第14話 地下鉄の闇(3)

 陽介は、美琴と翠蓮が消えた改札近辺に駆け寄った。プロトデバイスを取り出し、表示される数値を凝視する。しかし、画面には先ほど確かに見た、空間が歪み、二人が吸い込まれていくあの悍ましい光景とは裏腹に、大きな想子力場の変動は察知できない。プロトデバイスはまるで何もなかったかのように静かな数値を指し示していた。

「くそっ、何も反応がない……!」


 焦燥感が陽介を駆り立てる。

(FUMがあれば……!)


 彼のプロトデバイスは、カメラが撮影できる範囲内でしか想子波の歪みを電磁波として検知できない。だが、FUM(Field Unity Meter)に搭載された観測珠は、原理不明ながら呪術的な技術が用いられ、より広範囲かつ深部の想子波まで検知できる。もし今、ここにそれがあれば、地下のどこに異変が起きているのか、何が潜んでいるのか、もっと正確に把握できたはずなのだ。


 このもどかしさが、陽介を苛む。


 その時、隣にいた夜織が静かに口を開いた。

「ぬしさま。さっき、あちきは翠蓮に妖糸を繋ぎんしたゆえ、気づいてくれれば連絡できるかもしれんせん、やってみんす。」


 夜織の言葉に、陽介はハッと顔を上げた。

「糸? じゃあ、糸の向こうに翠蓮ちゃんはいるってことか?」


 夜織はこくりと頷く。その言葉に、わずかな希望の光が陽介の胸に灯った。


 その時、琴音が突然、顔をしかめてあたりを見回した。

「いくつか、小さな地縛霊がいる……」


 琴音の視線の先には、他の客には見えない、半透明の影がいくつかうろついている。そのうちの一体、小学生にもならないほどに見える、小さな男の子の霊が、怯えたように琴音を見上げ、震える声で語りかけてきた。

「……怖いんだ……。深いところにいる、怖い奴らに、僕らもきっと、吸われていくんだ……。」


 その言葉は、まるで地下の底から響く不気味な警告のようだった。琴音の背筋を冷たいものが這い上がる。美琴と翠蓮が引き込まれた場所の奥底には、彼らが想像する以上の、恐ろしい何かが潜んでいることを示唆していた。


 琴音は少年の霊に、そっと手を差し伸べた。

「ねえ、ここ、もう安全じゃないよ。もっと安全なところに行かない? 比丘尼様なら、優しく迎えてくださるから。」


 少年は、怯えた目をしながらも首を横に振る。

「やだ……ここで、お父さんとお母さんをずっと待つんだ。ここを動いたら、会えなくなるんだもん……。」


 琴音は、少年の瞳に宿る深い悲しみと、場所への強い執着を悟った。


(そうだ、地縛霊……。彼らは、この場所から離れられない、強い『想い』に縛られているんだ……)


 そして、その純粋な想いが、この怪異の根源にある、負の感情を形成する一部になっているのかもしれないと、琴音は胸に重くのしかかる感情を覚えた。


 夜織が、静かに陽介と琴音に向き直った。

「ぬしさま、琴音。翠蓮から返答がありんした。あちきは糸を通じて、意思の疎通ができんすえ。」


 夜織の言葉に、二人の顔に安堵と緊張が入り混じる。半妖同士の、常人には知りえない特殊な繋がり。

「翠蓮ちゃん、いまどこにいるって?」


 琴音が前のめりになる。夜織はわずかに目を閉じ、翠蓮の声に耳を傾けるように集中した。

「新横浜の地下にいるように見えるけれど、実際はそうではありんせん場所、と申しておりんす。そして、どうしても地上には上がれねえ、と……出口を探していると。」


 その報告に、陽介の表情が曇った。「新横浜の地下にいるように見えるけど、そうではない場所」という翠蓮の言葉は、まさに彼らが恐れていた「異次元化」の可能性を強く示唆していた。そして、地上に出られないという事実は、美琴も同様に閉じ込められていることを意味する。


 夜織の妖糸が、彼らを繋ぐ唯一の命綱となっていた。


 琴音が、夜織に切羽詰まった声で頼んだ。

「夜織さん、翠蓮ちゃん以外の人はどうなったか、聞いてください!」


 夜織は再び目を閉じ、妖糸を通じて翠蓮と交信を試みる。数秒後、彼女は静かに目を開き、重い口調で報告した。

「改札から地下に逃げた人々のうち、何人かは『イチダース』に引き込まれたと。イチダースは、手がたくさんある妖怪で、地下街のあちこちに潜んでいるようでありんす。」


 陽介と琴音の顔に、絶望の色が広がった。あの異様な光景が、地下のあちこちで繰り返されているのだ。

「翠蓮は今、幾人かの無事な人々を守りつつ、一緒に脱出を図っていると申しておりんす。」


 夜織の言葉に、わずかな希望が灯る。翠蓮が生き残り、さらに他の人々を守ろうとしている。その事実に、陽介と琴音は、自分たちも一刻も早く行動を起こさなければならないと強く決意した。

「朽木さんに対策を相談しよう。電話、お願いできるかな、琴音さん。」


 陽介は琴音にそう頼むと、次の瞬間、まるで何かを思いついたかのように、ポケットからSUICAを取り出した。異空間の入り口が、特定の電磁波パターンと関連しているなら、その発生源をより近くで、直接観測する必要がある。

「陽介くん、まさか!」


 琴音が声を上げる間もなく、陽介は躊躇なく改札にSUICAをかざし、そのまま地下鉄構内へと足を踏み入れた。


 琴音の心配をよそに、陽介は何の異変もなく、するりとホームにたどり着いた。周囲の乗客も、普段と変わらない様子で行き交っている。しかし、陽介の目は、その「普段通り」の光景の奥に潜む異常を捉えようとしていた。


 陽介はプロトデバイスを起動させ、地下鉄の上り線の暗闇にそのレンズを翳した。画面には、肉眼では見えないはずの電磁波の脈動が、まるで生き物の鼓動のように微かに蠢いているのが見えた。


(やはり、ここに…)


 同じように、下り線にもデバイスを向けて撮影と測定を行う。そこにも、同様の脈動が確認できた。


 一通りの観測を終えた陽介が、何事もなかったかのように改札へと戻ってくると、琴音が大声で叱りつけた。

「バカ! 陽介くんまで取り込まれたらどうすんの!」


 琴音の怒声が構内に響き渡るが、陽介は冷静な表情でプロトデバイスのデータを見つめていた。彼の頭の中では、地下に潜む怪異の正体と、その影響範囲の地図が、少しずつ形を成し始めていた。


          ・


 先刻、開発室を出たばかりの三名――陽介、琴音、夜織が息を切らし、顔には土気色のような疲労と、地下で目の当たりにした異変への焦燥をにじませて戻ってきた。

 朽木は、彼らのただならぬ様子を見て、冷静な声で促した。

「極力具体的、客観的な情報をください。」


 陽介は、プロトデバイスを握りしめながら、淀みなく話し始めた。

「先刻19時30分頃、横浜市営地下鉄・JR側改札にて、琴音さんと共に目視で想子力場経由の空間の歪みを確認しました。」


 朽木は、眉一つ動かさずに頷く。陽介の報告は、中西駅長からの極秘依頼の信憑性を裏付けるものだった。

「神隠しの対象者は少なくとも四名。改札にいた二名と、改札を抜けた先の通路にも二名が巻き込まれています。」


 そこで言葉を切ると、モニターの地図を指差しながら続けた。

「ただし、空間変異のあった正確な領域が不明であるため、もしホームまでその影響が及んでいたとすれば、もっと多くの者が巻き込まれている可能性が高いです。」


 陽介は息を継ぎ、沈痛な面持ちで告げた。

「改札にいた二名のうち一名は、さきほどここにいた李翠蓮、そして……」


 その先の言葉を詰まらせた陽介に代わり、琴音が震える声で補足した。

「もう一名は、私の母の白河美琴です。」


 朽木の表情に、一瞬、ぴくりと眉が動き、その切れ長の目が僅かに見開かれた。

 彼らの身近な者が巻き込まれた事実に、開発室に重い沈黙が落ちた。


 その沈黙を破るように、夜織が静かに口を開いた。

「翠蓮さんには、いまのところ、あちきが連絡できる状況下にありんすえ。」


 朽木の目が、夜織に向けられる。

「それによれば、今いるのは新横浜地下に似た異空間でありんす。」


 やはり、ただの神隠しではない。空間そのものが変異しているのだ。夜織はさらに、地下で起きている惨状を報告した。

「何人かの乗客は、腕が多数ある妖怪、仮称『イチダース』にどこかに引き込まれたとのこと。」


 陽介と琴音の脳裏に、監視カメラに映っていた無数の手がフラッシュバックする。それが「イチダース」と呼ばれる妖怪だというのか。

「現在は、何人かの乗客とともに脱出を試みているようでありんす。」


 夜織の言葉に、一縷の希望が灯る。

 朽木は、夜織の報告を聞き終えると、腕を組み、冷静な目で彼女に指示を出した。

「夜織さん、翠蓮さんに、籠城できる場所を確保して、動かないように指示していただけないか。一般人がいるのなら下手に動くと危険だ。」


 そこまで言うと、朽木は自身の行った検査の内容を思い浮かべ、小さく息を吐いた。

「翠蓮さん自身も一般人ではあるのだが、あの脅威的な筋力と反射神経、破壊力に、現状頼らざるをえない、頼もしい限りだ。」


 その言葉には、翠蓮の特殊な能力への驚嘆と、この緊急事態における彼女の存在の重要性が込められていた。夜織は無言で頷くと、再び意識を集中し、妖糸を通して翠蓮への伝達を試みた。


 陽介は、手にしたプロトデバイスを朽木に差し出した。

「先刻、地下鉄の駅ホームで撮影してきた映像があります。地下鉄の線路の向こう側に、なにか得体のしれないものが多数潜んでいます。」


 陽介の言葉に、朽木は無言でデバイスを受け取る。データが転送され、メインモニターに映像が映し出された。陽介が映像の明度を上げていくと、真っ暗闇だった線路の奥に、ぼんやりとだが確かに、無数の蠢く影が浮かび上がった。それらは明確な形を持たず、しかし脈動するように蠢き、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる。

 朽木はモニターに映し出された不気味な映像に目を凝らし、静かに口を開いた。

「これは……『想子力場の底に澱む累積された怨みの想子』という説に示された霊体に、酷似している。しかし、通常は微弱な波動を示すのみで、こんなに活発に動くことはありえないはずだ。」


 陽介が聞き返す。

「怨みの想子、ですか?」

「そうだ。」

 朽木は頷いた。

「長い時の積み重ね。断末魔のような無念の呪い、恨みの想子が、解決されることなく、地下深くに沈んでいるという説がある。まるで、ヘドロのように。」

「怨霊は溶け合い混ざり合い人格すら曖昧になっていながら、己の死を許容していない。そして生者を『手』で己が領域に引きずり込みたがっているという」

「『手』でですか。」

「そうだ『手』は人格のない意思のメタファだ。『イチダース』はその意思の具象化されたものかもしれない」


 その言葉は、陽介の胸に重くのしかかった。モニターの向こうで蠢く影が、単なる妖怪ではなく、人々の深い怨念の集合体であると示唆しているのだ。


 これまで聞いた内容を、車椅子の上のPCで素早く資料化していた朽木は、完成したファイルを即座にメールで転送した。その後、迷うことなく構内電話をかける。

「駅長、緊急事態です。今まさに神隠しが発生しております。情報はメールに添付しました。」


 朽木の冷静だが緊迫した声が、電話の向こうの駅長に事態の深刻さを伝えた。

 ややあって、開発室のドアがノックもなく乱暴に開いた。

 中西駅長が、鬼気迫る表情で飛び込んでくる。

「横浜市営地下鉄に問い合わせたところ、列車の1編成がまるごと行方不明とのことだ。」


 その言葉に、開発室の空気が凍りついた。

「早急な解決のため、特殊事例のプロフェッショナルに先ほど依頼した。」


 中西の言葉に、陽介は目を見開いた。

「まさか……」


 陽介の脳裏に、あの傲岸不遜な男の顔が浮かぶ。その予感を裏付けるように、中西は告げた。

「そうだよ、役禍角えんかかくくんだよ。」


 琴音が眉を顰める。その名を聞いただけで、彼女の顔には心底不快そうな色が滲んでいた。

 陽介もまた、あの強烈な個性の男の姿を思い浮かべ、固唾を飲む。


          ・


 役禍角の要請により、新横浜駅地下は地下鉄のみならず、東急、相鉄を含む全ての路線で規制線が張られ、侵入禁止となった。この異例の対応に、陽介と琴音は興味を抱き、その様子を見に行くことにする。


 夜織も同行しようとしたが、朽木に止められた。

「役禍角は妖怪に殺意を持つ。危険だ。」


 朽木の言葉に、夜織は不満げに眉をひそめたが、彼の言葉に従うしかなかった。


 人っ子一人いない静まり返った新横浜駅地下に、役禍角がのしのしと錫杖を持って現れた。JR改札から地下鉄改札前まで、その堂々とした足取りで進んでくる。

「禍角、要請により、厄払いを仕る!」


 彼の声が、がらんとした地下空間に響き渡った。


 役禍角はゆっくりと法螺貝を取り出すと、深く息を吸い込み、吹き鳴らした。

 その音は、かつて鬼退治で聞かせたような荒々しいものではなく、どこか清浄な響きを帯びていた。しかし、それは怪異空間の相を変えるが故か、その音に呼応するように、徐々に地下通路の彩度が落ちていく。色彩が薄れ、まるで水墨画のようなモノクロームの世界へと変貌していくかのようだ。


 法螺貝を下ろし、錫杖を構えた役禍角は、不敵に笑った。

「おるなら、かかってこいや。」


 その声に呼応するように、地下通路の壁から、幾つもの腕といくつもの目玉を持つ筋肉質の怪物がぬるりと現出した。陽介のプロトデバイスが捉えた映像で見た、あの不気味な影が、今、目の前に実体として現れたのだ。

(あれが「イチダース」か……)


 陽介は息を呑んだ。


          ・


「これからすごいスタッフが行くようだから、隙を見て地上へ逃げなんし。」


 翠蓮は先刻、夜織より受けた連絡を思い返していた。共に避難している人々は、全部で五名になっていた。

 白河美琴は、いつの間にか翠蓮の中で「美琴ママ」になっていた。

 彼女の隣には、駅員にホームの状況を訊いていた中年男性、二十代の男とその幼児、中学生の男の子、そして看護師の女性がいた。


 この異空間で、翠蓮は多くの判断ミスや失敗を重ねた。助けられなかった人もいる。そのたびに泣きそうになったが、美琴さんはいつも隣で慰め、支えてくれたのだ。一度、間違えて「ママ……」と呼んでしまった時には、「あら、もう一人娘ができたわ」なんて会話もあった。そんな温かいやり取りが、翠蓮の心をどれほど支えたことか。


 翠蓮は、どこからともなく響く、何かを清めるような、ホルンを思わせる音を聞いた。訝しげに呟く。

「なに、この音色?」


 中年男性が説明する。

「法螺貝かな? 日本に古くからある楽器だよ。」


 そのとき、周囲の色彩が徐々に失われ、モノクロームへと変わっていく。

 壁の染み一つ、床のタイルのひび割れ一つまでが、鉛筆で描かれたようにくっきりと浮かび上がり、同時に空気から湿り気や匂い、そして生々しい気配が消え失せていく。


 じゃらんじゃらんと、規則的な錫杖の音が地下街に響き渡る。

 中年男性が、恐る恐る柱の影からJR側を覗き見ていう。

「戦っている。イチダースと、プロレスラーみたいな男だ。」


 中学生の男の子が興奮したように叫ぶ。

「翠蓮おねえちゃん、駅の向こう側がくっきりしたよ!」

 法螺貝の音が止み、役禍角が戦闘を開始した頃からだろうか。風景がいつのまにか色彩を取り戻し始めていた。

 これまでどこか曖昧さを持っていた地下の風景は、現実味を取り戻し、細部まで鮮明に見えるようになっていた。

 そして、その淀んだ空気も、どこか澄んだものに変わったかのようだ。

 その中心では、プロレスラーのような巨漢が、何体ものイチダースを錫杖で楽しそうに殴りつけていた。

 幾度となくその無数の腕に苦しめられ、その異様な姿に恐怖を感じてきたイチダースが、まるで塵芥のようにぶん殴るだけで壁に追いやられる。その圧倒的なパワーに、翠蓮は驚愕した。

「なに、あのおっさん、怖いんだけど。」 翠蓮は思わず呟いた。


(おそらく今なら地上に戻れる気がする。)

 翠蓮は、同じことを思ったらしい美琴とアイコンタクトを取った。

 美琴の目にも、確かな希望の色が宿っている。

「あそこから、いけそうね。」


 翠蓮は小さく頷いた。一番近い出口は、最初に脱出を試みたスタジアム側の8番出口だ。翠蓮は意識を集中し、夜織の妖糸に想いを乗せる。

「夜織さん、これから8番出口から、脱出するよ。みんなボロボロだから、ケアするスタッフをお願い。」


 すぐに夜織から「了解!」という、力強く肯定的なイメージが届く。念話、便利すぎ。

「みんな感じてると思うけどー、クッキリしたよね。世界、今なら地上行けると思うよー!」


 看護師の女性も頷く。

「翠蓮さんの言うとおり、夢の中みたいな感じじゃなくなったわ。」


 彼女は、翠蓮がイチダースと戦い、無理やり引き剥がして救出した幼い女児の頭に巻いた応急処置のタオルに視線を落とした。

 女児は先刻の恐怖と頭の怪我でぐったりとしている。

「早く、適切な措置をしないと、このお子さんは危険です。」


 看護師の言葉に、翠蓮の表情が引き締まった。彼女の目には、迷いなく地上を目指す強い決意と、幼い命を救う責任感が宿っていた。

 夜織から、準備完了のイメージが届く。翠蓮は真似をしてスワロフスキーでデコりまくったハートマークのイメージを返信した。8番出口は、もう十五メートルほど先に見える。

「美琴さんと、おじさんで8番出口まで先導して。アーシは、殿しんがりってやつ。今、イチダースはあのおっさんに気を取られてる、今ならいける!」


 これまでの経緯で、翠蓮がこの中で最も戦闘力があることを皆認識していた。彼女の言葉に迷いはなく、誰もがその指示に従う。

「いくよ、GO!」


 翠蓮がそう叫ぶと、美琴と中年男性を先頭に、後ろの4人が通路を走り出した。

 父親はぐったりとした女児を抱え、必死に走る。


 その時、一体のイチダースがこちらを振り向き、ぬるりと歩み寄ってきた。

「翠蓮おねえちゃん!」


 中学生の男の子が、不安げに叫ぶ。

「だーいじょうぶだって、アーシだってそっこそこ闘えるんだから!強くなりたいんっしょ!道場に来たら教えてあげるよ!」


 翠蓮の言葉に、男の子は目を輝かせた。

「うん! ぼく、ぜったい、中華街に行くよ!」


 男の子が叫び返す声が、加速する逃走の音に混じる。

 翠蓮は迫り来るイチダースを迎え撃つべく、その場に踏みとどまった。


 翠蓮は重心を低く構え、中国拳法・鷹爪拳そうようけんの迎撃態勢を取った。

 その瞳が黄金色に禍々しく輝き、耳が鋭く尖る。完全な獣化だ。

 降り下ろされるイチダースの二本の右側の腕を、鷹爪拳の擒拿術きんなじゅつで絡め取り、腕を捻り上げる。関節の靭帯が軋む音を立てる。

 同時に踏み込んできた右膝を逆関節で踏み砕く、関節はゴキリと嫌な音を立てた。

 肩関節を中心に押さえ込み、鋭い刃物のような爪を、躊躇なくイチダースの頚部に深く突き刺した。

 肉を裂く生々しい音が響き、イチダースの巨体が痙攣する。


 男の子が走りながらも、その動きを憧れの眼差しで見ていた。


          ・


 翠蓮は8番出口へと向けて走った。

 残るイチダースの二個体が追撃しようと迫るが、翠蓮はそれらを阻む。

 周囲に目を向ける余裕などない。皆に近づけてたまるものか。


 合わせて三体のイチダースを夢中で片付けたところで、どっと全身を覆っていた緊張が解け、フロアの静寂に気づいた。


 そして、「もーだめー、もー限界、つらたーん。」と倒れ込む。


 次に追撃があったら死にそう。倒れたまま、荒い息を吐きながら見渡すと、真ん中にいるプロレスラーのような男の周りに、十二体ものイチダースが既に屠られていることに気づき笑う。


「……『イチダース』が一ダース、まじかよ。」


 男――役禍角が、金華猫の半妖・翠蓮を鋭く睨んだ。

あやかしがまだおるようだな。」

 役禍角は、世の全ての妖怪を世の穢れと見做し、殲滅せんとする思想を持つ。


 ゆっくりと、錫杖を鳴らしながら、肌を刺すような冷たい殺気を振りまき、倒れた翠蓮の下に近づく。

 役禍角が近づいてくるのを認めた翠蓮は、荒い息を整え、ゆっくりと立ち上がった。


 役禍角が、翠蓮の前に立ちはだかる。翠蓮はその殺気を全く意に介さないかのように、満面の笑顔で役禍角のゴツゴツとした手を、憧れの目で確かめるように両手で包んだ。

 獣化は完全に解けてしまい、そこにいるのは、ただただ強者に憧れる一人の少女である。


 翠蓮は、役禍角を大絶賛し始めた。


「来てくれた〜うっわぁ!!嬉し〜い!! 神降臨ーん! 強〜い!! 強〜い!! すっごい!!ね、ね、ね、ね! 何食べて、どうしたらそんなに強くなるの!?」

「なんて御名前!? うちの道場に来てよ、すごい技術、色々教えてー!!」

「中華街にアーシの父親の店あるから、食べに来て、ご馳走するよー。」


 役禍角は呆気に取られ、まるで思考が停止したかのように動きを止め、その殺気はすっかり削がれてしまった。

「うーん……。」


 役禍角は困惑したような声を漏らした。

 この手の反応は、彼の長い人生経験でも、おそらく初めてのことだった。



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「8番出口」

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