ココロノオトの向こう側 -恋と秘密のメロディ-

五平

第一章:早乙女 律の物語

第一話 届かない風

夏の風が、窓の外を駆け抜ける。

早乙女律は目を細めた。

カーテンがはためき、朝の光が薄く差し込む教室。

遠くで聞こえる喧騒が、どこか現実離れしているようだ。

窓の下、陽炎が揺れるグラウンド。

幼馴染の陽太が、サッカーボールを追いかけている姿が見える。

彼の白いユニフォームが、青い空の下で眩しいほどに輝いていた。

律の胸には、届かない片思いの苦しさがじんわりと広がっていた。

まるで、夏の暑さとは違う、熱いものが胸の奥で燻っているようだ。


小学校からの幼馴染、陽太。

席替えで隣になった日も、夏休みの宿題を一緒にやった日も、班が一緒だった遠足も、数えきれないほどの時間を共に過ごしてきた。

彼のすぐ隣に、いつだって律はいた。

当たり前のように、陽太のそばにいる存在。

律にとって、陽太は日常そのものだった。

陽太のいない日々なんて、想像もできない。

けれど、いつからだろう。

陽太を見る目が、少しだけ、いや、大きく変わってしまったのは。

友達という、明確な境界線から、ほんの少しだけ、はみ出してしまったのは。

その境界線を意識するたび、心臓が小さく、けれど激しく跳ねる。

誰も気づかない、律だけのひそかな変化。

この胸の痛みも、喜びも、律だけのものだ。


陽太は、いつも真っ直ぐだった。

目標に向かって努力を惜しまない。

どんなに辛い練習でも、決して弱音を吐かない強さがあった。

サッカーに夢中で、練習中は泥だらけになることも厭わない。

そして、誰にでも分け隔てなく接する、公平な優しさを持っていた。

彼の屈託ない笑顔を見るたびに、律の心は温かくなった。

その笑顔は、律にとっての太陽だった。

まるで、凍りついた心を溶かす光のように。

同時に、その眩しさ、その温かさが、手の届かない場所にあることを思い知らされる。

律だけが知っている陽太の少し不器用なところ。

例えば、たまに言い間違いをして、顔を赤くするところ。

時々見せる、意外なほどの繊細さ。

例えば、雨の日に校庭のカタツムリをそっと避けて通るところ。

律だけが気づいている陽太の優しい眼差し。

ふとした瞬間に、自分に向けられるその視線に、胸が締め付けられる。

そんな「特別」な瞬間に、勝手に胸をときめかせ、勝手に苦しくなる。

この感情は、誰にも言えない秘密だ。

壊れてしまうのが、何よりも怖い。


放課後。

陽太は、律の隣に並んで歩き出す。

今日の部活の練習内容を、夢中になって語っている。

「今日のパス練、新しいメニューがあったんだけど、あれがまた難しくてさ!でも、先輩がすげーうまくて、さすがだなあって思ったんだ」

彼の声は弾んでいた。

律はただ、頷きながら耳を傾ける。

彼の楽しそうな横顔を見ていると、それだけで満たされる自分がいる。

この時間が、ずっと続けばいいのに。

でも、その屈託のない笑顔に、律は言葉を詰まらせた。

この熱い気持ちを、どう伝えたらいいのだろう。

もし、この一言を口にしてしまったら。

今の、この当たり前のような関係さえ壊れてしまうのではないか。

そんな臆病な自分が嫌になる。

陽太の隣にいるこの瞬間が、何よりも大切で、失いたくない。

だから、いつも一歩引いてしまう。

伝えたいのに、伝えられない。その葛藤が、律の心を蝕む。


昇降口を出て、校門へと向かう並木道。

夏の日差しが、木々の間からキラキラと降り注ぐ。

アスファルトの照り返しが眩しい。

ふと、少し後ろから聞こえてきた女子たちの会話が、律の耳に飛び込んできた。

どうやら、クラスメイトのユミとサキの声らしい。

二人はスマホを覗き込みながら、ひそひそ話している。


「ねえ、知ってる?最近、『ココロノオト』ってサイトが流行ってるんだって!」

「え、なにそれ?」

「自分の気持ちを歌にして、匿名で投稿できるんだって!できた歌のページにはQRコードがついてて、それを印刷したら簡単に誰かに見せられるらしいよ」

「マジで!?なんか、ドラマみたい!私も試してみようかなぁ」

サキの声が弾んでいる。


律は、その言葉に小さく反応した。

心臓が、微かに跳ねる。

ココロノオト。

誰にも言えない気持ちを、歌にできる場所。

匿名で、想いを届けられる。

QRコード。

その言葉が、律の頭の片隅に、微かに響き始めた。

陽太は、そんな律の変化には気づかず、サッカーの話を続けている。

彼の背中が、今日も少しだけ遠い。

手の届かない距離にいるような、そんな感覚。


家に帰り、自室のベッドに飛び込む。

まだ夕食には早い時間。

窓越しの夕焼けが、部屋いっぱいに広がる。

オレンジ色に染まる空が、律の横顔を淡く照らしていた。

今日の出来事が、頭の中を駆け巡る。

陽太の笑顔。サッカーの話。そして、耳にした「ココロノオト」という言葉。

この届かない片思いを、いつまで続けていけばいいのだろうか。

もしかしたら、あのサイトが、何かを変えるきっかけになるのかもしれない。

律は、漠然とした期待と、やはり拭いきれない不安の中で、ただ夕焼けを見つめていた。

心の奥底で、小さな、でも確かな決意が芽生え始めていた。

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