに売春などさせるわけにはいかない。

「見逃すも何も、私はあなたを咎めようとしているわけではありません。しかし、生きて行くためにと言われると、ますます放っておけません」

 そこへちょうど、注文していたサンドイッチとコーヒーが運ばれてきた。

「さ、食べながらもう少しお話しませんか。時間はあるのでしょう」

「はい、それはもちろん」

「ええと、あなたのことを何とお呼びすればいいですか。本名でなくても構いませんが」

「あ、失礼しました。仁美、新庄仁美と言います。すみません」

 彼女は慌ててポーチから学生証を出して見せた。東山が名刺を出したことに応えるためなのだろうが、そこまでする必要はない。基本的に几帳面で真面目な性格であるようだ。

 学校も公立の優秀な大学である。

 ただ、学生証の屈託のない笑顔に比べると、随分やつれている。

「では、仁美さん、そう呼んでいいですか」

「はい。あ、大学へは言わないで下さいね」

「もちろんです。仁美さんは何をしたわけでもありません。ただ、投げやりな気持ちになっていたというだけでしょう。大学だけではなく、今日のことは誰にも話はしませんから安心して下さい」

「すみません」

「それよりも、仁美さんに会うまではまさかと思っていたんです。最近、生活苦から、いわゆる風俗で生活費を稼いでいる女子大生が増えているという話を聞いていたのですが、やはり大変なのですか」

「先生、私のお財布にいくらあるか想像つきますか?三千三百円。しかも、それが今の全財産で、バイト代が入るまでの五日間それで生きて行かなくてはならないんです。このサンドイッチとコーヒーで半分になります」

「何を言っているんです。ここは私が誘ったのですから。いくらかでも、親御さんに助けてもらうわけにはいかないのですか」

 仁美はちょっと言葉に詰まって、それでもすぐに小さく微笑んだ。

「先生は先ほど、今日のことは誰にも話さないって言っていただきましたけど、話せる家族もいません。私、たった一人なんです」

 敢えてなのだろうが、深刻にならないように笑顔を作りながらそう言って、少し肩をすくめて見せる。

「一人で生きている」

「はい。だから、私がどうなっても心配してくれる人はいません」

 その言葉に東山は驚かされた。

 状況によっては、言葉を選ばなくてはならない。

「それでは随分ご苦労をしてきたんですね」

「それも仕方のないことですから」

「仕方がない」

 仁美は答えの代りに少し俯く。

「聞かせてもらえませんか。仁美さんがどうして私に声をかけることになったのか」

 東山はカウンセラーの顔になり、柔らかく待つ姿勢になる。

「でも」

 仁美は戸惑ったものの、東山のどんなことでも受け止めますよという視線から逃げようとはしなかった。

 それでも随分迷う。東山は柔らかく沈黙を守る。

 するとやがて小さく頷いて、これまで追い詰められてきた過去をぽつりぽつりと話し始めた。やはり、一人では背負いきれない辛さがあるのだ。

 新庄家の一人娘だった仁美は、高校まではいわゆるお嬢様学校と呼ばれる女子高に通っていた。父親の新庄亘は、大手商社の営業部次長にまで出世して、年収も中の上の部類に入り、東山の住んでいる枚方から近い、香里園の高級マンションに住んでいた。

 ところが、仁美が三年生になる頃、新庄亘は先物取引に手を染めて失敗し、五年十年ではとても返しきれない借金を背負うことになった。昼夜を問わず取り立ての電話が鳴り、休みの日にも人相の悪い男たちが押しかけてくる。

 このままでは家族にまで類が及ぶと、母の常子とは離婚し、亘は会社もそのままに蒸発してしまった。残された常子と仁美は、夜逃げ同然でそのマンションを引き払い、大阪市のはずれの安アパートに引っ越すことになった。

 常子は自分名義の口座にいくらかは蓄えがあったものの、それだけでは半年の生活費にも満たなかった。昼間は近くのスーパーでレジ係、夜は飲食店の皿洗いと掃除とを掛け持ちでこなして家賃と貧しい食費を賄っていかなくてはならない。当然、仁美もそれまでの女子高に通うことはできず、市内の公立高校へ編入することになった。常子は離婚とともに、旧姓の一瀬に戻ったが、仁美は慣れ親しんだ新庄でいることを選んだ。

 仁美も、それまでの生活とは全く違う環境だが、身の回りで何が起こっているのか理解できない年齢ではない。それに合わせていくしかなかった。学校から帰っても、遊びに行く経済的な余裕はない。ただ、一人の時間にテレビを見ようにもそれもない。勉強と図書館で借りてきた本を読んで過ごすしかなかった。

 そのために成績も良く、担任からは進学を強く勧められた。常子も無理を承知でそうしなさいと言う。家庭の事情と成績優秀で奨学金をもらい、今の大学に進学したのである。

 ところが、それまで苦労らしい苦労をしたことのない常子は次第に心を病み、去年の春、極度のうつ状態となった。一歩も外へ出られなくなったばかりか、頻繁に自殺未遂を繰り返すようになる。このままではどうにもならないと、島根県の出雲市にある常子の実家へと転居させた。祖父は既に他界していたが祖母は健在で、何とか面倒を見てくれることになった。

 祖母も年金生活である。そんな常子の面倒をみるのが精一杯で、支援を求められる状態ではない。

 これまでは貧しいながらも常子の収入でやりくりをしていたが、それもなくなると、仁美の奨学金とアルバイト収入で、アパートの家賃を払い食べて行かなくてはならない。

 四回生になると就職活動が始まる。常子が心を病むまで無理をして進学させてくれた大学なので、何としても卒業しなくてはならない。そしてそれなりのところへ就職しなければならない。しかし、就職活動に費やす時間もないのが現実で、第一、面接に着ていくリクルートスーツもなかった。

 卒業のために必要な単位は前期で終了している。卒論もないために、後は卒業式を残すのみであるが、日中のアルバイトではほとんど毎日フルタイムで働いても生きて行くのにやっとである。

 そんな生活にも疲れ果て、将来への希望も見失っていた。

 そんな時に、隣に住んでいる風俗勤めの女性から、効率よく稼ぐならこれが手っ取り早いと教えてもらった。店に勤めてしまうと収入は良くても縛られもするし、嫌な客でも相手をしないわけにはいかない。仁美は気立てもよく、それなりに美人だから、誰にでもすぐに気に入ってもらえるとも言ってくれた。週に一、二回都合のいい日に出ればよく、相手も選ぶことができる。そして日中は就職活動もできるし、他のアルバイトをすればいくらかでも将来に向けて貯金もできるというのだ。

 とはいえ、もちろん抵抗はあった。第一これまで、誰かと付き合ったこともないのだ。そんなに上手く誰かを誘える自信もない。随分悩んだ。しかし、自分さえ割り切ることができれば、どう考えてもそれ以上の選択肢はなかった。

 しばらくのことだと開き直り、勇気を振り絞って夜の街へ出ることにした。ミナミでは大学の知り合いに合うかもしれないと新地の近くを選んだ。

「というわけですから、他にどうしようもないんです。決心をして、初めて先生に声をかけました。だけど何も言えなくて。やっぱり私には無理かな、いっそこのまま死んじゃった方が楽なのかなって考えていたんです」

 途中で涙を浮かべながら、それでも話し終えると無理をして笑顔を作る。

 ところが東山は、そんな仁美の健気で不憫な生き方に、不覚にも目を潤ませてしまっていた。

 カウンセリングの場面でも、そうした悲惨な人生に向き合うことはある。それでもそれが仕事だという心の構えがあるために、その辛い感情に共感はしても、巻き込まれてしまうことはない。

「先生」

「失礼。カウンセラー失格です」

 目頭を指で拭って苦笑いをする。

「こんな私のために泣いてくれるのですか」

「私も生身の人間ですから」

「私自身がもう割り切っているのに」

「それは違う。仁美さん、それは違いますよ」

 仁美の不遇な身の上を聞いて、尚更引きとめなくてはならないと思う。

「自分自身や命をそんなに軽々しく扱ってはいけません。今は仕方がないと割り切ってみても、どんな将来が待っているかもしれません。その時に、忘れてしまえますか?なかったことにしてしまえますか?」

「先のことなんかどうだっていいんです」

「仁美さんは、相手や自分を騙して生きていけるような人ではないでしょう。また、そんな人になってほしくはありません。だからと言って、死んでしまおうだなんて、とんでもないことです。今日までこんなに苦労をして生きてきたのですから」

 ついついカウンセラーの立場を忘れて、心にあるものをそのまま言葉にしてしまった。

 仁美はそんな東山の様子に驚き、また涙ぐんでいる。

「ありがとうございます。そんな風に言っていただくの、とっても嬉しいです。でも、何年も先のことより、今を生きなければ明日は来ませんし、それももういいのかなって」

 それも分かる。しかし、東山はどうしても仁美にそんな人生を歩かせたくはなかった。そして、ふとしたことで心が折れたときに死を選ばせるわけにもいかない。

 仁美を助けるためにできることはとないかと思いを巡らせる。

「では、半年の間、仁美さんが稼ごうとしてた金額を、私が支援しましょう。毎月十万でも二十万でも。そして仁美さんの就職にも協力させて下さい」

 東山にはそれくらいの余裕はある。

「まさか、何にも知らない私に。そんなことは許されません」

「それが心苦しいというなら、お貸しすることにすれば」

「いいえ、いいえ。先生にはご家庭があるのに、他人の私が甘えるわけには。それに、借りても返せるあてもありませんし」

「そうですか。いや、きっと仁美さんはそう言うだろうとは思っていました。実は恥ずかしながら私も随分前に離婚して、一人きりでこの年ですから、蓄えも十分にあります。こんな言い方は失礼ですが、気にするほどの金額でもないんです」

「だからと言って、そうしていただく理由がありません。こだわる資格もないのかもしれませんが、それでは物乞いになってしまいます」

「と言って、仁美さんにこれ以上の苦労はさせたくない。お金のために見ず知らずの男に身を任せるだなんて、そんなことが耐えられるわけがない」

「先生、どうして私をそんなに大切に考えて下さるのですか」

 あらためてそう尋ねられると、東山にもはっきりとした理由は分からない。いわゆるあしながおじさんを気取りたいわけでもなく、むしろカウンセラーとしては深く個人の生活に関係してしまうことは避けなくてはならないのだ。

「上手く言えません。正直、私自身も驚いています。学生証の笑顔が、きっと本来の仁美さんでしょう。そんな笑顔をもう一度見てみたいとは思います。しかし、それ以上に、私にそうしろという何かの意志が働いているような気がします。これだけの人が流れている中で、仁美さんが私を選んで声をかけた。そして私はそんな仁美さんを放っておけない人間だった。それは、ただの偶然ではないような気がします」

 仁美はそんな東山を不思議そうな眼で見つめ、ふっと黙り込んだ。そして、俯いて考え込む。

 東山もいつもの癖で、沈黙を破らない。

 やがて、仁美はうんと一つ頷いて顔を上げる。

「先生、半年」

 何かを決心したようだが少しためらう。

「何ですか、半年って」

「あと半年で、大学を卒業します。それまでの私の半年を買って下さい」

「何を言い出すのですか。バカなことを考えてはいけません」

 さすがに東山も驚かされた。

 若い女性特有の突飛な発想にも慣れているつもりだったが、その範囲を超えていた。

「私には、私自身と時間しかないんです。それに、奇跡って言われると、私もそんな気がします。先生に買ってもらいなさいって言われているような気がするんです。その覚悟でここへ来たんですけど、誰にでもっていうのは、やっぱり私にはできそうもありません」

 そんなことを言いながら、投げやりになっているようでもない。

「と言って・・・」

「貧乏はもう嫌。半年の夢でいいんです。そんなに贅沢じゃなくても、明日の心配をしないでいたいんです。お手伝いさんとして雇ってもらおうかなとも思ったんですけど、それだけでは今と変わらないので、先生が独身なら奥さんの代りに」

「辛い気持ちは分からなくもありませんが」

「半年だけです。その後はちゃんと普通の女の子に戻ります。そして、お仕事をして、自分の力で生きていきます」

「しかしですね」

「先生、一年半、一度も美容院に行ったことのない女の子って、ご存知ですか」

 仁美は東山を遮るようにそう言って、更に言葉を続けた。

「夏物と冬物の服しかなくて、それも一週間に二度は同じ格好でいるしかないんです。新しい下着も買えません。キャベツと卵と近所のパン屋さんでもらったパンの耳が食事という日が続く暮らしって分かりますか」

 確かに、そんな暮らしをあと半年の間耐えろとは言えない。その姿を想像するだけでまた泣けてきそうだ。

 自分を大切にしなさい、死んでしまおうなどと考えてはいけない、と言う以上、その方法を見つけてやる責任もある。

 とはいえ、この娘の半年を買うなどということも考えられない。

 いくら契約だとしても、常識では許されることではなく、仁美に対してはカウンセラーの立場も捨てなければならない。

 しかし、仁美が言うように、支援や施しではなく救い上げる方法は他に思いつかない。

 そして、しばらくの間、僅かでも贅沢をしたいという気持ちも分かる。数千円で幾日かをどうやって生きて行くかを考える生活に疲れたのだろう。

「本気なんですね」

「はい。こんなこと、いい加減な気持ちでは言えません」

 尋ねてみるまでもなく、そうだろうとは思う。

 警察へ届けても仁美を助けることにはならず、生活保護も、大学生では適用されない。

 それよりも、今、仁美を見放すわけにはいかない。このまま手離してしまうと、一人に戻った仁美は、またどちらに転んでしまうのか分からないのだ。

 とりあえず卒業までの半年は東山が引き取り、家政婦として栄子さんの手伝いをさせればいいのではないか。その間に、本来の仁美を取り戻させ、生きていく方策や就職先を一緒に考えてやろう。

 女性として扱わなければ、そして自由を保証してやれば、法に反することもないのだ。

 東山も決心するしかなさそうだ。

「わかりました。いくら必要ですか」

「え、それは先生が決めて下さい。私の価値は自分ではわかりません」

 贅沢をしてみたいといっても、そのためにどれくらいの金が必要なのかもわからないはずだ。しかし、いつまでも面倒を見続けるわけにもいかない。

 大手企業に正社員として就職するならば、その活動時期はすでに終わっている。卒業後は一人暮らしに戻り、一年をかけて仕事を探しながら暮らしていくことになる。

 半年の間、住み込みの家政婦ならば月に三十から四十万といったところか。そしてその後一年を普通に生きて行くならば、二百から二百五十。いくらか蓄えも必要になる。その上でいくらかアルバイトをすれば、貧しい暮らしはせずに済むだろう。

「そんなに自分を安売りするものではありません。五百万でいかがですか」

 その程度が、東山としてもあまり心配をせずに動かせる限度だった。

「まさか。そんなに価値のある人間ではありません」

「仁美さんの価値は私が決めます」

「でも、とても」

「ただし、条件があります。今日これから私の家に住み込むこと。今の仁美さんを一人にするわけにはいきませんからね。それから、うちは本職の家政婦さんと契約しています。仁美さんの教育係をその人に頼みますから、いろいろ勉強してください。いくらか贅沢もすればいいです。ただ、仁美さんが守りたいものは私に対しても決して譲らないこと。約束してくれますか」

「は・・・い」

 仁美は金額に驚いて、東山の言葉に上の空で返事をする。

「その間に、もう一度自分を取り戻して輝いて下さい。それが条件です。いいですか」

「わかりました。お願いします」

 思い切った決断をしたものの、その心構えをするのにはいくらか時間が必要なのが普通である。ところが仁美は、ここへ来る時と同じで、不思議な従順さで東山の言葉に従おうとする。それは、いくつもの逆境を受け入れざるを得なかったことで身に付けたものだろうか。

 また、東山の言葉を少しも疑おうともしない。もちろん東山には仁美を騙す気などないが、やはり世間知らずではある。

 そんな仁美だから、一度道を踏み外すと、どこまでも流されて行くような気がする。

 東山がどうしても救いたいと思ったのは、そんなところが見えたせいかもしれない。

 モリへ行こうとしていた予定を変更して、そのまま御堂筋で客待ちをしているタクシーに乗ってマンションに戻る。

 今日から半年間ここが君の家ですよ、とドアを開けてやる。いくら覚悟をしていたとはいえ、そこから先は違う世界になってしまうのだから、一歩を入るのにためらう。

 そんな仁美が微笑ましく、優しい気持ちが湧いてくる。これまで一度も経験したことのない感情に東山自身も戸惑っていた。

 仁美には、玄関を入ってすぐ右手の、以前加奈子が使っていて、もう長い間空き部屋になっている部屋を使わせることにした。

「ここを使いなさい。明日にでも、アパートから必要なものを一緒に運びましょう」

「ありがとうございます。でも、必要なものは一人で運べるほどしかありません。できれば一から揃えさせて下さい」

「そうですか。今のアパートはどうしますか」

「半年後にはまた戻りますから、そのままにしておきます」

 そして、その夜はずいぶん遅くまで、改めての自己紹介が続いた。

 やがて仁美が疲れた眼をし始めたので、今日のところはこれを着なさいと、自分のパジャマを渡して、シャワーを案内してやる。

 仁美はその言葉にあらためて身を固くする。

「緊張する必要はありませんよ。私はそんなことのためにここへ連れて来たわけではありません」

 健気とも律儀とも言える仁美の様子に笑ってしまう。

「でも・・・」

「とにかく今日はゆっくり休みなさい。それが私の命令です」

 仁美は相変わらず不思議そうな視線を向け、それでも、はい、と素直に従う。

 今日のところはベッドを明け渡して、自分はリビングのソファで休むことにした。仁美はそんな迷惑をかけるわけにはいかないと頑なに遠慮をしたが、最後には東山がやはり命令することでそれに従った。

 しばらくしてそっと様子を見に行くと、よほど疲れていたのだろう、体を丸めながら深い眠りに落ちていた。

 長い髪が枕に広がり、横を向いた顔の前に華奢な手が見えている。寝顔にはまだ幼さが残り、素直に可愛いものだと思う。

 さて、と、ソファに戻って、自分の心の中を整理しようとする。

 この衝動的な判断がなぜ生まれてきたのか、東山自身にもその理由が分からない。仁美を何とか助けてやりたい、その漠然とした気持ちがあったのは間違いない。だからと言って、なぜ半年の時間を買うなどという、ある意味馬鹿げた、不道徳な契約をする気になったのか。

 どう考えても、合理的に説明できる理由が見当たらない。

 合理的な理由がない・・・ひょっとすると、自分は仁美に恋をしかかっているのではないか、という考えが浮かんでひどく狼狽させられた。

 いや、そんなことはないはずだ。

 大江橋で呼び止められて、今の今までそんなことは露ほども思わなかった。第一、娘のような年頃である。

 しかし、一方では、生活費のためとはいえ身を任せようと声をかけてきたのである。最初から男と女であるという意識が潜在的にあったのかもしれない。

 モリのママからは、自分でも驚くような自分に出会うことがあると言われていた。

 確かに、偶然からとはいえ、ここまで面倒を見ようと考えたことは驚くべきことである。あれこれと観察をしているうちにいくつもの仁美の顔が見え、その一つ一つが東山にとっては随分新鮮なものだった。

 そして、仁美と向き合った時には、カウンセラーとしての知識や技能は失ってはいなくても、何の心構えもしていなかった。そのために、心を動かされたようだ。これまでに様々な人生や悩みに触れてきたが、クライアントを前に涙を流したことはただの一度もない。

 そう考えて行くと、一概に否定することもできなくなってくる。

 半月ほど前に佳織との会話の中で、思い付きではあったが、無茶な恋でもしてみようと言ったのも事実だ。

 まさかこんな形でその時が訪れるとは考えてもいなかった。

「自分でも驚くような自分に出会う、か」

 そう呟いて、結論の出ないまま考えるのをやめた。

 その結論がどうであれ、もう流れは止められない。先回りせずに、自分にどんな変化が起こるのか、流されてみようと思ったのだ。

 明日は、栄子さんに仁美の教育係を頼まなくてはならない。

 そして、一から身の回りのものを揃えたいと言っていたことを思い出し、佳織に付き合ってもらえないか相談してみようと思う。この馬鹿げた状況を知り、呆れられてしまうことになるかもしれないが、他に頼れる女性はいなかった。

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