第10話
艦内の時計は午後3時を示していた。
過去と未来が、波の静寂の中で向かい合い、言葉を交わし始めたばかりだった。
その記憶の余熱をまとったまま、ペリー提督は再びサスケハナ号へ戻った。
甲板に立ったその背中を、艦橋から見送る与那嶺艦長の瞳は、どこか遠くの時代に向いているようだった。
--- 海上の別れ
浦賀沖の海は、あまりにも静かだった。
潮騒すら控えめに響き、艦と艦のあいだには、会話の余韻が膜のように漂っていた。
ペリーは深く息を吐き、目を閉じる。
目の奥に残る光景は、無言で整列するクルー、言葉少なに通された未来の廊下、
そして、あの奇妙な温度の「沈黙が整えた秩序」だった。
彼は、静かに口を開いた。
「……我々は、一度アメリカに戻ります。この状況は、我々の理解を超えている。
貴国がこれから直面する困難は、我々では到底支えきれません。
しかし、未来の偉大さは、この目で確かに見届けました。深く感謝します」
その言葉は、退却ではなかった。
敵でもなく、同盟でもなく、ただ“人間”として、未来という巨大な地平に向けて投げかけた、
ひとつの敬礼だった。
与那嶺艦長は小さく、しかし深く一礼し、椅子を静かに引いた。
凛とした佇まいで、はっきりとした声を返す。
「提督、あなたの判断に敬意を表します。
そして、あなたがこの時代に現れたことは、我々にとっても意味のある出来事でした。
海を隔てた記憶ではなく、交差した現在として、それを記録に残させてください」
ペリーは一瞬黙し、それから敬意を込めて帽子を取った。
時代も、国も、思想も越えて、その瞬間だけ、二人は“航海者”として立っていた。
やがて、ペリーの命令で帆が上げられ、蒸気が霧に包まれて音を立てる。
サスケハナ号がゆっくりと南西へ旋回していく。彼の帰還は、もう一度“時代”を横切る旅路になるだろう。
白い船体が潮騒に溶けて消えていくなか、
与那嶺艦長はひとり、視界のなかで遠ざかるその背中に向けて、静かに敬礼を続けていた。
このまま、歴史に刻まれなかった「もうひとつの邂逅」が幕を閉じる。
だが同時に、新たな世界の軸が、見えざる航路としてここに始まったのだった。
サスケハナ号艦内 1853年の海と2025年の記憶
ペリー提督が〈しゅんこう〉での初会談を終え、サスケハナ号に戻ったのは、太陽が頂点を過ぎた頃だった。
艦の甲板では、彼の帰還を待ちわびた士官たちが一斉に整列する。副官ロバート・シーウェル少佐が最初に近寄り、低い声で尋ねた。
シーウェル少佐:
「閣下、ご無事で……それに、あれは一体?」
ペリー:
「これは……国家だ、ロバート。砲煙も軍楽もなく、静かに整った国家だった」
彼の口調は、敵意ではなく“理解の入口”を探す者の響きを含んでいた。
---
舷窓の向こうに広がる未知:日本食との邂逅
政府側の配慮により、艦内には小さな折箱が届けられていた。
中には、白米、焼き鮭、玉子焼き、切干大根、漬物……すべてが几帳面に区分けされ、美しく配置されていた。
シーウェル少佐:
「これは……まるで標本のように整っている。香辛料の匂いがしない。だが、素材そのものが生きている……」
最初に箸を手にした水兵が、しばらくそれを“木製の奇妙な道具”として見つめていたのも無理はない。
水兵:
「閣下、これは武器では……?」
ペリー(微笑):
「それは箸というらしい。武器ではなく、“意志を通じる指先”のようなものだと説明された」
彼は不器用ながらそれを使って鮭を摘み、小さく咀嚼した。
次の瞬間、眉間が驚きで持ち上がった。
ペリー:
「……これは料理ではなく、詩だ。言葉にできぬ静謐がある」
食事はいつしか沈黙の儀式となった。
会話は少なく、だが誰もが満腹ではなく、感覚を満たされていた。
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過去と未来が交わる図:現代の地図を示したとき
食後、提督に手渡されたのは、2025年現在の世界地図だった。
全大陸の輪郭、航空路、軌道衛星の座標図……そのすべてに、彼の目はゆっくりと吸い込まれていく。
ペリー:
「……この世界には、もはや“未踏の空白”がないのか……?」
彼の指が、アメリカ大陸と日本のあいだを往復する。
ペリー:
「だが、すべてを埋め尽くしたその先で、人はなお航路を求めるのだな。
この地図の上には“到着”はあっても、“終点”はどこにもない」
やがて、艦内の士官が手帳を取り出し、地図を指して小声で言う。
士官:
「閣下……ここに、我々が立っていると記されている。
だが、この場所が“かつての浦賀”だとは、もはや思えないのです」
---
船の上の静寂:共に在るということ
その夜、艦内では交代制の見張り以外すべての灯りが落とされ、
士官たちは月明かりの下で各自黙想にふけっていた。
提督は艦首に立ち、眼前の海をじっと見つめていた。
潮の香りは変わらず、星の配置も変わらず、だがそこに流れる時間の密度だけが違っていた。
ふいに、彼は呟いた。
ペリー:
「我々が訪ねたのは、日本ではなく、“未来という領海”だったのかもしれぬな……」
彼の言葉に返す者はなかった。
だが、それは疑いなく、この航海が“歴史への侵攻”ではなく“対話の入り口”だったことを、全員が理解していた証だった。
やがて、サスケハナ号は静かに帆を張り、蒸気を吹かせながら浦賀沖を離れていった。
その艦影は、まるで時代の狭間に現れては消えた幻影のようだった
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