第3話 無自覚の輝き

 

 

 桜ヶ丘高校での生活が始まって数週間、リリウム、いや、リリィ・フロストは少しずつ新しい環境に慣れ始めていた。といっても、彼女の「慣れる」は、戦場での適応とはまるで異なるものだった。

 教室での自己紹介で吃ったり、クラスメイトの会話にどう入ればいいかわからず黙り込んだり、彼女の不器用さは相変わらずだった。それでも、セレナの優しい笑顔や、ミオの騒がしい親しさが、リリィの心に小さな居場所を作りつつあった。

 

 この日は、一年A組の体育の授業。春の陽光が校庭に降り注ぎ、桜の花びらが風に舞う中、生徒たちは体操服に着替えて集合していた。

 リリィもまた、白と紺の体操服に身を包み、ぎこちなく列に並ぶ。

 彼女の銀色の髪はポニーテールにまとめられ、紫の瞳は周囲の賑わいを静かに観察していた。

 

「よーし、みんな! 今日は体力テストだ! 五〇メートル走、立ち幅跳び、シャトルラン、握力、上体起こし、全部やるぞ! 気合い入れていけ!」 

 

 体育教師の山田先生、三〇代の熱血漢が、ホイッスルを首にかけながら大声で号令をかける。

 生徒たちからは「えー、だるい!」「記録狙うぞ!」とさまざまな声が上がるが、リリィはただ黙って聞いていた。

 体力テスト。戦場では、身体能力は生存のための必須条件だった。だが、ここでは何をどうすれば「普通」なのか、リリィにはさっぱりわからない。

 

「リリィ、気合い入れなよ! なんか、めっちゃ速そうじゃん!」 

 

 隣にいたミオが、ニヤニヤしながらリリィの肩を叩く。リリィは一瞬たじろぎ、小さく首を振った。

 

「私は…普通、です。特別なことは…」 

 

「またそれ! 普通ってのが一番怪しいんだから!」 

 

 ミオの笑い声が響き、リリィは顔を赤らめる。

 ミオの「忍者疑惑」は入学以来エスカレートしており、クラスメイトの何人かも「リリィってなんかミステリアスだよね」と囁き合っている。

 リリィはそんな噂を否定したいが、どう説明していいかわからず、ただ視線を落とした。

 

「ねえ、リリィさん、大丈夫よ。体力テスト、楽しそうだから、気楽にやってみて。」 

 

 柔らかな声が、リリィの緊張をほぐす。セレナだ。

 彼女は体操服姿でリリィの隣に立ち、いつもの穏やかな笑顔を向けた。

 セレナの金色の髪は陽光に輝き、リリィの心を不思議と落ち着かせる。

 

「はい…ありがとう、セレナさん。」 

 

 リリィは小さく頷き、セレナの笑顔に目を奪われた。

 園芸部での時間が、リリィにとってセレナとの絆を深める貴重なひとときとなっていた。

 花の世話をしながら交わす会話、セレナの優しい声。

 それらが、リリィの心に温かな居場所を作っていた。

 

「よし、最初の種目は五〇メートル走! 二人ずつ走るぞ! 最初は…フロストと佐藤!」 

 

 山田先生の声に、リリィはハッと我に返る。佐藤ミオが「よっしゃ、負けないぞ!」と拳を握り、リリィを引っ張ってスタートラインへ向かう。

 リリィはされるがままに並び、スタートラインに立つ。

 彼女の頭には、戦場での訓練がよぎる。四〇〇メートル先の標的を八秒で仕留めたあの感覚。だが、ここは戦場ではない。普通に、普通に…と自分に言い聞かせる。

 

「よーい、スタート!」 

 

 ホイッスルが鳴り、ミオが勢いよく飛び出す。リリィも反射的に走り始めた。

 彼女の足は、まるで風のように地面を滑る。

 戦場での訓練で鍛えられた筋力と反応速度は、彼女の意識を超えて発揮される。

 ゴールラインを越えた瞬間、クラスメイトからどよめきが上がった。

 

「す、すげえ! 何秒!?」 

 

「六秒八!? 女子の学園記録じゃん!」 

 

 山田先生がストップウォッチを二度見し、目を丸くする。リリィはゴールで立ち止まり、息も乱さず周囲を見回した。

 ミオが「うそ、リリィ、めっちゃ速いじゃん!」と叫びながら駆け寄ってくる。リリィは困惑した表情で呟く。

 

「…普通に、走っただけ、です。」 

 

「普通じゃないって!」 

 

 ミオの声に、クラスメイトが笑いながら集まってくる。

 リリィは視線に晒され、顔を赤らめた。戦場では、速く動くことは生存の基本だった。だが、ここではそれが「普通」ではないらしい。

 

「フロスト、すごいな! 陸上部に入らないか?」 

 

 山田先生が興奮気味に言うが、リリィは慌てて首を振る。

 

「いえ、私は…園芸部に、入ったので…」 

 

「園芸部!? もったいねえ!」 

 

 先生の声に、クラスメイトがまた笑う。だが、その笑い声は悪意のない、純粋な驚きと好意に満ちていた。リリィはそんな雰囲気に戸惑いながらも、どこかホッとする自分に気づいた。

 

 ――ー

 

 次の種目は立ち幅跳び。

 生徒たちが順番に砂場に飛び込む中、リリィはセレナの隣で待機していた。

 

「リリィさん、さっきの走り、すごかったね。運動得意なの?」 

 

 セレナの質問に、リリィは少し考えて答えた。

 

「…昔、訓練を、たくさんしたので。体を動かすのは、慣れてます。」 

 

「訓練?」セレナが首を傾げる。リリィはハッとして言葉を濁した。

 

「その…家族が、厳しかったので…」 

 

 偽の過去を口にし、リリィは視線を落とす。セレナはそんなリリィをじっと見て、優しく微笑んだ。

 

「そっか。リリィさん、頑張り屋さんなんだね。次の種目も、楽しみにしてるよ。」 

 

 セレナの笑顔に、リリィの胸が温まる。彼女はセレナの言葉に、戦場では感じなかった安らぎを覚えた。

 

「フロスト、行くぞ!」 

 

 山田先生の声に、リリィは砂場に立つ。戦場では、障害物を飛び越える訓練で、彼女は常にトップだった。だが、ここでは「普通」にやらねばならない。

 加減を…と心の中で呟きながら、軽く屈んで跳んだ。

 

 着地した瞬間、またどよめきが上がる。砂場の目盛りは、二メートル七〇センチを示していた。

 

「うそ、二メートル七〇!? 学園記録更新だ!」 

 

 山田先生が叫び、クラスメイトが拍手と歓声を上げる。リリィは砂場から立ち上がり、困惑した顔で周囲を見た。

 

「…加減、したつもり、です。」 

 

「加減してこれ!? リリィ、なんなの!?」 

 

 ミオが笑いながら突っ込み、クラスメイトも「忍者確定!」「めっちゃかっこいい!」と口々に言う。

 リリィは顔を真っ赤にし、セレナの方を見た。

 セレナはくすっと笑い、拍手をしながら近づいてきた。

 

「リリィさん、すごいよ! なんか、キラキラしてる!」 

 

 セレナの言葉に、リリィの心臓がドキリと高鳴る。キラキラ。

 戦場では、彼女の存在はただの「兵器」だった。

 だが、セレナの笑顔とクラスメイトの好意的な反応に、彼女は初めて「自分」が認められる感覚を味わった。

 

 ――ー

 

 シャトルラン、握力、上体起こしと、体力テストは続いた。リリィはどの種目でも、意識せずとも学園記録を次々に塗り替えた。シャトルランでは、クラスメイトが疲れて倒れ込む中、彼女だけが息も乱さず走り続け、山田先生が「もういい、ストップ!」と叫ぶまで止まらなかった。

 握力では、測定器が軋む音を立て、五〇キロを超える数値に先生が「壊れるかと思った!」と笑う。

 上体起こしでは、一分間で七〇回を超え、クラスメイトが「人間じゃない!」と冗談交じりに叫んだ。

 

「フロスト、お前、どこのアスリートだ!?」 

 

 山田先生が半ば呆れながら言うと、リリィは小さく首を振った。

 

「私は…普通、です。」 

 

「普通じゃねえよ!」 

 

 クラス全体が笑いに包まれる。

 リリィはそんな雰囲気に圧倒されながらも、どこか温かい気持ちが胸に広がるのを感じた。戦場では、彼女の力は恐怖や脅威の対象だった。

 だが、ここでは、彼女の力が笑いと驚きを生み、仲間たちとの絆を繋いでいる。

 

 テストが終わり、クラスメイトが校舎に戻る中、セレナがリリィに近づいてきた。

 

「リリィさん、ほんとにすごかったよ。なんか、びっくりしたけど…かっこよかった。」 

 

 セレナの穏やかな声と、彼女の澄んだ瞳に、リリィは言葉を失う。

 かっこいい。そんな言葉を、誰かに言われたのは初めてだった。

 

「ありがとう…セレナさん。」 

 

 リリィは小さく呟き、視線を落とした。頬がほのかに熱くなる。

 セレナはそんなリリィを見て、くすっと笑った。

 

「園芸部でも、リリィさんのそういう頑張り屋なところ、役に立つと思うよ。明日、温室でまた花の世話しようね。」 

 

 その言葉に、リリィの心が温まる。園芸部での時間、セレナとの会話、花の香り。

 それらが、彼女の新しい居場所となりつつあった。

 

 ――ー

 

 その夜、リリィはアパートの部屋で、ベッドに横になりながら今日のことを振り返った。体力テストでのクラスメイトの笑顔、セレナの優しい言葉。戦場では、彼女の力はただの「結果」を生むためのものだった。

 だが、今日、彼女の力は仲間たちとの繋がりを生んだ。

 

「普通…じゃない、のかな。」 

 

 リリィは呟き、枕元のスズランの鉢を眺めた。セレナからもらったその花は、月明かりに照らされて静かに揺れている。

 彼女の胸の奥で、微かな希望が芽生えていた。

 それは、戦場では決して感じなかった、未来への温かな光だった。

 

 ――ー

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