第1章 「コーヒーと死体と市の広報担当」

コーヒーがぬるい。

なのに、もう一度チンしようという気になれなかった。理由は単純。さっき電子レンジの前でくしゃみを2回連続でして、「もしかして俺、ついに花粉症デビュー?」という地味すぎる絶望を味わったからだ。


「……聞いていらっしゃいましたか?」


事務机の向こう側から、乾いた声。

広報課の係長、氷川香澄。31歳。

つねに冷静で、事務処理能力バケモノ。眼鏡の奥に感情が見えたら、それはたぶん気のせいだ。


「ごめん、聞いてなかった。なんの話?」


「今朝のニュースです。例の死体、たぶん地元の人っぽいという話が出ています」


「え、まじ?」


「はい。川沿いの県道を通勤ルートにしている人から、写真が回ってきていて……これです」


そう言って、彼女がスマホの画面を差し出す。

そこには、警察車両に囲まれたブルーシートと、その脇に転がる……サングラス。真っ黒な、ちょっと古臭いタイプ。


「うわ……」


俺は思わず眉をしかめた。

朝、詩乃と一緒に見た“それ”だ。助手席から「死体じゃん」って指さされたやつだ。


「詩乃が正しかったか……」


「娘さんですか?」


「うん。さっき、“あれ、絶対死体だから”って断言してた」


「……センスありますね」


なんだそのコメント。



「でもさ、サングラスかけたままって、やっぱおかしくないか?」


「不自然ですね。事故や自殺だった場合、あの位置に飛ばないですし、通常は外れているはずです」


「ってことは……誰かがかけた?」


「という可能性が高いです」


まるでコンビ芸のボケとツッコミみたいなやりとりだが、言ってる内容はかなり物騒だ。

サングラスが、遺体の一部のように“わざと”残されていた。もしそれが誰かの演出だったとしたら──。


「広報課って、警察と連携して情報出すじゃん。例の件、もう正式に動く?」


「まだ報道では“身元不明”という扱いですが……」

氷川が一拍おいて言った。


「内部で照合している名前の中に、気になるものがありました。……長谷川 徹という名前に、心当たりはありますか?」


長谷川徹——。


心臓が一瞬、間を置いたように感じた。


「……高校のとき、同じクラスだったやつかも」


「やはり。学籍照会と、卒業アルバムのスキャンデータ、すでに手配してあります」


「おい、それ公務でやっていいの?」


「公務ではなく、私的興味です」


さらっと言い切った。怖。



そのとき、給湯室のドアが勢いよく開いて、若林が顔を出した。

29歳。広報課の後輩で、愛されドジ担当。いまもたぶん、コピー機の紙づまりを逆に悪化させてきた直後。


「課長! 川沿いの件、ネットで拡散されてますよ! “サングラスがミステリー”とか言ってる人までいて、なんかバズりそうな雰囲気です!」


「バズらなくていいよ。あとノリ軽い」


「え、でもサングラス死体ってミステリ映えしません? タイトルつけるなら『黒い眼鏡と川辺の謎』的な……」


「若林くん」

氷川が口を挟む。声は落ち着いていたが、語尾の冷たさが2℃くらい下がった。


「あなた、午前中に資料まとめておくように言われてましたよね」


「えっ、あ……あれ? ああっ! すみません今すぐ! いやーもうマジで……」


「言い訳は結構ですので、よろしくお願いします。」


「すいませんでしたッ!」


若林が姿勢だけは真っ直ぐに、消火器の横を通り過ぎていった。

あいつ、来月も査定ボーダーだな。



その日の帰り道、職場の駐車場でエンジンをかける。

ふと、ダッシュボードにしまったままだったマルボロを取り出したが、吸うのをやめた。


詩乃を迎えに行くのに、タバコくさいのはちょっと悪い気がした。


ふと、助手席に目をやる。

そこに、彼女が忘れていったポケカファイルが置かれていた。


レシラムのBWRだけ、スリーブの中で少しだけずれていた。

まるで――「見ろ」と言われてるように。

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