第4話「種を求めて」


 

 

 月日は流れ、季節は夏にさしかかっていた。

 この世界に夏があるのかは定かではなかったが、トオルにとっては夏を思い出させるほど気温が上昇しているように感じられた。

 どこからともなく虫の鳴き声が聞こえてくる。生前、会社と自宅の往復だけだったあの頃には気づけなかった声音だ。

 トオルはその声音を聞きながら、堆肥置き場へと向かう。

 堆肥作りを開始しておおよそ半年ほど経過しただろうか。そろそろ出来上がっていてもいい頃合いだが、結果はどうだろう。

 穴の縁に座り込み、じっと様子を見る。

 投入したはずの落ち葉や生ごみはほとんど原型をとどめていなかった。これも精霊様のおかげなのだろうか。 

 土のにおいが漂ってくる。その香りにトオルは確かな手応えを感じていた。

「いかがかな、トオル殿」

 トオルがそうして一人噛み締めていると、彼の背後に一人の老人が立つ。

 ホヅル。村を修める村長。

 白く長いあごひげをたくわえ、優しげに微笑む彼にトオルは頷いた。

「はい、おそらくですが完成です」

「それはよかった。……それにしても不思議じゃなぁ……あれだけあった落ち葉が今はこれだけとは」

 ホヅルは堆肥置き場へ視線を落としながら、心底不思議そうに呟いた。

 あごひげをしごき、じっと穴の中を見つめている。

「精霊様はこんなことまでしてくださるのじゃなぁ」

「魔法ならもっと便利なことができるのでは?」

「魔法はそれほど便利なものではないのじゃよ、トオル殿。何より代償が必要でな」

「そうでしたね」

 魔法のことはカスルに教えられた。

 彼女いわく、魔法を使うには命を差し出さなければならないのだという。

 命を差し出すとはただちに死を意味するわけではない。が、確実に死に近づく。

「……カスルの言う通りじゃ。精霊様は偉大ですな」

「ええと、そういえばホヅルさんも魔法が使えるんですよね?」

「左様じゃ。けれど、あまり多用しないようにしておる」

「それはどうしてか訊いてもいいですか?」

「大した理由ではないよ。……わし以外の者が死ぬからじゃ」

「え? ええと……」

 以前にカスルから聞いた話によれば、魔法は命を捧げて発動する。

 そしてそれは、何も本人の命でなくてもいい。木でも草でも動物でも、他の命を奪い魔法を行使することができると。

「わしはこの村で唯一魔法を使える人間じゃから」

 いまだにトオルにはそのあたりのことがわからなかった。

 けれど、それでもそこそこの期間を村で過ごしてきた。村長の言わんとしていることの十分の一は理解できただろう。

「……村長が死ねば、この村はさらに弱体化するんですね?」

「左様。さりとて、それも一時しのぎにしかならんが」

「それはどうしてです?」

「トオル殿もわかっているじゃろう。……人はいつか死ぬ。わしとて例外ではない」

 それはその通りだ。

 人は生きている限り、いつか死を迎える。その後にどうなるのかは誰にもわからない。

 トオルはある意味、運がよかったのだと言えるだろう。神に見つけてもらい、この世界に連れて来られた。

 けれど、誰もがそうした幸運を掴めるとは限らない。転生する機会のないままの魂もきっとあるはずだ。

 トオルは立ち上がり、ホヅルへと向き直る。

「それでも、あなたが死ぬことを望んでいる人なんていないのでは?」

 チヅルもカゲンもイルルも、村の誰もが彼の死を恐れているはずだ。

 トオルもその一人。付き合いはそれほど長くはないが、死んでほしくはないと願っている。

「……ありがとう、トオル殿。貴殿の言う通りじゃ」

 ホヅルは笑い、あごひげを撫でる。トオルの気持ちがきちんと伝わったのかどうかはわからなかった。

 けれど、多少は彼の心労を和らげることができたのだと、そう信じたかった。

「ところでトオル殿、これはそろそろ完成ですかな?」

「はい、完成間近です。念のためにあと一月はこのままにしておいた方がいいとは思いますが」

「なるほどのう……」

「村長、トマの種はありますか?」

「ああ、あるが……どうするのじゃ?」

「苗を作りましょう」

 そう言うトオルの表情は明るかった。

 苗作り。植え付けをして活着させる。

 動画を観ていて、このシーンほどトオルをわくわくさせたものはなかった。

 人の手によって育てられた植物。セルトレイやポッドから畑に定植されたその植物たちが大地に根を張り、ぐんぐんと大きくなっていく様子は見ていて気持ちがよかった。

 ぜひともそれを成し遂げたい。トオルはトマを育てるのだと決意した瞬間から考えていた。

 育苗から定植までを自分たちの手でやり遂げたいと。

 会社員だった頃、トオルは〝芽が出る〟という言葉が嫌いだった。

 若手社員を鼓舞するかのような言い方が気に入らなかったのだ。実際にはただ、言葉巧みに彼らを生かさず殺さず掴まえておくだけの言葉に過ぎなかったというのに。

 かくいうトオルとて、そうした上辺だけの美辞麗句を並べて新人社員をこき使ってきた側だったのだけれど。

 そんな生活に嫌気が差していた。大地を耕す農業系youtuberの人たちは、少なくとも表面上はそんな苦悩とは縁遠いように思えた。

 無論苦労がないとは言わない。しかし、誰もが清々しい顔をしていたようにトオルには見えたのだった。

「苗とな? 種を撒くのではなく?」

「それでもいいんですけど、まずは苗作りからした方がいいかと。ええと、なんだったかな……」

 コツコツと側頭部を叩き、記憶を呼び起こす。

 なぜ苗を作るのか。その理由。

「苗を作ると、成長のいいものと悪いものを選別できる……んです。成長のいいものを優先して植えてから悪いものを後に回すということもできる」

「ほう……なるほどのう。成長が揃わず毎年困っておったからのう。もしそれが可能なのだとしたら便利なものじゃ」

 畑の一角の成長速度、収穫適期を揃えることができればより計画的な栽培が可能になる。

 もちろん自然が相手なのだから、そううまくはいかないだろう。それでも全く何もしないよりは断然いいだろう。

 トオルはきらきらと目を輝かせながら、ホヅルの返事を待っていた。

 種を保管している場所へと案内してくれることを期待しながら。

「……よし、ではそうしてみようかのう」

 ホヅルは口の端をつり上げ、にんまりと笑う。きっと、トオルと同じ想像をしたのだろう。

「付いて参れ」

 くるりと踵を返し、ホヅルは歩き出す。種の保管されている場所へ案内してくれるようだ。

 トオルは彼の後に続く。なんだかわくわくしていた。

 こんな感覚は久しぶりだ。長らく忘れていた子供の頃のような気持ちに、どこか気恥ずかしさすらあ。

 胸が躍るとはこういうことを言うのだろう。

 ステップを踏みそうになりながら、ホヅルの後に続く。

 堆肥置き場から少し離れた場所に種の保管庫はあった。

 涼しげな場所だった。近くを沢が流れ、肌に感じる気温がやや下がったような気がする。

 小屋の周囲には背の高い木が生えており、小屋を日差しから守っている。

 種の保管場所としては最適とは言えなかったが、それでもベストな環境だろう。

 何より、ホヅルたちは毎年ここに種を保管し、トマを栽培している。なら、地理的不足はないはずだ。

 これは期待が持てるな、とトオルは内心うきうきだった。

 長かった。およそ半年という期間はトオルにとって非常に長かった。

 けれどようやく、これでトマの栽培に着手できるのだと思うと嬉しいという気持ちの方が強かった。

 だからだろう。問題を失念していたのは。

 いや、トオルは農業知識をyoutubeやネットで得ていたに過ぎない。実際に体を動かして作業をするのはこれが初めてだ。

 だから思い至らなかったとしても無理はないだろう。痩せた土地で育った作物から採った種がどんなものになるのかを。

「あの……失礼ですが、これだけ?」

 保管小屋に足を踏み入れたトオルが見たのは、種を入れていたであろう箱。そしてその箱を置いておくための棚。

 箱の中身は……すかすかだった。ほとんど何も入っていない。

 ホヅルに訊ね、トマの種の箱を手に取る。こちらも空っぽに近かった。

「……実は去年の収穫量は非常に少なく、加えて種もあまり取れなかったのじゃ」

「そんな……」

 トオルは箱を棚に戻し、肩を落とした。

 箱の中にあるのは十二、三粒ほど。

 たったこれだけでは明らかに足りない。土壌の再生に成功したとしても、種がないのでは話ならなかった。

 絶望だった。他の作物に切り替えるという手もあったが、どれもこれも似たり寄ったり。

 数という点で圧倒的に足りなかった。これでは村人が食べるだけの量もあるかどうか。

 厳しい現実がトオルを打ちのめす。何か手立てを考える必要があったが、どうしたものだろう。

「無論ずっと手立ては考えていたのじゃ。けれど、思いつくものを試してみてもうまくいかなんだ……」

 疲れたように呟くホヅルに、トオルは何も言えなかった。

「やはり、我々はこのまま……」

「待ってください、まだ手はあるはずです」

 あきらめの言葉を口にしようとしていたホヅルを、トオルは制した。

 トオル自身、あまり希望を見出せるような状況ではなかった。ホヅルが手を尽くして変えられなかった現状を果たして変えることができるのか。

 トオルは必死に思考をめぐらせる。

 現状を打開できる、何かいい一手を――。

「そうだ! トマの種ってどこで手に入れましたか?」

「そ、それは毎年トマの実から……」

「そうではなく、一番最初の種です」

 村がトマの産地となったのなら、そのきっかけとなった最初の一粒があったはずだ。

「それを手に入れることができれば、また育てられる」

「最初の種……それは思い付かなかった……」

 ホヅルは目を見開き、小さく唸る。

「確かにそれがあればこの状況を打開できる。しかしどうやって見付ければいいんじゃ……?」

 眉をひそめ、考え込むホヅル。村長であり、長年村で暮らしてきたであろう彼ですらわからないとなれば、トオルには到底わかるはずもなかった。

「……もしや、カスルなら何か知ってるやもしれん」

「カスルさんが?」

 言われて反射的にカスルの顔を思い出す。

 しわがれた声と深く刻まれた皺は彼女が長い年月を苦労を重ねて生きてきたことを教えてくれていた。

「左様。彼女はわしよりはるかに長生きをしておる。わしが知らんこともカスルなら知っておるやもしれん」

 二人は一目散にカスルの自宅を目指したのだった。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 トオルが来訪を告げると、カスルは嬉しそうに顔をほころばせた。

 けれど、ホヅルも一緒だと知るやその表情は一気に険しいものへと変貌する。

「なぜこの小僧が一緒におるのじゃ」

 小僧、と聞いてパッとトオルが思い浮かぶのはカゲンだが彼はもう小僧という年齢ではない。

 まあカスルから見れば、カゲンなどまだまだひよっこも同然なのだろうけれど。

 ではホヅルのことだろうか、とトオルはちらりと背後を振り返った。

 この場でトオルの他に誰かいるとするなら、ホヅルだけだった。

 ホヅルはあごひげを撫でながらにこやかにカスルに話しかける。

「カスル、それほど邪険にしないでもらいたいものじゃの」

「ふん、魔法などという悪しき術に手を染めたおぬしをわしは許さん」

「魔法は悪ではない。また善でもない。ただの魔法だ、使い方によっていかようにでもなる」

「それはそうじゃ。だが人間はおろかな生き物じゃからな。ろくな使い方を思いつかんに決まっとる」

 ホヅルを睨みつけ、しわがれ声をさらに深めながらカスルは続ける。

「おぬしが一番よくわかっているはずじゃ。魔法を扱うものはあまねく災厄をもたらすと」

「それはそうじゃ。なればこそ心を強く持ち、正しきことにのみ使うのだと……」

「ふん、それができれば王国は戦争などというくだらん浪費をするまいて。かの愚王は魔法というものの本質をまるでわかってはおらぬようだな」

「……愚王と呼ぶのはやめてほしい。それに、今日は言い争いをしに来たわけではない」

「用ないのであれば出ていってくれんかの」

「実はですね……」

 やっと話に入れる。

 トオルはそう判断して、カスルの許へとやってきた経緯を語る。

「種が足りなくて、なら元あった場所に取りにいけばいいのではということになったんです。しかし俺も村長もどこにあるのかを知らない」

「……ふむ、なるほどのう。そこでわしなら知ってやせんかと話を聞きに来たわけじゃの」

「その通りです、カスルさん」

 カスルはトオルを見て、それから嫌悪の混じった視線をホヅルへと向ける。

 知っている。カスルがまだ幼い頃は頻繁に取りに向かっていた。似たような植物とかけ合わせては失敗してを繰り返し、その度に原種を採取しに行くのに同行したものだ。。

「知ってはおる……」

 ホヅルに協力するのは業腹だった。魔法をよく思っていないカスルからすれば、ホヅルに協力することは感情面では憚れる。

 けれど、もっと広い視野で物事を――例えば村全体を助けるという意味合いで考えた時、カスルの持つ情報はその可能性を飛躍的に向上させることになるだろう。

 どちらを選択するべきかは明白だった。

「……どちらが思い付いたのじゃ?」

「え? ええと、俺です」

「ふむ……まあよかろう。トオルに免じて、今回は協力しよう」

「本当ですか」

「ああ、村のために尽力してくれているのじゃ。できることは協力せねば」

 意固地になって協力してくれないのかと思ってしまった。トオルはほっと胸を撫で下ろした。

「よい、よい。礼を述べるのはわしの方じゃ。この阿呆がいつまでも手をこまねいていたからこうなったのじゃから」

「いやいや、カスルは手厳しい」

 ホヅルがあごひげを撫でながら笑っている。どこまで本気で言っているのかわからなかった。

 ともかく、これでカスルの協力は約束された。トオルはもう一度感謝を述べ、老婆は首を横に振る。

「本当ならわしらが自分たちでどうにしなければならない問題じゃ。それをおぬしに押し付ける形になってしまった」

「俺は大丈夫です」

 どの道日本に帰ることはできないのだから。この世界で生きていくしかない。

 現状、村の存続はトオルにとっても死活問題だ。協力するのは当然だろう。

 それに、トマの種の採取という一大イベントは必ず参加したかった。会社員時代にはなかった高揚感がトオルの行動力を上げていた。

「トマの種を採りに行きたいと思うのですが、どこにあるかわかりますか?」

 トオルが訊ねると、カスルはやや驚いたように目を見開く。

「トマの種を採るとな……?」

「え、ええ……どうしたんですか?」

 黙り込むカスル。考え込んでいるようにも見えるのだが、ただぼーっとしているようにも見える。

 少しの間を置いて、口を開いた。

「トマの種はこの近くにはない。わしがまだ子供だった頃に少しばかり遠方から運ばれてきた」

「遠方って……かなり遠いんですか?」

「それほど遠くはない。せいぜいが二十日程度歩いた距離じゃ」

「ええと、それは……」

 この世界の住人にとって二十日歩くというのはあたり前のことなのだろうか。それとも村人基準で大したことじゃないということなのか。

 いずれにせよ、トオルにとって二十日間歩くというのは非常に遠い距離に思えた。

 デスクワークが中心の日本人にとって歩き通しというのはかなりつらい。

 それでもここ最近は体力が付いたのではないかと思う。とはいえ、二十日間歩くと考えると二の足を踏んでしまうトオルだった。

「なるほど……それでカスル、トマの種のありかはどこじゃ?」

「……ドライドア山脈の中腹より上じゃ」

「ドライドア山脈……ふむ、それはそれは」

 ホヅルはあごひげに触れ、眉間に皺を寄せる。

 先ほどまでの剣呑とした雰囲気とは打って変わり、困ったような空気感に包まれていた。

「どうしたんですか? ……険しい山なんですか?」

「険しい、か……まあそうじゃのお……」

「ドライドア山脈はかつてブブ族が暮らしておった山よ。今も住み着いておるのかは知らん」

「ブブ族……ですか」

 左様、とカスルは頷く。彼女の口調は寂寥を孕んでいた。

「ブブ族はわしの故郷じゃ。わしはこの村に嫁に来るまではそこで暮らしておった」

「そうなんですか……俺はてっきりカスルさんはずっとこの村に住んでいるんだと思ってました」

 これは意外な事実を知れた。まさかカスルがお嫁さんとして嫁いでいたのだとは。

 けれど考えてみれば、それほど不思議な話ではないのかもしれない。

 近隣の村から嫁または婿を迎えることは、古代の日本でもよくあった光景だという話は知っていた。

 村の中だけで完結していると血が濃くなりすぎる。血が濃くなり過ぎるといろいろと弊害が起こる。

 それを防ぐために、嫁をもらったり婿にいったりするのだとか。

 つまりはそういうことなのだろう。

「それほど険しい山ではないから安心せよ。とはいえ、慣れない人間にとってはつらい道のりになるじゃろう」

「トオル殿は山登りには自信がおありか?」

「ないですよ、そんなの……」

 トオルの返答を受け、ホヅルは思案顔で言う。

「では、トマの種の採取は我らにおまかせいただこう」

「ま、待ってください。俺も行きます」

 ホヅルは体力に自信のないトオルに気を使ってくれたのだろうが、トオルとしてはトマの種採取には参加したかった。 異世界にやってきて、自分なりに農作業に従事してみて知らないことが多くあることに気づかされた。

 また、そうした知らなかったことを知ってゆくことの喜びも。

 だからこそ、トオルは農業というものがより好きになっていたし、これからも好きになっていくだろう。

「しかしトオル殿は……」

「大丈夫……だと思います。俺も役に立てる……と思います。なんとかなる……はずです」

 トオルは自信満々とは程遠い声音弱々しく宣言する。

 実際、自信なんてなかった。本当に二十日間も歩けるのか、その上でトマの種をちゃんと採取することができるのか。

 全く未知の領域だった。想像の埒外な事態に自信を持てるほどトオルは若くはなかった。

 自信を持つには根拠が必要で、この場合根拠とは過去の実績に由来する。けれど、トオルに実績なんてない。

 前例のないことを声を大にして宣言することは彼には難しいことだった。それでも、自信がなくても行きたかった。

 自分の目で実際に元気へと赴き、トマの種を採取する。それはトオルにとって部長へ昇進することより何倍も価値のあ ることだと思えたから。

「俺もぜひ一緒に行きたいです」

「しかし……」

「別に構わんじゃろうて。それほど険しい山道というわけでもない。ただまあ、余裕を持った道程が肝要じゃろう」

 渋るホヅルと助け船を出してくれるカスル。

 ホヅルの懸念はもっともだった。

 トオルは村の恩人たり得るだろう。もしトマの栽培がうまくいかず、来年の税が払えなかったとしても怨む道理はない。

「命懸けの旅になる」

「うっ……」

 ホヅルの表情は真剣そのものだった。彼の言葉は真実だろう。

 この世界には車も飛行機もなく、移動手段といえばもっぱら徒歩だ。

 都市部では馬車も運行しているらしい。乗合馬車を乗り継いでいけば移動時間は短縮できるが金銭的負担も増える。

 距離や行路にもよるが、村に馬車の料金を払えるほどのたくわえなどなかった。

「……五人ほどで向かってもらうのはどうだろう?」

「ほうほう。して誰が行くのじゃ?」

「そうじゃのう……」

 ホヅルは考え込むようにして虚空を見上げる。

 ぐるりと視線をめぐらせ、遠征メンバーを選別しているのだろう。

「……まず、カスルには言ってもらおうかの」

「なぜわしなんじゃ? 若いもんだけでいいじゃろう」

「けれど、トマの原種なんてわかるものなのかのう?」

「わからんことはないとは思うが……確かに不安は残るのう」

 トマの実とはそれほど見た目が違うのだろうか。

 トオルはなんとなくトマトのようなものを想像していたが、もしかしたら違うのかもしれない。

 未知の植物だというのならなおさら見てみたかった。ここはぜひ同行したい。

 ホヅルはカスルを旅に向かわせるつもりだった。

 しかしカスルは高齢だ。一人では絶対に不可能だろう。

 同行者が必要だ。

「カスルの世話役にチヅルを付けよう。あの子なら必ずや力になってくれる」

「ああ、そうだろうとも。あの子が一緒なら安心じゃ。ホヅル、おぬしと違ってのう」

「余計なことは言わなくてもいい。……さて、カスルとチヅルと……そうじゃの、カゲンにしようかの」

「カゲン、ですか」

 自分は? と訊ねたつもりだったのだが、ホヅルはさして気にも留めてないかのように視線を逸らす。

「それから……カズラとハマルがいいじゃろうな」

 聞き覚えのある名前だった。二人とも村で戦士をしている。

 カズラはカゲンより一つ年上の男性戦士。落ち着いた雰囲気が好感を持てる偉丈夫だ。

 対してハマルは数少ない女性の戦士。体を動かすことが好きで、よく村の子供たちと遊んでいるところを見た。

 どちらもカゲンから紹介があったが、あまり話をしたことがなかった。どんな人たちなのかよく知らない。

 もし一緒に旅をすることができればその人となりを知る機会もあっただろう。

 けれど、この雰囲気ではトオルはメンバーに選ばれないだろう。

 そう思い、トオルは肩を落としていた。そんな彼の耳に、ホヅルのもったいぶったような声が届く。

「最後にトオル、おぬしにも行ってもらおうかのう」

「……俺?」

「なんじゃ? 行きたかったのではないのか?」

「い、いや……行きます」

 なんだか騙されたような気分だった。最初はだめと言っていたのにと不満に思う。

 けれど、それを口にすることはなかった。

 ただただ、トオルの中に高揚感がふくれあがる。

 冒険が、始まる――。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 ――なんてことを思っていた過去の自分を殴り飛ばしてやりたかった。

 トオルは太陽を見上げ、うらめしげに唸る。

 かんかん照りだった。太陽の熱が地面を焦がし、ついでとばかりトオルの体力を奪っていく。

 前方を歩くカゲンたちへと目を向けると、四人はさもなんでもなさそうに歩を進めている。

 カスルですら、年齢の割に足腰がしっかりしていた。ちょっし信じられない。

「くっ……迷惑はかけられない」

 トオルは歯を喰い縛り、必死で四人の後を追う。

 異世界に来て早数ヶ月。具体的にはわからないが、半年は経っているはずだ。

 前世に比べ、それなりに体力も付いたのは間違いないだろう。しかし、カゲンたち戦士はともかくチヅルやカスルにまで遅れをとってしまっている。

 これはまずい、と思っていると、遅れているトオルに気付いたのかチヅルが歩く速度を緩めて近付いてきた。

「あの、大丈夫ですか?」

「だい、じょうぶです……俺のことはいいんで」

「そういうわけには……トオルさんのことを気にかけてくれと父にも言われていますし」

「でもチヅルさんにはカスルのお世話が……」

「父はそう言っていましたけど、カスルお婆ちゃんは誰よりしっかりした人なので」

 そう言いながらチヅルは前方を歩いているカスルへと目を向けた。トオルもつられるようにしてそちらへと視線をやる。

 すると確かに、カスルは誰よりも元気だった。カゲンたちを叱咤しながら先へと進んでいく。

 ずんずんと進んでいく彼女の後姿は若々しく、同時に自分が年寄りにでもなったかのような錯覚をトオルに抱かせる。

「だめですね、俺は……こうして足手まといになるくらなら村で大人しくしているべきでした」

「いえ、そんなことは……」

 口では否定しつつも、チヅルも同じようなことを思っているのだろう。目が泳いでいた。

 トオルがいなければ、旅はもっと順調に進んでいただろう。実際、彼がいることで途中何度か休憩を挟んでいる。

 目的地のドライドア山脈へは村から徒歩で十日ほどかかるという。

 けれど、トオルの体力のなさを勘案して二十日を前提に日程を組んでいる。倍の時間を見積もっているわけだ。

 本来より長く旅が続けば、それだけ体力を使う。

 ドライドア山脈はその名の通り高い山だ。カスルの話を聞く限り、富士山ほどの標高なのだろう。

 富士山には毎年、登山に相応しくない装備で挑むバカ野郎が現れて遭難または死亡しているとニュースでやっていた。

 だからトオルは、もし自分が登山をすることになるのだとしても舐め腐った格好はしないと心に決めていた。

「しかしこれは……」

 別に旅を軽く見ていたわけではない。トマの種の採取に同行したいし、植生にも興味はあった。

 だけれど、覚悟だけではどうにもならないことは世の中にいくらでもある。

 異世界に来たからといって劇的に好転するわけがなかった。

「少し休憩しますか?」

「いえ……俺は大丈夫です……それより、今日中に目的の町まで……」

 村を出ておよそ八日経過していた。予定ならそろそろ中間地点の町までたどり着く頃合いだ。 

 ドライドア山脈まではそこから更に十~十三日ほど歩くらしい。もちろんお金があれば短縮は可能だ。

 ないけど。

 そんなわけで、トオルたちはかれこれ八日間歩き通しだった。

 当然、導入で野宿をしたりもしたが、それだけで疲れを取ることは不可能だった。特にトオルのように野宿になれていない人間にとっては、逆に疲労が溜まったりする。

 だからといって眠らず、休憩も取らずに歩き続けることはできない。

 カゲンたち村の戦士が周りを警戒してくれているおかげで、眠れるか否かはともかく座ってゆっくりと食事をする事ができたわけだ。

 その部分に関しては感謝しているのだけれど、それはそれとしてきちんと屋根のある場所で休みたかった。

 せめて、野生動物や野党に怯えず休める場所に行きたいとトオルは考えていた。

 チヅルも同じ気持ちだったのか、トオルを心配しつつもそれ以上何も言わなかった。

 ただ彼の隣で歩き続けるだけだ。

 トオルはチヅルから前を行く面々とへ視線を移す。

 トオルたちの前には四人がいた。

 一人は先ほど話題に上がったカスル。村の最高齢の女性で、トオルも何かと村の生活の中でお世話になっている。

 性格な年齢は誰も知らなかった。トオルの予想ではおそらく八十歳は越えているだろう。

 それでも彼女の足取りはしっかりしていた。トオルなどよりよほど。

 そんな彼女の隣を歩くのはハマルという女性の戦士だった。彼女ははつらつとした性格で、運動能力の高い人物だ。

 村人に共通の褐色の肌はやや白っぽく、女性らしいシルエットが映える。

 きちんと主張すべきところは主張し、くびれる個所はくびれていた。

 身軽であることを好んでいるらしく、肌の露出の多い軽装が目立つためトオルとしては目のやり場に困ってしまう。

 彼女の身体つきは女ひでりのトオルには目に毒だった。

 そんなハマルの隣を歩くのは、カゲンだ。周囲を警戒しつつも楽しそうに談笑してくれている一団のリーダー的存在だ。

 そして彼の左隣には静かに微笑んでいる男性。やや長めの髪とあつい唇がカゲンのような若い戦士にはない色気を漂わせていた。

 おそらくはトオルよりやや年下だろう。三十歳前後といったところだろうか。

 けれど、十歳以上は若く見えるのだから不思議だ。

 トオルは自分の顔に触れ、溜息を吐く。

「あの、トオルさん……本当にきついのでしたら言ってくださいね?」

「あ、ああ……ありがとうございます。本当に大丈夫ですよ」

 本当は大丈夫ではなかった。今すぐにでも倒れ込みたいところをなんとか堪えている状態だ。

 トオルのせいで日程が倍になったのだ。ニムという中間地点への到着は十日の予定だった。

 後二日。だというのにニムに到着する気配はまるでなかった。

 その事実がトオルを焦らせる。自分のような足手まといがいるからこんなことになってしまっているのだと。

 だから、その遅れを取り戻すべくトオルは必死で足を動かしていた。

 疲れたと主張している場合ではない。

 なんてことを考えていると、カゲンが振り返った。

「もう少しでニムに到着だ。頑張れ」

「はい……ニムってどんなところなんですか?」

 疲労から気を逸らせようと、トオルは話を振る。体力はあまりなかったけれど、無言でいるとそれを意識してしまうから。

 三人の戦士はお互いに顔を見合わせ、小さく頷いた。

「そりゃあもちろん、素敵なところだよ」

 ハマルは白い歯を見せて笑う。具体性の全くないその言い方にトオルは苦笑した。

 その言葉足らずを補うように、カズラが口を開いた。

「宿場町だ。人の往来が激しくて、常に賑わっている。商人や旅人、時にはギルドの一団が宿泊したりもするらしい」

「ギルド……」

 聞いたことはあった。会社の若い子が話をしていたところを何度か聞いたことがある。

 だが、具体的にどんな集団なのかはわからなかった。その子はその後すぐにやめてしまったから。

 トオルはもうすぐ到着するというそのニムという町に思いを馳せる。

 異世界に来てからあの村から出ることはなかった。その日その日を生きていくのに必死だったからというのもあるし、何より農作業が楽しくてそんな発想になることもなかった。

「ギルドというのは?」

「わたしもよく知らないんですけれど、なんでも迷宮を踏破したり未開の地に踏み入ったりする人たちらしいです」

 チヅルが簡単に説明してくれるが、トオルとしてはいまいちよくわからなかった。

 何にせよ、トオルが関わることはないだろう。冒険は今しばらくは遠慮したかった。

 トオルがチヅルの話に耳を傾けていると、ハマルが歩く速度を落として近寄ってくる。

「ただ、気を付けた方がいいよ」

「な、何に気を付けた方がいいんですか?」

「そういうところには大抵、輩が入り浸ってるものだから」

「や、輩……ですか?」

 ハマルはふんふんと頷いていた。

「そう。交易の中継地点としての役割もあるから商人の荷物を狙った野党も現れるんだよ」

「それは恐いですね」

 そうなったら自分たちもまずいのでは、とトオルは思った。野党に襲われる未来を想像してしまい、ぞっとする。

「大丈夫だ。そのために俺たちがいる」

 カゲンはニッと笑い、冗談めかしてそう言った。

 彼の実力は本物だ。以前に自分より何倍も大きな猛獣、ガオンを討伐したこともある。

 もちろん、あの時は様々な偶然が重なり、運がよかったということも大いに考えられる。それでも勝利に変わりない。

 そんな幸運が続く保証はないが、連続しないと確定しているわけでもない。

 それに、幸運とは努力した者にしか訪れないとどこかの誰かが言っていたような気もする。

 なんてことを考えていると、目の前に小さな町が現れた。

「あれが……」

 トオルは乱れた息を整えながら、その町を眺めていた。

 宿場町ニム――それが町の名前だった。人々が行きかう交易の中間地点。

「ああ、あれがそうだ。……思ったよりはやく着いたな」

「そうだな。トオルが頑張ったからだ」

「いえ、俺なんて……」

 カズラは振り返り笑いかけてくる。けれど、トオルとしてはどうやっても足を引っ張っていたという印象しかなかった。

 何はともあれ、目的の町に到着したわけだ。ここで体を休めて、ドライアド山脈へと向かう。

「よし、それじゃあもうひと踏ん張りだ」

 カゲンの号令で、更に歩を進めるのだった。

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 宿場町ニムへとたどり着いたのは、日も傾きかけた頃だった。

「……なんだか物々しいですね」

 トオルは街中を見回して呟いた。それにカズラも同意を示す。

「この時間はまだ賑わっているはずなんだが……」

 正確な時刻などわかるはずもなかった。が、西日が赤々と大地を照らしている様子から、まだそれほど遅い時間帯ではないことは容易に想像がつく。

 けれど、町中には人気は少なかった。頭から指先まで甲冑をまとった人々が宿屋の前で直立不動の姿勢を保っている。

「ええと……何があったんでしょう?」

「わからん。とにかく宿を見付けないとな」

「じゃないとわたしたち、また野宿することになっちゃうね」

「はは……勘弁して欲しいですね」

 ハマルの冗談は笑えなかった。が、ことと次第によっては彼女の言葉が本当になってしまう懸念は確かにあった。

 ニムの普段の状況をトオルは知らなかった。それでも現状が異常事態であることはなんとなく察しが付く。

 まるで役員が視察に来た時のようだと思った。

「あの人たちは一体……?」

「騎士団のようだな」

「騎士団……」

 じろり、と睨まれた……ような気がした。兜を被っているので、実際に睨まれたのかは定かではないが。

「……なんだか怖い人たちですね」

「まあな……騎士団は武闘派揃いだからだろう」

「なるほど……カゲンと同じく戦士ということですか」

 関心したようにトオルが言うと、カゲンは心外だとばかりにじろりと視線を向けてくる。

「他所のことはわからんが、少なくとも俺たちとあんな騎士連中を一緒にしないでくれ」

「というと?」

「騎士ってのは融通の利かねえ連中だ。奴らは誇りじゃなく権力のために戦う。まさしく信念ってもんがねえんだよ」

「おいカゲン、あまり滅多なことを言うもんじゃない」

 カゲンの過激な発言に苦言を呈するカズラ。戦士三人の中では最年長の彼は無駄な争いは避けたい方針のようだ。

 戦士としての実力はカゲンの方が上だろう。戦闘という場において、彼ほど頼りになる存在はいない。

 一転、組織の長としてはカズラの方が適任に思える。実際、カゲンやハスルの面倒をよく見ている気がする。

 カスルやチヅル、トオルなど一党の全員に気を配っていた。

 こと戦闘となれば若く実力もあるカゲンが先頭に立ち槍を振るうだろうが、それ以外の場面ではカズラが何かと取り仕切ることになるだろう。

「ねえカズラちょっとあの騎士様たちにちょっかい出してきていい?」

「ハマルまでそういう冗談を言うのはやめてくれ。……いや本当に」

 カズラは疲れたように溜息を吐きつつ、若い二人の暴走を食い止めていた。

 その様子を非戦闘員であるトオルたちは遠巻きにしていた。なんとなく、今カズラに話欠けるのはためらわれたからだ。

 ひとしきり二人と会話を終えたカズラは疲れた顔でトオルたちの許へと戻ってくる。

「すまない、トオル殿……歩き通しで疲れだだろう、あの二人が余計なことをする前に宿を取ろう。カスルもそれでいいか?」

「わしはそれで構わんよ。別に疲れてもおらんが」

 そう言って軽く肩をすくめるカスルをトオルは信じられないような気持ちで眺めていた。

 彼女より二回り以上年若いはずの自分がこれほど疲労を感じているというのに。

 本当のところはわからなかったが、傍目から見る限りカスルは疲れを感じさせない。チヅルにしても同じだった。

「さすがはカスルさんですね。恥ずかしながら俺はもう足がパンパンで」

「いや、さすがにわたしたちも疲れたよ。でもトオルを守るようにって村長から言われていたからねー」

「はい、それは感謝しています。おかげで道中も安全に旅をすることができました」

 トオルが素直に礼を述べると、ハマルは気恥ずかしそうに頬を掻く。

「そう? ……だったらいいんだけど。まあまかせておいてよ、あたしらそういうの得意だから」

 ね? とカゲン、カズラに同意を求める。二人もまた、ハマルの言葉に頷いた。

「そうだな。――ともかく今は宿を取ることが先決だ」

 カズラの指示に従い、一同は彼の後ろに付いて行く形で町を練り歩く。

 さすがは宿場町。右を見ても左を見ても宿屋があった。

 旅人や商人がよく足を運ぶ場所だ。貿易の中継地点としての側面も持つニムの町は主に宿泊、環境、農業、飲食の四つの産業が盛んで、それに加えて流れてきた珍しい品物を転売することで収益を上げている。

 以前はホヅルたち村の面々もよくこの町に訪れていたのだという。トマの実が取れなくなってから久しく足を運んでいなかったが、先の狩りで大量の獲物を売るために三月ほど前に訪れたのだとか。

 もっとも、その時はハマルとカゲンは村にいたのだという。

「その時はこれほどの騎士はいなかったはずだ。商人の姿も見当たらないな。酒場も営業していない」

 周囲へと目を走らせながら、カズラは不審げだった。

 チヅルも不安そうにしていて、その様子にトオルも少々恐怖を感じてしまう。

「何かあったんでしょうか?」

「わからない。ひとまずこの宿にしよう」

 カズラとハマルが宿へと入っていく。トオルたちは外で待機する。

 その間、ぐるりと周囲を見回す。やはり甲冑姿の騎士が闊歩していて物々しい。

「あんたら、旅の人か?」

 不意に声をかけられ、トオルはそちらへと顔を向ける。

 そこにいたのは、難しい顔をした壮年の男性だった。

「あ、はい……あの、これは一体どういう……?」

「ああ、あの連中だろ?」

 声をひそめ、いまいましげに男性は語る。

「あいつらはカーティス一門の騎士どもだ」

「カーティス?」

「なんだあんた、知らんのか?」

「ええと……まあ、はい」

 なんだか無知をとがめられたような気がして、トオルは頭を掻く。

 そんな彼の隣にカスルがやって来た。

「カーティスというと、東の貴族だね」

「そうだ。婆さんの言う通り、そのお貴族様がこの町に滞在してなさるのさ」

「ええと、それはつまり……?」

 その事実を伝えられて、トオルは首を傾げた。

 カーティスという貴族が町に来ていることはわかった。けれど、それが一体なんだといういのだろう。

 トオルたち一行には関わりないことのように思える。

 チヅルと二人で不思議がっていると、カズラとハマルが宿から出て来た。

 どこか落胆したような雰囲気で肩を落としている彼らに、カスルのしわがれ声がかけられる。

「だめだったのかい?」

「ああ、前部屋がカーティス一門に借りられているらしい」

「それどころか、町のほとんどの宿がカーティスとかいう貴族の人たちが使っているって」

 ハマルが避難がましく眉をひそめていた。

 トオルは男性を振り返る。彼は「だろう?」とでもいいたげに肩をすくめていた。

「なんで貴族様がこんなところに?」

 ここは商人の町だったはずだ。行商人が宿を借りているというのならまだ話はわかる。

 けれど、実際に今借りているのは貴族だ。そこにはなんらかの理由があるのだろう。

 カーティスというのがどれほどの権力を持った貴族なのかはわからなかったが、それなりに大きな力を持っているのだろうということは容易に想像が付いた。

 何せ、町全体の宿を貸切ることができるほどなのだから。経済力だけで言ったら相当だろう。

 トオルの疑問に答えたのは、壮年の男性だった。

「おそらく王都へと向かう際中なのだろう」

「王都へ? なぜだ?」

「さあな。お貴族様の考えなんて俺たちにわかるわけがないだろう」

 そう言って男性は苦笑いを浮かべる。

「あの……もう泊まれる宿はないんでしょうか?」

 チヅルが男性に訊ねる。彼は困ったように頭を掻き、思案顔になった。

 少しして、難しい顔が少しだけ晴れる。

「一つだけあったな。泊まれそうな宿」

「ほ、本当ですか?」

「ああ、ここを真っ直ぐ行ったところにある《宵の口》という宿だ」

「《宵の口》ですか」

「あそこの店主は気難しくてな。ま、だから貴族様も嫌がったんだろうけどな」

 最後に脅かすようにそう言って、男性はトオルたちの前から去っていった。

「ど、どうしますか?」

「そうだな……とりあえずその《宵の口》に行ってみるか」

 カズラの提案に反対する者はいなかった。

 そもそも選択肢などないのから。

 トオルたち一党は親切な男性の案内に従い、気難しい店主がいるという《宵の口》を目指す。

 

 

 

 

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