第2話 王都からの使者
月の光が森を照らす夜が明け、太陽が東の空に昇る頃、森は再び穏やかな喧騒に包まれた。
小鳥たちが囀り、風が木の葉を揺らす。
リリアはいつものように薬草園で、植物たちの「おはよう」という挨拶に耳を傾けていた。
その時だった。
遠くから、森の静寂を切り裂くような、馬の蹄の音が聞こえてきた。
複数の蹄の音。
そして、馬車が森の小道を進む、重い車輪の軋む音。
「……こんな森の奥まで、誰だろう?」
リリアは不思議に思いながら、小屋の扉を開けた。
彼女の住む場所は、薬草を求めて村人が来ると言っても、森の入り口からは随分離れている。
こんなに奥まで入ってくるのは珍しい。
やがて、立派な馬車が、護衛らしき数名の兵士を連れて、小屋の前に現れた。
兵士たちの鎧は、太陽の光を反射して眩しく輝いている。
馬車から降りてきたのは、豪華な服を身にまとった、いかにも高貴な雰囲気の男だった。
年の頃は四十代半ばだろうか。背筋を伸ばし、威厳に満ちた顔つきをしているが、その表情には焦りが滲み出ていた。
男はリリアをじっと見つめ、その素朴な身なりに一瞬戸惑ったようだったが、すぐに気を取り直した。
「あなたは……リリアという、森で暮らす薬師の方か?」
男の問いに、リリアはゆっくりと頷いた。
「はい。そうですが……何か御用でしょうか?」
「私がここに来たのは、陛下の御命によるものだ」
「陛下……?」
リリアは首を傾げた。
陛下、という言葉に心当たりはなかった。
それは、王都にいる国王を指す言葉だと、僅かな知識から察した。
「失礼いたしました。私は国王陛下の第一補佐官、エドワードと申します。実は、国王陛下が不治の病に臥せられており、あらゆる名医も匙を投げている状況にございます」
エドワードは言葉を選びながら、しかし切迫した様子で続けた。
「……その病を癒やすことができる者が、この森にいると、ある旅の商人が申しておりまして。藁にも縋る思いで、ここまで参りました」
リリアは驚き、口を開くことができなかった。
国王の病。そして、自分がその病を癒やすことができる、という噂。
「私はただ、植物の声を聞き、薬を作っているだけの者です。そんな大層な力など……」
「いや、その力こそが、我々が求めているものかもしれません。どうか、陛下にお会いして、そのお力を貸していただけないでしょうか。どうか、お願い申し上げます」
エドワードは深々と頭を下げた。
その姿は、一国の重鎮とは思えないほど必死だった。
リリアは迷った。
自分の能力が、誰かの役に立つかもしれない。
それは嬉しいことだった。
しかし、王都という未知の世界、国王という畏れ多い存在。
そして、何よりも、彼女の能力が再び人々の「恐れ」の対象になるのではないか、という不安が胸によぎった。
彼女は、ふと薬草園に目をやった。
カモミールが風に揺れ、リリアに語りかけてくる。「行ってごらん。その力は、誰かのためになるはずだよ」とでも言うように。
リリアは、静かに深呼吸をした。植物たちの声が、彼女の背中を押してくれているように感じた。
「……わかりました。私にできることがあるのなら、協力させていただきます」
リリアの言葉に、エドワードの顔に安堵の表情が浮かんだ。
「ありがとうございます! では、早速ですが、我々と共に王都へ……」
「その前に、少しだけ準備をさせていただけますか? 王都では、この森の薬草が必要になるかもしれませんから」
リリアはそう言うと、手際よく薬草を摘み、籠に詰めていった。
その手つきは迷いなく、まるで植物と会話しながら選んでいるかのようだった。
その様子を、エドワードは驚きとともに見つめていた。
森を離れるのは、生まれて初めてのことだった。
小屋の鍵を閉め、薬草園に別れを告げる。
リリアの心臓は、期待と不安で大きく波打っていた。
「さあ、参りましょう。リリア様」
エドワードに促され、リリアは馬車に乗り込んだ。
馬車はきしむ音を立てながら、森を抜けていく。
森の木々が、リリアの新たな旅立ちを見送っているかのようだった。
そして、彼女の前に広がるのは、これまで想像もしたことのない、未知の世界。
そこには、王国の命運を握る若き国王と、複雑な人間関係、そして彼女の能力を狙う陰謀が待ち受けていることを、まだ彼女は知らなかった。
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