第1話:勇者降臨、ただし口が地獄

 目を覚ました瞬間、世界は静かだった。


 柔らかい絹のような寝具。木の香りがする部屋。

 だが目に入ったのは、天井に描かれた見知らぬ魔法陣と、陽の光を通す青いステンドグラスだった。


「……ここ、どこだ……?」


 起き上がろうとした瞬間、ガチャリと扉が開いた。


「目覚めましたか、勇者様」


 入ってきたのは、青と金のローブをまとった中年の神官。

 温かな笑みを浮かべていたが、ハルトの顔を見るとピタリと動きを止めた。


「……勇者様?」


「はい。あなたは、我が王国に神託により召喚された“救世の勇者”です」


 ハルトは理解が追いつかなかった。

 だが、記憶が正しければ、トラックに轢かれて死んだはずだ。

 ならばここは、あの神が言っていた別の世界──


「ここは、どこ?」


「この地はルアナ王国。大陸の西端に位置する神聖国家でございます。あなたのような特異な魂を持つ者は、百年に一度この地に召喚されるのです」


 すらすらと話す神官の後ろから、少女が顔を出した。


「え、かっこいい……」


 年の頃はハルトと同じくらい。長い金髪に蒼い瞳。白銀の鎧を身に着けた、いかにも騎士らしい少女だった。


「勇者様、私たちはあなたと共に魔王を討ち、この世界を救う使命を持っています。改めて、ようこそ──」


 その瞬間だった。


「おえっ……!」


 少女が口元を押さえ、急にうずくまった。

 後ろの神官が慌てて駆け寄るが、彼も同時に顔をしかめた。


「こ、これは……っ!」


「え?」


 ハルトはキョトンとする。何もしていない。ただ「え」と言っただけだ。


 だが、部屋の空気が変わっていた。

 酸っぱいような、腐った肉のような、何とも言えない強烈な悪臭が漂っていた。


「な、なんだこの……っ! 吐き気が……」


 神官がハンカチで鼻と口を覆う。

 少女はその場で嘔吐し、倒れた。


「どうして……?」


 ハルトはただ、声を出しただけだった。

 だが、その息が、部屋中に“毒”を撒いていた。


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 急遽、部屋には結界が張られた。

 神官は顔を青くしながらハルトにこう言った。


「勇者様、おそらくあなたは呪いを受けております」


「呪い……?」


「我々が確認した限りでは、あなたの口から放たれる瘴気は、ただの悪臭ではありません。魔物すら近づけない、強烈な腐食性を持っています。間違いなく“スキル”でしょう」


 そして検査の結果、彼の“特異スキル”が告げられた。


【ユニークスキル:《毒息(ポイズンブレス)》】

• 発動条件:常時

• 効果:半径5m以内の生命体に腐敗性の臭気を放ち、

  持続的なHPダメージを与える。

• 副作用:対象の精神耐性が低い場合、精神破壊を誘発。

• 耐性:本人は無効。



「……要するに、臭いが武器ってことか」


「……ま、そうなります」


 神官の顔は歪んでいた。

 “呪われし勇者”──それが王国内でのハルトの呼び名になった。


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 その日から、ハルトは特別室に隔離された。

 部屋の壁は結界で覆われ、外から誰も入ってこない。

 会話も、魔導式の転送通話でのみ。


 食事は扉の小さな穴から出てくる金属皿。

 水浴びすら許されず、彼はまるで“化け物”扱いだった。


「俺……また、こうなるのかよ……」


 ベッドに横たわり、天井を見上げる。


 あの神は「この世界では力になる」と言った。

 でも、誰も近づけない力なんて、ただの孤独の牢獄だ。



 そして、数日後──

 彼の部屋を訪ねてきた勇者隊の少女、ルネ・アークレインが現れた。

 魔導窓越しに見える彼女は、微かに微笑んでいた。


「……君が、如月ハルト、だよね?」


「……ああ」


「すごい力、なんだってね。君の息で、洞窟の魔物を全部撃退できるらしいね」


「……そうらしい」


 ハルトは視線を落とした。

 ルネはしばらく黙っていたが、やがて言った。


「私、怖かったよ。正直、噂を聞いて会うの、ためらってた。でも……君が“人間”だって信じたくて、来たの」


「信じたい、ね……」


「うん。だから、また話しにくるね。……その、近くにはいけないけど……」


 そう言いかけた瞬間、ルネの表情が変わった。

 顔が歪み、咳き込む。


「っ……く、ぅ……ごめ、ね、やっぱ……だめ……」


 彼女は魔導窓を切り、倒れこむように去っていった。

 ハルトはまた、ひとりになった。


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 王国会議で、彼の扱いが決まった。


「勇者ハルトは、現状のままでは実戦投入不可能である。

 ついては、王国の威信を守るため、自由の名の下に首都から解放とする」


 “解放”──それは体よく追放するための言葉だった。



 翌朝、彼の部屋に王国の騎士が現れた。


「ハルト=キサラギ。王の命により、以後お前は自由の身だ。

 ただし、今後王都への立ち入りは禁ずる。

 また、民衆に被害を出した場合、粛清対象となることを忘れるな」


 門の外に放り出される。

 目の前に広がる街並みは、彼にとってまるで異国のようだった。


 誰もが顔を背ける。

 誰もが遠ざかる。

 ああ、そうだ。まただ。


 ──俺は、どこへ行っても拒絶される。


 吐き出す息が、世界を腐らせるのなら、いっそ、何も言わず、何も求めず、ただ消えてしまいたい。


 そう思いながら、彼は街の外れにある森へと、ゆっくり歩き出した。

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