第24話 終活と思い出

 70歳を過ぎた頃から、私は終活を始めた。蔵書と言えるほどではないが、本も10冊を残すまで処分している。もっとも、その後、マニラ市街戦を題材にした小説を書き始めたことから、またぞろ増えてしまったが……。

 捨てきれなかった本の中には、亡命ロシア人の書いた「バービイ・ヤール」がある。これはロシア語通訳をしていた頃に読んだもので、私の20代後半だった。残した理由は、第二次大戦時、ボルシェビキにより三百万の国民が飢え死にさせられたことで侵略してきたドイツ軍に歓喜し、その後、ユダヤ人などを主として多くの市民がナチスに虐殺された悲劇の国として、若い頃の感動を覚えていたからだ。ソ連邦を構成した4カ国の一つで、国連の議席も持っていたウクライナが、今はロシアとの戦争になっていることに、私は新たな感慨を覚えざるを得ない。

 失恋により通訳の仕事を捨てたとき、私は小学六年生の頃から書いていた日記、ドイツ語やロシア語の辞書などを燃やした。自分が情けなく、過去の全てを忘れたい思いが強かったのだ。

 戯れに恋はすまじ、もう恋愛はこりごり、女のいない国に行きたいと思っていた私は、「中近東駐在員募集」の新聞広告に飛びついた。勿論、アラブにも女性はいるが、イスラム教徒でなければ結婚は許されないので、私にとって女はいないも同然であった。

 商社に就職したものの、パチンコの釘にはじかれるように、会社の都合で私は中近東ではなく、マニラに派遣されたが、その後、会社を辞め独立した期間を含めると16年間をマニラで過ごすことになる。

 三つ子の魂百までと言う。おかしなもので、その16年の中で、日本の歌謡曲の他に、寂しくなると口ずさむのがロシア語の歌だった。「カチューシャ」や「ともしび」などは有名な歌だが、折りにつけ私が歌っていたのは「悲しき天使」である。1960年代の末頃、メリー・ホプキンという女性の曲で、定かな記憶ではないが、イギリスから世界中に流行った歌だと思う。

 なぜ「悲しき天使」を歌っていたかと言えば、その原曲が「長い道」という亡命ロシア人の歌で、私のロシア語学習時代に覚えたものだったからだ。ロシア革命当時、「長い道」を歌っていたのは、モスクワで活躍したウクライナ生まれのヴェルチンスキーという芸人で、共産党から禁止されたことによりロシアから脱出し、最後はパリに辿り着いた人物である。

 未練と言うべきなのか、歌だけではなく、マニラ生活の頃から今の今まで記憶に残っているのは、日本語にもなっているロシア語の語彙である。

 例えば、イクラ(日本では鮭の卵だが、ロシア語では魚類の卵)、コンビナート(共産主義下の会社組織)などがあり、その他にも、インテリ、カンパ等もそうだが、特に我々になじみ深いのは「ノルマ」だ。英語ではquotaというこの単語は、元々はスターリンの「五カ年計画」で使われたもので、戦後のシベリア抑留の際、作業目標達成のために頻繁に命じられた記憶から、帰国した日本兵が流行らせた言葉だという。

 こんな思い出話は寂しい。先月、75歳になった独りぼっちの私は、「悲しき天使」ならぬ、死の運命を待つだけの「まな板の老人」と言うべきか、それとも、死神のノルマ達成のための持駒に過ぎないと言うべきだろうか。

 

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