ミカ 〜愛と復讐の戦い〜

ダイデン

第1話 鍵と地図と名前の記憶

霧が深く立ちこめる山あいの洋館。

 赤錆びた門扉と、黒ずんだ石造りの外壁。かつてここは、室田財閥の所有する別邸だった。


 今、この館に住んでいるのは、町医者・緒方浩一郎と、その娘・美香。

 昭和の終わりが近づくこの時代においても、館は戦中のまま時間を止めたような佇まいを保っていた。


 この場所に来たのは、逃げるようにしてだった。


 美香が十歳のころ、浩一郎は大学病院で医療事故を起こしたとされ、激しいバッシングに晒された。

 手術中の急変、薬の誤投与、命を奪われた少女。

 新聞に踊った見出しは「神の手、誤診か?」「医療界の黒い天才」。


 だが、美香は見てしまっていた。あの夜、父が誰かと電話口で交わしていた激しいやりとりを。


 「俺が投与した薬じゃない……!」

 「薬剤がすり替えられていた。お前ら、最初から俺を嵌めるつもりだったな……!」


 その直後、一人の男が浩一郎の前に現れた。

 黒い和装、白髪交じりの頭、無表情で、ただ静かにこう言った。


 「……室田家の別邸が空いています。都会を離れ、しばらく“山の空気”に当たってみては?」


 そう言って差し出された館の地図には、赤インクで“診療所設備可”と記されていた。

 その瞬間から、浩一郎と美香の逃避行は始まった。


 そして、五年の月日が流れた。


     *


 十五歳になった美香は、父との間にある“壁”を感じていた。

 母の話は一度も聞いたことがない。自分がどこで生まれ、なぜここに来たのかも。

 父は何かを隠している。そして、この館そのものが、何かを隠している。


 夜になると、床下から機械のような“唸り”が聞こえる。

 天井裏では、誰かが這っているような音。

 扉の奥に、使われていない部屋がいくつもある──どの部屋にも、無数の鍵がかけられている。


 美香は決めた。


 この館の“中心”にある秘密を探る。


 父が診療所に出た隙、美香は書斎に忍び込んだ。


 書斎には、古い文献と医療書、薬学の資料が山積みにされていた。

 しかし、美香が目を止めたのは、机の奥にしまわれていた見取り図と、一つの古い鍵だった。


 見取り図には、この館の構造がすべて記されていた。

 普段立ち入りを禁じられている東棟の一室に、赤字でこう書かれていた。


 ──**「リツの部屋」**──


 その名を見た瞬間、美香の心がざわめいた。


 「……リツ……?」


 見覚えはない。けれど、口にしたとたん、胸の奥に刺すような痛みが走った。

 鍵は、まるで導かれるように、その部屋の部屋番号に対応していた。


 そのとき、背後で足音がした。


 「美香……? なにをしている」


 父・浩一郎が書斎の入口に立っていた。


 とっさに見取り図を引き出しにしまい、鍵をポケットに隠す。


 「ちょっと……本を探してただけ。でも、“リツの部屋”って……何?」


 浩一郎の顔が、凍りついた。


 「……その名をどこで聞いた?」


 「この見取り図に書いてあった。ねえ、リツって誰? お父さん、知ってるんでしょ?」


 沈黙。目を伏せた父は、机の端を強く握った。


 「……リツは“名前”じゃない。通称だ」


 「通称……?」


 「昔、ある薬があった。戦時中、室田財閥が開発していた特殊な薬。肉体を変化させる作用を持っていた」


 「……怪物になるってこと?」


 「……似たようなものだ。その薬を投与され、変異した個体は“リツ”と呼ばれた。そしてその薬には、適合しやすい一族がいた」


 美香は、言葉を失った。


 「その一族は、“リツ一族”と呼ばれた。薬に適応する、選ばれた肉体。選ばれた遺伝子──」


 「じゃあ……その実験、今も?」


 「……今も続いている」


 父は口を閉ざした。だがその沈黙こそが、何よりの答えだった。


 「この館には、地下へと通じる通路がある。俺はかつて、その地下施設で働いていた」


 「……お母さんも、関係あるの?」


 浩一郎はその名を口にしなかった。ただ、静かに、美香を見つめた。


 「……お前が、真実を知るときが来たのかもしれない」


 そして、父は書斎を出て行った。


 重く閉まるドアの音の中に、微かな呟きが混じった。


 「……あの人は、今も、そこにいる……」


 美香は、静かにポケットの中の鍵を握りしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る