英霊が来る 〜記憶無き青年の冒険譚〜
大和あゆむ
プロローグ
強大なる黒き大軍を前に、壮烈と戦った男を私は一人しか知らない。
曇天なる黒き大空を前に、英雄と成った男を私は一人しか知らない。
力が敵わぬ弱き者であっただったろうか。
力すら知らぬただの民であっただろうか。
はたまた、人の死に、人の愛に、人の情に、怯える臆病者であったかもしれない。
今や遠き歴史上の人物、彼の素性を知る者はあらかた存在しないだろう。
それが愉悦だ、私だけの瞳には明白と残っている。
彼の意志が、勇姿が、物語が昨日のようにはっきりと。
だから私は、残すのだ。
この瞳が閉じるまで、永遠と彼らを書き続ける。
もしこれを読む者がいたのなら――、
継げ。あの人達の意志を。
倣え。あの人達の勇姿を。
そして、
語れ。鳴り迫る空の上から『英霊が来る』までの、あの人達の物語を。
鬱蒼と木が生い茂る森で、少年の悲鳴が響き渡る。二回りほど大きい巨漢が、その彼を攫おうとしていた。
「このクソガキ、待ちやがれ‼」
「ハァハァ……」
必死に逃げ惑うも、限界は近づく。
木の根に足をつまずき倒れ込んだ少年と、捕えようと目論む男。
しかし、その間へ風が入り込む。いや、風のような青年だった。
男の腕を掴み返す青年は、もう片方の手で少年を覆い被さるように守った。
「なんだ⁉」
「お前、反乱軍の残党だな」
驚愕する男を余所に青年は訊く。
「だったらどうする?」
挑戦的な反問に、青年は眉一つ動かさない。
代わりに巨体を持ち上げ、宙へ置き去りにした。身動きを取れない巨漢に対して、洗練された蹴りを食らわす。
巨漢の鍛え上げられた腹を紙の如く扱い、何本かの樹木と貫通させる威力で。
死への恐怖から解き放たれた少年の瞳には、少しの輝きが戻った。再度、彼を見る。
白き外套を羽織り、腰に刀を差す十代半ばの精悍な青年。その綻ぶ笑顔には、痛みを分かち合ってくれるように感じさせてくれる。
「もう安心だよ」
「うん、でも……」
少年の意図を察したのか、白き外套の青年は頭に手を置く。
言葉を遮って、安堵に浸らせた。
「大丈夫、オレに任せて。レイン」
「はい」
透き通った返事と共に、後ろから覗く太陽のような瞳。
立てるかしら、と柔和な口調と表情で接する銀髪の、青年と同じ年くらいの女性。この人がレインと分かった頃には、優しく手を握って、後方へと下げてくれていた。
「ざっと二十人近くか」
一歩前に出た青年は、外套の裾を払い除け、悠然と刀を抜き去る。何時ぞやの英雄みたく、戦い慣れた風格を醸している。
そんな彼を討伐しようと、隠れていた賊たちがわらわらと姿を現した。
未だ不安を漂わせる少年に気付いた銀髪のレインは、ふっと笑い、話す。
「心配することないわ、あの人強いもの」
少年が恐る恐る移した目線の先には、異様な雰囲気を持ち合わす者がいた。
おそらく賊の長だろう。肩に長剣を担ぐ彼には、権威と強さをちらつかせる余力があった。
片目を器用に細めて、賊の長は青年に問う。
「てめぇら、何もんだ?」
ああ、ようやく来たか。
そんな風に笑う青年と少女が二人。粛然な声音に乗せて、己の所属を答えた。
「
「同じく第二班副班長レイン」
「光翼団だと……⁉」
騒めきが感染する賊たちを余所に、青年ライは手に風を纏った。
もう容易だと言うように胸を殴る。その動作でライには風の鎧が身に着くのだ。
「何が光翼団だ! 舐めやがって!」
一人の男がライへと襲い掛かった。剣の間合いに入ったのち、上段右からの斬撃。
そんな鈍い攻撃に、ライは悠然と刀を下ろしてしまった。
――男を斬ったあとに。
「あいにく初任務でな。舐める余裕などないんだ」
刀に滴る血を一振りで取り払う。そして一息尽きながら、鞘の鯉口に刀を沿わせて納刀する。
賊からすれば、紛れもない皮肉だ。刀を仕舞うなんて戦う価値もないと公言するに等しい。
しかし、これは嘲弄している訳でも、慢心している訳でもなかった。
今から発動する技の準備に他ならない。
ただ、腰に納まった刀を右手で掴みつつ、
「まあ負ける気もしないが」
挑発的な言葉は放つのだが。
掴む右手に力が入った刹那、白き揺らぎを灯して。
眼光を照らす。
「まさか……⁉」
鋼色の刃に加えて白光が、賊たちの視線に映る。
慌てふためく者、阻止しようと目論む者など、二十人近くの賊たちは多様な反応を見せるが、依然として彼らの結末は変わらない。
「【――】」
抜かれた刀。
倒れる木々。
地を這うように進む斬撃。
腕の動きに追従して、刀が肩と一路に並ぶ。
静謐に包まれた一帯で息をのむ者は、助けられた少年以外に存在しなかった。
銀髪のレインの微笑みに、青年ライが返したのは同じ顔。
そして後方には、抜刀術という剣技と
無明を退ける焚火に対して、ライたち三人は取り囲むように座っている。
炎がぱちっと弾ける音を聴きつつ、夕食である魚を焼いていく。
「それで兄ちゃんと姉ちゃんを助けてくれるんだよね?」
少年は懐疑的な声音でライとレインに問う。完全なる信頼を寄せた風に。
「ええ」
「だからこの洞窟で待っててくれ、テル」
「うん」
少年の名前はテル。
彼らは、今洞窟の中で夜を待ち、身を潜めてた。賊たちの仲間を見つけるためにテルから情報を得たライは、レインと共にアジトの攻略を企てていたのだ。その心配をしての事だろう。
少年テルの姉と兄は、攫われたらしい。人身売買が目的だと推測容易いが、それを本人へ言えるはずもなく、ただ助けるとだけ伝えてある。
問題は、賊たちが何者であったかという事。
先を見る限りでは、反乱軍の残党という線が有力だろう。
しかし、王家を標的とした反乱軍が一般人に危害を加えるか、と疑問を持ったライたち二人は、結局別集団であると結論付けて話を進めていたのだった。
銀髪の少女レインは、良い焦げ目がついた串焼きの魚をテルに手渡す。
ありがとうと返すテルだったが、レインの黒タイツの上、ひらりとスカートが躍った事で赤面してしまう。
テルが暗い表情以外を出した事に、ライは軽く微笑む。昔の自分を見ているかの如く。
スカートを尻に沿うよう押えつつ正座したレインは、魚を頬張るテルへ言葉をかけた。
「思い詰めちゃダメよ。あなた一人の所為じゃないんだから」
「いやぼくのせい、ぼくが見つかったせいなんだ。それに兄ちゃんと姉ちゃんを置いて逃げちゃったし、ぼくは……」
食事を止めて、俯き様に返答するテル。
そんな彼の弱気な姿を遮り、ライは想いを言い募った。
「テルは兄弟を殺すために逃げたのか、そうじゃないだろ。テルは兄弟を生かすために逃げた。君がオレ達に出会ったから生きる可能性が増えた。確かにテルが見つかった所為で二人は捕まったかもしれない。だけど、テルがいたおかげで二人は救われるんだ。自分を責める必要なんてないさ」
脳裏に茶髪の姉弟の顔を浮かべながら、ライは満面の笑みで再度口を開く。
少年に同じ思いはしてほしくないと、そう切望して。
「大丈夫。今度はオレたちに守らせてくれよ」
テルが対面するライとレインという大人同然の年上に感銘を受けた。
ここまで強い、ここまで凄い人達なんだと再確認すると同時に、尊敬の念と憧憬の影が彼に落とされる。
「あら。改めて強くなったわね、ライくん」
横に座るレインが肩をぶつけてくる。瞳を絡ませて、ああ、と同意してみせた。
その距離の近さ、言葉の短さが彼らの関係性を物語っている。長年の付き合いによって得られた信頼と好意がまざまざと表れていた。
「長かった、あれから一年半か……」
「色々あったわね」
炎の影を見て、ライは思い耽る。
それは、彼の原点。記憶の最奥だ。
一心不乱に走るしか選択の余地がなかったライは、辿ってきた道のりを振り返って笑う。
その壮絶さに、その過酷さに。
そして、
「でも、楽しかった」
楽しかったあの日々に。
何処かで聞いた言葉がふと思い浮かび、ついに思考を乗っ取った。言葉に残されるだけはあると、思わず笑ってしまう。
「過去は美化されるって本当だったんだな」
汚れた白き外套にライは視線を落とした。泥に塗れた色合いと炎に焼けた色合いが混沌とし、継ぎ接ぎの目立つその外套には幾度の試練が垣間見える。
この外套も昔はもっと綺麗だったっけ。
他所の二人には映らない、件の追想。その煌びやかさにどうしても未来が霞んでしまう。
勿論、良い事ばかりではなかったし、死を選びたくなる程の経験もその過去にはある。
過去の枷が足を鈍らせている事も確かだ。
それでも、オレは思い出してしまう。過去に浸っていたいと今でも思ってしまう。
分かってはいる。進む事しかないと分かっているからこそ、限られた過去に縋る事をやめられなかった。あの幸せでいつも未来の汚れを洗い流していたんだ。
粛然と夕焼け色の瞳がオレを捉えた。垂れた銀髪と共に。
「未来はどう? 美しく見えているかしら」
「どうかな」
未来は、いつも執拗に、今いる地点が序章に過ぎない事を理解させてくる。
その先に進もうとした時、未来は否応なく道のりの険しさを突き付けてくる。
そんな未来がオレにとってどう見えているか。
そんなの決まってる。
「美化する必要がないくらいに美しいかな」
縋る未来がある。一緒に居たい人が、再会したい人が居る。
横に座る彼女ともう一人、茶髪の少女が思い描かれた。
嫉妬を強めるレインの現在。
耳を引っ張られるライの未来とは真逆、先の答えに辿り着くまでがライの過去。
その過去こそ、これからの話。
全貌を眺めれば、この物語の主人公は天下を目前に零落した大国と言える。
が、ひとまずは一人の青年を追わねばならない。
あの哀れな青年を。
歴史、それは誰かの記憶であり、我々の記憶もまた必ず歴史となるのだから。
ただ今は蒼穹だけを仰ぎ、
変わりゆく英霊を見定めるまで、
記憶に刻んでいくのだろう。
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