必要悪の正体

森本 晃次

第1話 プロローグ

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年6月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。実際にまだ標準で装備されていないものも、されることを予測して書いている場合もあります。そこだけは、「未来のお話」ということになります。


 春になると、街から離れたこの辺りは、行楽地として有名なところが近くにはあるが、訪れる人は一定数いた。

 だから、いつものメンバーが集まるところで、夏になれば、

「避暑地」

 と言われるところであった。

 しかし、そこは、別荘のようなところではなく、ペンションがあるところで、そのペンションも一軒があるだけだった。

 ただ、その場所は実に広大で、

「ペンションが一軒というのは、実にもったいない」

 といってもいいところであろう。

 なぜなら、その場所が実に広大で、都心部などの住宅事情を考えれば、

「それを言われても仕方がない」

 と言われていたのだ。

 というのも、そんなことが言われてから久しく、実際には、今から50年くらい前から言われてきたことだろう。

 しかし、そこは、昔から開発にはそぐわない場所とも言われていた。

 それこそ、

「バブル期の、テーマパークなどの全盛期」

 ということであれば、

「これだけの土地があれば、かなりの開発ができる」

 と言われたことだろう。

 しかし、実際には、

「当時、バブル期にいろいろテーマパーク構想が起こった時、実はここも、当然のごとく、その「候補地ということになったのだが、実は、

「開発会社が競合したこと」

 であったり、

「ごく近くも、テーマパーク候補地だったこともあって、実際に開発をするには、経皮的に、時間的に、どちらがいいか?」

 ということになると、

「もう一方の方だ」

 ということで、候補地が向こうに決まってしまったことで、本当に、この50年間くらいの間に、この場所が大々的に注目されたのは、その時だけだったといってもいいだろう。

 確かに、事業を核出しすればするほど儲かる」

 と言われた時代だったが、

「自然豊かなところを切り開いて、さらにテーマに沿ったところを作ろう」

 ということを考えると、時間的にも費用的にも、そんなに簡単なことではないということだったのだ。

 それを思えば、当時は確かに、ゼネコンもたくさんあり、体勢的にはできないわけではなかったが、もう一つ、開発に問題があったのだ。

 というのは、

「政治的な問題」

 というものがあり、

「この場所は、広大過ぎて、自治体にまたがっていた」

 という問題があったのだ、

 二つの自治体が、しかも、敵対しているところであり、その影響もあってか、買収ということに問題はなかったが、開発に入る際の費用の問題ということになると、住民の税金が大きな問題となる。

 特に、二つの自治体が、敵対しているということは、住民も敵対しているということであることから、

「共同経営なんてまっぴらごめんだ:¥」

 ということになったのだ。

 だから、この避暑地に、

「ペンションが一軒しかない」

 というのも、そういうところからきているわけである。

 広大な広さの土地ではあるが、そこに住民というのはほとんどいない。しかも、

「知らない人であれば、足を踏み入れるということすらないだろう」

 ということで、ペンションの宿泊客は、送迎のピストンバスでの送迎ということになり、そこまでペンションも大きくはなく、客が溢れるなどありえないくらいだった。

 そもそも、ここをペンションにしたのも、戦前は財閥の別荘のようなものが建っていたが、

「前後の民主化」

 ということによって、

「華族や財閥の没落」

 というものがあり、自治体に払い下げられたことから、

「この場所を。ペンションとして経営したい」

 という人が、都会からやってきて。ここで、ペンションとして営業を始めたのが最初だったのだ。

 ペンションとしての営業」

 ということではあるが、その経営には、

「戦後のどさくさ」

 によって、財を成したという人が、ここを買い取ったのだ。

 実際の社長は、都心部で会社を経営していて、多角的なことをしていた。

 それこそ、闇屋のブローカー的なことをしていたようだが、その長男と奥さんが、この土地にやってきて、ペンション経営というのを行うようになったのだった。

 ペンション経営は、どちらかというと、

「道楽ではないか?」

 ということにも見えたが、

「息子が実際に自分の代を継いで、二代目になる」

 ということの前に、

「経営のノウハウを養う」

 という訓練ということで任せることにしたのだ。

 当然、

「参謀と呼べるような人をつけて」

 ということである。

 当時であれば、

「参謀というよりも、番頭」

 と言った方がいいかも知れない。

「主人に対しての忠実なしもべといってもいいことから、まるで、執事といってもいいかも知れない」

 ということであった。

 実際には、二代目となる、ペンションの初代オーナーが、立派になって、番頭と一緒に、都心部の会社に迎えられることになると、このペンションは、

「番頭の息子」

 が、二代目オーナーということになるのだった。

 この二代目オーナーは、長男と年齢的には、そんなに変わらなかった。

「長男よりも、三歳ほど下」

 というくらいで、長男が、

「英才教育」

 としての、

「帝王学」

 を教わっているのと同じで、番頭の息子も、同じような

「帝王学」

 というものを身に着けていた。

 しかし、考え方としては、

「番頭の息子は、社長ではないのに、帝王学を身に着けてどうなるというのか?」

 というようなことをいわれていたが、なるほど、その考えも無理もないことだ。

 しかし、逆にいえば、

「いずれ、社長となって、長男は、ここから離れていくということになる」

 ということを考えれば、このペンションはどうなるというのだ?

「このまま、ペンションと売りに出す」

 ということをするか、

「本部から誰か二代目オーナーを連れてきて、経営させるか?」

 ということであったが、社長はそれをしなかった。

「ペンション経営というのは、そんなに難しいことではない」

 ということは分かっていた。

 それだけ都心部のように、

「つながった事業」

 というわけではなく。

「そもそも、同じ系列のところだということが分かるはずがない」

 というほど、

「離れた経営方針」

 であった。

 これは、あとから分かったことだったが、そもそも、このペンションは、

「息子の英才教育のためだけに買い入れたところだ」

 ということだったのだ。

 そういう意味では、

「息子が立派に成長すれば、売り払ってもいい」

 といえるところだが、この息子は、この場所に執着があったのだ。

「あの場所をなくさないでくれ」

 ということを社長に頼み込んだということであったが、意外なことに、

「ああ、大丈夫だ」

 ということ言ってのけたという。

「私が本部に来てこの会社を継げば、あのペンションはどうなるんですか?」

 と聞くと、

「心配することはない。ちゃんと考えてあるさ」

 ということをいうのだった。

「どうするんだろう?」

 と長男が思っていれば、

「番頭の息子が継ぐ」

 ということで、ホッと胸をなでおろしたのだ。

 そもそも、社長の息子には、二つ下の次男がいた。その時は、他の会社で、同じように、「丁稚奉公」

 のようなことをしていた。

 それを知っていたので、

「あいつが、俺の後釜ではないか?」

 と感じていたのだ。

 ただ、長男としての勘であったが、

「あいつに、ペンションのオーナーが務まるんだろうか?」

 という思いがあった。

 というのは、

「あいつは、次男ということもあり、自分が長になって、経営するということはできないのではないか?」

 と思っていたのだ。

 それよりも、

「弟こそ、参謀の地位が一番で、いずれは、自分の右腕になってほしい」

 と思っていたのだった。

 実際に、弟も性格的に、

「自分が中心になるより、ナンバーツーとして、トップを支えることに長けている」

 と社長も思っていたのだろう。

 だから、長男の希望通り、

「本社では、長男が次期社長、次男が次期専務」

 と言われているようだった。

 すると、

「ペンションはどうすればいいんだ?」

 と思っていたところに、

「番頭の息子」

 というのが、クローズアップされているいうことを聴いて、

「ひとまず安心」

 ということだったのだ。

 実際に、ペンション経営は、番頭の息子が、

「十分すぎるくらいにやっている」

 といってもよかった。

「社長の息子と、番頭の息子とが入れ替わっていたとしても、遜色ない」

 とまで言われたほどだったのだ。

 この息子が、ペンションの経営を始めた時、社長への話として、

「あのペンションを、必要以上に大きくしようとは思っていないんですよ」

 ということだったのだ。

 青年実業家と言われた、番頭の息子だったが、彼からすれば、

「まずは、地盤をしっかりして、常連の客を固めることが大切」

 と考えていた。

 だから、必要以上な宣伝活動をするわけではなく、

「一度何かを見てきてくれた人に満足してもらい、その人達の口伝というものが、新規の客を生む」

 ということで、実際に、広告などを新聞た、雑誌などの宣伝を利用しようとはしなかった。

 ただ、

「最寄りの駅の看板だけは掛けてもらう」

 というようにして、そこには、

「湖畔のペンション」

 ということで、写真付きの宣伝を載せていたのだ。

 実際には、この駅は終着駅になっていて、その奥の半島になったところに、その頃には、

「臨海工業地帯」

 ということで、工場が建てられていたのだった。

 その工業地帯のために訪れる人が結構いて、実は、この駅の看板というものが、結構な、

「口伝による宣伝効果」

 というのを生んだことで、

「こんな街にペンションがあるのか?」

 ということから、

「出張の人が宿泊する人も増えてきたようで、本来の行楽のためのペンション」

 というイメージを払しょくするという、

「全国的に珍しい宿」

 ということであった。

 ピストンバスも運転所を雇うことで利用できるようになっていた。

 しかも、その工場というのは複数の会社が、まるで、

「工場団地」

 ということで乱立していることもあって、

「社長の会社の工場」

 というものもあり、ここを利用する人が出てきたことで、他の会社の人も利用することが増えてきたのだった。

 このアイデアは、

「番頭の息子」

 が考えたことであり、そのおかげで、経営は、しっかりと黒字となっていた。

 ただ、これも、

「拡大しない」

 という、初代オーナーである長男の進言が利いたことで、それ以降の、

「不況と光景を繰り返した」

 という時代、つまりは、

「好景気に沸いた時」

 であったり、

「オイルショック」

 や、

「好景気の反動」

 などの危機からも、大きな損害を出すこともなく、うまくいっていたのである。

 しかし、問題は、

「バブル経済」

 であった。

 まわりは、

「事業を拡大すればするほど儲かる」

 ということだったので、

「わが社も、それに乗り遅れないように」

 ということで、本部も警戒はしていたのだが、それでも、損害が防げるほど、甘い波ではなかった。

 何しろ、

「全国民が信じて疑わなかった」

 というバブル景気である。

 しかも、

「銀行は絶対に潰れない」

 などという、

「神話」

 と呼ばれるものを信じていた時代。

「その銀行ですら、過剰融資を率先して行っていたことで、真っ先に経営破綻を起こし、倒産した」

 ということになれば、

「銀行あっての、社会経済」

 ということなのに、それが、どうにもならないところに来ると、いくら、

「注意をしていた」

 としても、

「自分だけが被害を最小限に食い止めたとした」

 といっても、まわりが、被害というものに、まるで、

「津波のごとく」

 飲み込まれるということになると、

「一企業程度では、どうなるものでもない」

 といえるだろう。

 それを考えると、

「ペンション経営も、風前の灯」

 ということになるだろう。

 ただ、一つだけ、

「功を奏した」

 というのは、

「初代オーナー」

 の言っていた。

「決して事業を拡大させない」

 ということから、被害がないわけではなかったが、

「最低限の被害ですんだ」

 ということになるのだ。

 そして、

「何がよかったのか」

 というと、

 その被害の少なさから、時間が徐々にだが、流れていく中で、目に見えて、赤字が減って行ったのだ。

 それが、

「今後の会社の持ち直し」

 ということの手本ということになったからだろう。

 どこの会社も、不況にあえいでいて、

「他の会社が、どのようにしているか?」

 ということを探っても、その復活の兆しとなる答えが見つかるわけではなかった。

 だから、どこの会社も判で押したように、

「リストラ」

 を行ったり、

「吸収合併」

 というものを繰り返すことで、企業を何とか延命しようとしたりと考えられたことであろう。

 しかし、実際には、

「多大な犠牲を伴う」

 ということで、

「一時的には、何とかなるかも知れないが、先のことは分からない」

 というものであった、

「目先のことしか考えられるわけはない」

 といってもいいわけで、

「本当の復活になるわけもない」

 ということであった。

 しかし、このペンションの経営方針には、

「この時代だからこそ、冷静に見れば、これほど当然のことをしている」

 ということはないと言われるのであろう。

「だから、このやり方が、経営方針として素晴らしい」

 ということを、他の会社の誰も気づくわけもない。

 だから、

「まるで、特許を取ってもいいくらいだ」

 と言われるほどの斬新なやり方で、本部の方も、他の会社に比べて、いち早く立ち直れたのだった。

 もちろん、

「ほとんど、リストラ」

 というものも行わず、

「企業合併」

 ということもしなかった。

 だから、逆に、

「吸収合併」

 ということもしなかった。

 中には、

「助けを求めて、傘下に入りたい」

 というところもあったが、それこそ、

「泣いて馬謖を斬る」

 という裁断をしたというのは、

「英断だった」

 といってもいいだろう。

 この場所は、本来なら赤字路線で、第三セクターになりかかっている鉄道が終着駅になるので、そこから先は、臨海工業地帯であった。

 その場所は、ちょうど半島の先端になっているのだが、その半島の中心部は、山というか、小高い丘になっている。

 昔は、城がそびえていたということだが、その城址が公園になっていて、その手前が、大きな森になっている。

 国道というわけでもないのに、それなりに道が広いのは、このあたりの街の特徴なのかも知れない。

 森に見えるところは、道が一直線ということもあり、結構スピードが出せることもあtって、知らない人は、まったく意識することもないだろう。

 そもそも、その森に入っていく場合であっても、どこから入ればいいのか、普通であれば分からない。

 道の入り口に、標識は一切なく、その森の中に、車で入れるところがあるということを知っている人は、実に少ないことだろう。

 中に入ると、迷ってしまいそうに思える新緑の森は、まるで、樹海を思わせるほどだったのだ。

「こんなところに何があるというのか?」

 ということで、実際にあるペンションは、あくまでも、

「隠れ家か、秘密基地を思わせる」

 という場所になるだろう。

 この分かりにくい入口から中に入ると、表の道が広いだけに、途中は、暗くて狭い道が通っている。昼間でも、ヘッドライトを付けなければ暗いといってもいいくらいで、そのしばらく、暗闇を走って、しばらく行くと、やっと、開けた場所にくるのだった。

 昔であれば、この宿に臨海工業地帯に来る人が宿泊した時期もあったが、今はほとんどいない。

 そもそも、臨海工業地帯自体が、昔ほどの勢力もなく、しかも、近くにビジネスホテルができた関係から、このペンションの存在も忘れ去られているといってもいいくらいになっていた。

 だから、さらに、秘密基地の様相を呈していて、本当に知っている客だけの場所になったのだ。

 そういう意味で、連泊の宿泊客が多い。

 それこそ、ペンションをまるで、

「別荘」

 として使っている人も多かったりする。

 そういう意味で、値段的には良心的で、それが、

「常連の常連たるゆえんだ」

 といっていいに違いない。

 最近では、

「子供の病気療養」

 ということで使っている人も結構いる。

 というよりも、

「病気療養施設として使う人の宿」

 というウワサが一部では流れているようだ。

 そもそも、ここには、その昔、それこそ戦前であるが、サナトリウムが存在していたという。コンクリートでできたその施設は、ある意味、

「隔離病棟」

 であり、特に結核などの伝染病患者が多かった。

 だからこそ、

「サナトリウム」

 という言葉になるのだろうが、隔離されてはいたが、

「この中では自由だった」

 といってもいい。

 当時は、

「不治の病」

 ということで、今でいえば、

「ホスピス:

 といってもいい。

 つまり、

「黙って死を待つ」

 というよりも、

「同じ苦しみを感じている人たちが、静かに死を迎えるために、人生の最後に花を咲かせる」

 とでもいえばいいのか、それでも、今の時代から見れば、信じられないといってもいい状態だったようだ。

 さらに、このあたりは、サナトリウムができる前、時代的には、明治時代の頃だったというが、その場所には、

「細菌研究所」

 というものがあったという。

 それは、

「医学発展のため」

 という大義名分はあったが、実は、

「細菌兵器の開発」

 というのに従事する建物で、実際に、

「関係者以外の立ち入り」

 というのは、固く禁じられていたということである。

 実際にここに入ってくる一般人というのは、ほとんどいなかったという。

 国立の研究所であったが、実際にニュースになることもまったくなく、出入りしているのは、ほとんどが、

「軍関係の人たちばかりだ」

 ということであった。

 昔の日本は、

「政府よりも軍の方が力が強かった」

 といってもいいので、政府の中にも、ここの存在を知っていたのは、

「上層部のごく一部」

 ということで、それだけ、極秘だったのだ。

 当然、研究も極秘で、それを考えれば、当然のごとく、研究内容は、

「国家機密だ」

 といってもいいだろう。

 研究されていたのは、

「細菌兵器だけではなかった」

 とも言われている。

 これは今の時代はは、

「都市伝説」

 の一種であったが、昔の小説に遭った架空の話を、真剣に現実的に考えた研究もなされていたということであった。

 もっといえば、

「海外で小説になったものも、元々、この研究室で研究されていたことが、架空の物語として逆輸入され、海外でSF小説として発表された」

 というものであった。

 実はこれにはウラがあり、

「ここでの研究を悟られないように、わざと海外で、架空の話として人気を博し、それを隠れ蓑としていた」

 ということで、

「実際に海外で発表された小説は、すでに日本で、実用化しようとして研究されていたことも多かった」

 ということである、

 日本という国は、それだけ、

「実際には頭にいい国」

 ということで、特に諜報活動に掛けては、第一人者の多い国だったといえるだろう。

 もちろん、諜報活動なのだから、そんなことが大っぴらに言われるわけでもない。つまり、

「大っぴらに目立たないだけに、実際には裏で、何が画策されていたというのか、分かったものではない」

 ともいえるだろう。

 国家としての日本を牛耳っていた、かつての英字の元勲たち。時代をかなり先取りしていたといってもいいだろう。

 この研究室のような施設は、大日本帝国が、外国との戦争を重ねていくことで、他の場所にもいくつもつくられるようになり、最盛期には、

「国立大学の数だけ建設された」

 という時代があった。

 それこそ、研究室を、

「大学の施設」

 として運営することになり、時代が進むと、その研究所が、

「大学病院」

 ということで生まれ変わることになった。

 ただ、その場合は、

「辺鄙すぎる場所に設置されたとところでは、さすがに病院として普通に運営することもできず、ここのように、

「サナトリウム」

 ということになったり、または、

「陸軍病院の中でも、表に出せない人を隔離する」

 という目的のところもあった。

 これが、

「海軍」

 ということであれば、

「無人島のようなところにひそかに施設を作る」

 ということもできたが、陸軍では、それはできなかった。

 というのは、それだけ陸軍は花形で、注目度も高かったということであった。

 特に戦時中で、戦禍がひどくなってきた頃には、諸事情から、

「表に出せない兵士」

 というものがあり、隔離が必要だった。

「殺害してしまうには、多すぎる」

 ということで、隠蔽しなければいけない内容があったのだった。

 だが、国民はそんなことは知らない。

 実際には、

「政府も知らなかった」

 わけだし、

「軍内部でも、最高国家機密」

 と言われたことから、細かいことを聴くということも御法度だったのだ。

 それが、戦後は解体された。

「武装解除」

 という名目であったが、中には、そのまま戦後も使われたところもあった。

 この場所もその一つであり、戦後5年くらいは、実用化されていた。

 つまりは、

「占領軍が日本に君臨していた」

 という時代であり、明らかに、

「占領軍に接収された」

 というところだったのだ。

 しかし、占領軍が、

「日本の統治」

 が解かれた時、それまで、

「関係者以外立ち入り禁止」

 と言われた場所だったが、いつの間にか、その看板はなくなっていた。

 元々目立たないところなので、看板がなくとも、立ち入ろうという人もいなかっただろう。

 だが、独立国家になった日本が、しばらくしてその場所に入ると、すでに、施設はどこにもなく、ただ、自然の中にたたずんでいる場所というだけのことになっていたのであった。

 中に入ると、

「大自然が迎えてくれる場所」

 ということであった。

 この場所の特徴は、まわりを森に囲まれていて、その中は、ドーナツ状になった湖が横たわっていて、すでにコンクリートの建物はなくなっていて、誰かの別荘のような雰囲気の洋館が建っているだけだった。

 その大きさはかなりのもので、

「まるで、省庁や軍の本部といってもいいくらいの佇まいだ」

 といえるくらいだった。

 ただ、それは、そもそも大きな湖の中に、ポツンとあることで、錯覚を覚えさせる。実際には、大きそうに見えて、中に入ると、そうでもないというのが特徴だったのだ。

 昔から表の道からここに入ってくるまで樹海を取っていると、

「まるで、ずっと凪のような状態で、風がない」

 といってもいいくらいだったのだ。


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