第四節『マリス』


 呪術とはマリス《悪意》である。悪意とは害意ではなく、語られなかったことで累積した情報である。実在の前をカオスとするなら、語られなかった情報とは、実在を認知された上で処理を後回しにされ、残り続けた"人影"であった。認知と無意識は重複可能な事象であり、よってカオスとは認知以前、マリスとは無意識下の実存と分類する。それはエトスの理念が投影されなかったという実存の裏面であるがゆえ、霊術と呪術は表裏一体の業とされるが、本質的に両者は同一の位相だ。


 意味が写されなかったもの。意味のあった先に無意識に追いやられ腐ったもの。何れも、エトスが浮かび上がるものなれば、此方は相対して沈むものである。情報は常に、注視される対象を包囲するように実存のみを保ち、例えるならば"容器を圧迫する"存在。累積を続けた結果としてその範囲に理念の無効化が訪れた時、実際に"意味消失"として、それらは主観価値を欠落する。性格の善し悪しによってよく外見への表れが出るとされるが、これがマリス《悪意》の最たる例だ。


 …実存の世界とは、繁栄が伴えば否が応でも過去を切り捨てなければならない。捨てられたものを飛び台にして語られたものは立つが、これらを倫理無き消費が食い潰してゆく時、数え切れぬほどの"語るべきであったもの"が取り残される。悦楽とは移り気、よって消費的螺旋が描かれた頃、世界はエトスを喪い、泥に沈むしかないのだろう。



 ◤ 1 ◢



 夕暮れの王国の門前にて、

 お前は影の数々を踏みしだいた。


 誰も見えなかった。これまでに門を前にした時、必ずいた者が今はここにいない。じとりとした湿気が肌に覆うような感覚を齎し、無意識にもそれを拭おうとした時、掌が暗く薄汚れていることに気付く。いいや、それどころか、この門の前から街路にかけて、道端にも建屋にも暗い泥のような穢れが置かれている。不自然に、不快に。


 赤い黄昏の時、お前の影が脈動を始める。陽が傾く程にその影は身体を伸ばしてゆき、お前自身よりも遥かに大きな闇へと変貌する。だが、その輪郭だけは見覚えのある者のそれであった。



「…ウルディム、貴方か?」



 影は答えない、答える筈がない。ただの影だ。────屈み込みその暗闇に触れると、先の汚れにも似た黒い泥が手にこびり着いて離れない。思わず一歩下がるが、もうこの時、影はお前の従属では無くなっていた。離れぬのに輪郭は一片とも変わらず、不動の黒衣にて鎮座する。


 それはもう、お前ではない。されど、お前の足から伸び続けている。その意は何だというのか。これまでに問いていた者は沈黙している。お前は門に背をもたれて己で考えるしか無かった。その視界の端、以前には立っていた筈の椅子が腐り崩れている事にも気付きながら。


 答えが出ず、思考が混沌として放棄に向かう度に世界そのものが蠢いているような錯覚を起こし、またその度に再度の思考へと引き戻される。都度、影が大きくなっているようにも見えたが、陽の傾きか、それすらも錯覚か───現実に身を置きすぎたあまりに、現実と空想の境が曖昧となる。


 お前は無意識に意味を与えようとし過ぎたのか。全て読み解こうとした結果、今の空虚が訪れているなら"問い"とはなんだったというのか。かつて、あの者は暗に"問いを忘れるな"と言っていたが、果たしてそれは真に己にとって"善きこと"だったか? さて、そうした問いすらを浮かべているなら無意識にはほど遠い話だったのだが。


 …それでも沈黙に手を伸ばす。そこに意味があると信じて。動かぬ影にまた触れて、今度こそ何かが起こるのだろうと、密かな希望に縋って。そうして今度は影の側が動き出す────お前の足を引きずり込み、静かに、闇に全てを沈めてゆく。


 反射的に身を引こうとしても、もう遅かった。だがお前がそこに理念を見い出したのだから、拒絶は直ぐに通り越し、身を委ねて沈んでゆく。


 ああ───そこに意味があったのなら、と。



 ◤ 2 ◢



「お前のその問いこそ、人が意味を見失った時、最も意味を求めることの証左であった。」


 意識の在る場に立ち戻った頃、お前の居る場は暗い血が水面となって広がり、暗黒の天に向かってその雨が逆さまに昇る地になっていた。深海のような、水の流れゆきが音だけで伝わり、何処にて雷鳴の響き渡る暗黒界。ただそこにも、まだ高壁が広く一周するように円を囲っており、またお前が幾度となく問うてきた門も、確かにそこにあった。光源の一つもなく、なお明確に"何かある"と分かるだけの存在に対する認識だけは機能し、故にこそ、姿無き声を受けることも出来た。



「何処にいるんだ?」


「何処にでも在り。何処にも在らぬ。お前は名を呼んだが、その名を私が進んで言及したことは一度足りとも無い。


 ああ、忘れてはならぬ。それは"お前が呼んだだけの名"だろう?」



 お前は動揺か納得の何れかになるやも知れぬ意識の胎動を抱え、確かに、己があの問者の何も知らぬことに気付く。…いや、その"知らぬ"という事でさえ、自らの手で確定させた真理に他ならない。真に他を理解するとは少なくとも人の世には到達不可能な事象であり、その上で"理解"と"不理解"の線引を主観存在が行う。論の飛躍も承知で述べば、他存在の完全と呼ぶに足りる理解とは観測者が"そのもの"とならねばならず、またその思考と実存を引き受けた上で自己を他者として認識しなければならない。


 だがどうだ、そうなった時点で観測対象はもう最初の意図の対象ではなくなっている。もっと言えば、他者理解とは他と自己の境が完全に無くなった世界、あるいは世界そのものにならなければならず、そうすると、そもそも観測と主観という前提が成り立たないのだ。境の融解とは無と有の境でもあり、これが仮に主観によって無いと断ずられれば、実存の有と無に関わらず、"何方も同じ"となる。これは観測以前の問題────無意識下の実存にもなる以前のカオスそのものである。


 よって、"理解"とはその都度で振れる定義であり、これほど不毛な論争になる題もこの場においては多くない。お前は"あれ"を『ウルディム』と呼び、認知の支配下に投影した。それだけの事だろうに。



「今になって、こうまで突き放す必要とは?」


「最初から、お前を抱けるほど近くに寄っていた覚えはない。私は常に門の前にいた。後はお前が自ら寄ってそれに応えられなかったと感じたことで、"突き放された"と定義しただけだ。


 私は常に門の前にいる。だがお前の中にはいないし、入り込もうと思ってもいない。今一度それを承知するがよい。お前は他者を解る事など出来はしない」



 断絶とは斯くなるものだ。しかし同時に、断絶という定義すら、今ここで私が提示しただけの言葉に過ぎぬ。全てが本来境界の有らぬものだと私が示したならば、お前が思うような論証を掲げることはまず出来ない。何故ならば、私の定義に則ってカオスを定義するならば、世という『全て』が今もこうして混沌カオスである事になりかねないのだ。


 では、その対概念として設置される秩序ノモスとは真にカオスの対か? 否だ。それもノモスという幻想を欲して投影したカオスからの者による台座の上の球体でしかない。ノモスは見る者の視座だけで容易く転がり、瞬く間に無くなる。ここまでに出てきたもの───ロゴス/パトス/エトスの何れもロゴスによってカオスから切り出したと"錯覚しただけ"の真理という欺瞞に等しく、以後も続く私の全ての語りが欺瞞である。


 エトスを経てこれらを読解しようとするお前にとっては、"なら、倫理を語ったお前は何だったのだ?"と私自体に疑問を浮かべるだろう。お前が道徳のエトスから見るなら私は正しく敵であるが、私のこの発言にも私だけの理念があったのは確かだ。───お前がどう思おうと、私にとってもお前にとっても筋違いではない。筋とは、見る者だけで変わる虚構だからだ。



「心せよ。マリスを通じてカオスを見る者は、そこにエトスを見出せなくなった時点で自壊する。


 お前を保つのはお前だけだ。そこに道徳の介入余地は無い。深淵は常にお前を見ている」



 ◤ 3 ◢



「マリス《悪意》とは?」


「無意識下の情報。お前が理念を写すのを止めた実存と仮想の狭間に、忘れていった何かだ。…だが、それは無くなったのではない。お前の意識の奥底に眠っているだけだ」



 主観存在は実存存在をロゴスにて定義することで自己の認知の下にエトスとして投射されるが、それは無意識に沈めば殆どか"情報"として残る。というより、エトスがマリスの萌芽である。切り捨てたエトスの腐敗により理念は泥となるのだ。



「感情…害意ではなく?」


「害意も理念も人は併せられる。その根源が悦楽であれ、功利であれ、害意単体として人を淀ませることはない。問題は、それが一過性として闇に葬られた時である」



 表明無き悪意とは、言ってしまえば、どれだけ自分を騙してきたか───社会的抑圧などによって"そうせざるを得なかった"こと、"納得せず遂行した"こと、"目的の為に自分を殺した"こと、特に、あやふやなまま切り捨てたことほど内側から淀みの訴えが大きくなってゆく。だが逆にそれが最も実存に近い。暴かれたものは暴かれたものでしかないが、まだ何にもならなかったものは、そのままであるだけで誰にも解釈を許さない。


 表明無きとは、隠すことではなく、認めることだ。それが表明の無きことにより、逆説的にして最大の表明となる。在るものは在るだけでよい。誰にも明かす必要などない。



「悪意は情報でしかないのか?

 道徳における悪意とは別の物として?」


「その道徳の悪の定義による。だが何れの道徳であっても、その中の悪意はこの場の如何なるマリスをも指していないことが殆どであろう。


 何より、外在の定義でマリスに真に近付くことは出来ない。不定形のものを禁忌として封するならば、数多の矛盾をはらんだ上で制止することとなる。そしてそれは、容易に瓦解する」



 ノモスは、悪意をマリスとして捉えられぬ。何処まで行ってもそれは"定義されたもの"であり、有が空白に接触した時にしか置きない一時の閃光である。空白の有とは───定義された、在りし有の反義として在りし有を存在証明するもの。そしてそれだけが空白の有の存在証明としかならず、何方が欠けても存在は立証されない。


 人はその僅かな稲光のうちに住み、光が消える時に再び暗雲を叩く。空を裂くように出来た一閃こそがお前達の灯すべき秩序であって、秩序の有と混沌の有の対立ではない。お前達は混沌の無の上に仮初めの有を築いているだけだ。どれだけ語っても、その終焉に待つのは語られなかったものだけでしかない。



 ───見よ。今この場にも稲光が。

 轟く圧こそ、秩序の雷光なる殺刃の煌めきの権現、即ちロゴスの裂きにエトスの果実を這わせた動(パトス)。それによってお前が垣間見るものがあのマリスなる暗雲、至らぬ"未完"そのものである。その雷光にお前の立つ暗黒の水面が照らされ、粘つき逆向く雨をより露とする。その視野の先には空の玉座が。さんざめく雷光に打たれ、点滅の度、雷轟の度に人影が現れ、呻きの残響が耳に残り、最奥の座にて明らかな者が出現する。


 鎮座。玉座の背から始まって、お前と繋がる水面の辺りには逆さに突き出した長槍の一群が在る。ここに"明らかとなった者"、漆黒の甲冑を身に纏い、屍のように玉座にもたれ掛かりながら、手にあった長剣と長棍だけは握り締めていた。



「……衝突が始まる。お前の如き、在る者が闇を見たのなら、その闇がお前を見返すのも必定。


 ───見よ。存在を証明せよ。


 さもなくばお前が喰われるぞ、お前がこれまでに切り捨てた、その全てに……」




 ◤ 4 ◢



 その闇は、歴史から封された一つの伝承の姿であった。


 長身痩躯の黒い騎士。全身が全て鎧に覆われてなお、兜の下からは血の如き真紅の長髪が垂れ下がっているのが微かに分かる。屍のようにして動かなかった"それ"は、座したまま前向に身を捩らせ、長棍を水面に突き立てながらゆっくりと立ち上がった。



「───"それ"は、語るべきではなかった。」



 お前が剣に手をかける流れで、私は姿無きままに警句を手向ける。赤月が暗雲より覗き、黒の騎士の背面から照らす。この暗黒界、一筋の長い光が差したところで、それは到底導きに足りる光ではなかった。赤月と雷光はより一層混沌を浮かび上がらせ、秩序に欺かれたお前達を嗤っている。


 その騎士の剣と棍は、よくよくと見れば、歪に叩き折られた一つの大槍であったことが察せる。如何に体躯の長さがあろうとそれを自由に振るうにあたっては、どれ程の研鑽が必要だったのかは想像すらも及ばない。ただ痩せた身には不釣り合いだと言うのに、そこに"在る"だけで、その騎士の佇まいは何人の英雄より遥かに説得力があった。



「それは忌み子であった。…ああ、生まれたことそのものが呪いであった。


 かの騎士は己が鬼である以前に、生まれた事が最初の罪として生を受けた。己が出生が失敗であったと父に罵倒を受け、出生によって母を殺した」



 より自由な生を謳歌しているお前ならば、その生に悲哀でも浮かべるだろうか。だが、"現実"がそう温い世界ではないこともよく身に染みているであろう。生まれたなら、それ自体が凶兆として呪いを引き受ける生者もいた。何ら当人に咎が無かろうと、他人はそれに足るだけの意味を余る程に与え、肥えさせて腐敗に沈める。


 双子は忌み子、新月の落とし子は忌み子、飢え狂った種族の子ならば忌み子。どれもこれも、ただ意味付けられただけの、必然の因果無き運命である。その観念がどれだけ無垢と無辜を殺してきたか、まだ何も積み上げてなどない素体に内在の外殻を与え、狂わせ、圧し殺してきた。では実際生まれた何某かが自己の意味を持って何をしたか?


 "生きただけ"だ。呪った者らと同様に。生者は最初に生きるように出来ている。生を手放そうとして手放した者は、誰一人としていない。何故なら、それが"他の可能性"を殺してまで"存在"として成った者の最初の贖罪であったからだ。



「異端として…押し上げられた…」


「多くの"異端"とはそうだ。彼らは押し上げられただけであり、自ら異端と名乗ろうとはしていない。


 ただ、少なくともその騎士は最初から異端と呼ばれるだけの咎を背負わされていた。最初から、その器として創られたのだ」



 騎士が歩み始める。棍で覚束ない脚を支えながら剣を引きずるも、次第にその姿勢は力強さを増して、何時しか確固たる足並みにて赤月を背とする。存在証明───迫りくるマリスの徒が棍を脳天から振り下ろし、逆上る黒の雨を弾き暴力的な一撃を手とする。お前は、自身より遥かに強大なそれに対しても、白銀の剣にて迎え撃つ他が無い。雷鳴のように轟音が鳴り響くも、騎士は片手で腰も入れずにお前の剣を制する。それに引き替えお前はというと、その一撃だけで膝を折り、刃を横にすることで辛うじて防ぐに留まる。


 そのまま拮抗するだけでは証明に足らず。証明とは常に連鎖しなければならぬ───追うように騎士が空いた長剣にてお前の剣を下より弾き飛ばし、守りを崩す───明らかに、その膂力は人の範疇には無かった。まるで巨人の腕をそのまま喰らったかの如き反動、ただ騎士はそこから迫撃を仕掛けてこない。少なくとも抗うだけの意志を見せるお前を、一方的に葬る姿勢は見せていない。



 ここからだ。お前の剣は大きく揺さぶられるとも、その剣にはパトスの極光が煌めく。焔に至る前の発光そのものというか、遠く飛ばされた剣をロゴスによって引き寄せ、再度構え直す。騎士はその光を眼に受けてやや視線を逸らすが、お前の体勢が整ったと見ると迷い無き棍の横払いを与える。


 次いで防御。受けてお前の反撃が、次に迫りくる長剣の突きに対して防御となる。大小、大小という、棍と剣の双戦術がお前を翻弄するも、どれも殺意あれど確殺の勢いが無い。実力差の手加減というには無機質に過ぎ、かと言って騎士が見掛け倒しだという訳でも無し。それは、お前の意志と姿勢に比例したものでしか無かった。



「奇妙か? だが、無存在は存在以上の証明は出来ぬ。確かに在る限りの衝突がそこに続き、されどその猛威が露わになるのは、存在する者がそれだけ自己掲示を煌々とさせるからだ。


 無は有より遥かに広大だが、せめぎ合いの度合いは有に委ねられる。何故か? それはあくまで、有在りきの拮抗に過ぎぬからであろう。」



 睨み合いの背景にて私は語っている。だが、お前はこれ以上その猶予は残っていない。時間ではなく、ここまで様々な語りを経たお前は、最後に最も知らねばならない方法を学ぶ。語り尽くした最後に必ず待つ沈黙。そして沈黙してなおその在り様で以て語り以上に顕示する。物言わぬ最後のエトスはそこに在り、マリスという実存にてお前の写し鏡となる。



「────……」



 懐に仕舞え。最後に残されたお前の言葉はお前自身の行動、その残響、軌跡である。お前の持つ剣がいや煌々と雷光以上に輝き、そしてそれが緩やかに収束し、剣は確かな霊の炎が宿った。理念の炎、幻を体現する信念の炎。"あの戦士"の背を思い描き、故に"在る"と吼えるお前の炎───騎士は、その光を見ることで僅かにたじろぎ動きを止めるが、その契機にて折れた棍と長剣を繋ぎ直した。


 かつての大槍、自らの最初の名になぞらえて。




 ◤ 5 ◢



 一本の大槍。騎士自身の身の丈をも優に超え、その得物を腰にて佇む。お前が火の剣を構えるのを見るや否や、井戸底よりも暗い水面より槍の群体が串刺しにせんと飛び出てゆく。しかしそれもお前へ直に向かうものではない。何故なら、霊の炎に強く照らされる範囲に刃は這い出てこない。


 光在らぬ境界の先は未知数だが、少なくともお前の炎の当たる場に"ここには無い"と立証されているのだ。それ故、それはイデアの焔であり、実存を歪める幻視の魂としてお前のエトスを示す。泥の刃は光の先に立ち入ろうとでもすれば、即座に蕩けて崩れる。



 騎士はその振る舞いに何ら浮かべていない。或いは最初から理解していたか、諦観に近しいものであった。───むしろ、宣告だったのやも知れぬ。光が入れば崩れるとは言うが、逆に言えば、お前がその理念を絶やしたのが"最期"の時となるのは明らか。迷えば敗れ、臆せば容赦無く沈む事になる───この剣戟が存在証明の閃光ならば、その途絶がお前の存在消失に直結するのだ。



「絶やさずそこに"在る"か。

 それとも、お前は受け容れるのか?」



 人影が増えてゆく。光の当たる場に点々と、ソピアーの国の民草の影が現れる。それらはただその場にて揺らぐばかりであったが、唯一共通していたのは、皆お前の方を見て立ち尽くしていた。暗闇に潜む者は、そこに灯が現れたなら必ず光源を見る。影の者は目が潰れるような激しい差し込みであると同時に、光の者はより一層影の先を見捉えられなくなるのが必定。


 その中で騎士との競り合いは激化してゆく。お前が理念を灯すが度に、騎士の黒い槍は光の内まで異物のまま刺し貫いて臨み、対するお前は光る剣で以てそれらを防ぎ、弾いてみせる。その都度、雷光が暗黒界を光で照らし、水底に写る影の正体を知らしめる。


 水底には王国が反転して見えていた。鏡に写った姿のように、お前がやって来た先を指していた。



「影送り。お前はあの門に問うたび、自らが王国の内から浮かび上がっていった事を覚えていたか?誰もがそこに頓着した中で、お前だけが民ではなかったことに気付いていたか?


 民は囲いの中の安寧そのものだ。争いを知らず、外を知らず、辿り着けぬ白き螺旋の城に何故疑問を抱かなかった?」



 白き螺旋の城。ソピアーの王国の中枢に在りし象徴。けれどそれも、今の今までお前は忘れていたのではないか? 言及しなかったことがそのまま、お前の中で"意味の無い"ものだと断じたのではないか? 民も王国も城も、お前の中で死んだ意味となっていたのではないか? ならば、お前はそれだけでこの書の全てを殺してきたのだ。



「民は民であって、既に自らの意味を国に委ねていたからだ。故に、ここもお前が出でた王国と変わらぬ。むしろその本質が浮き彫りになっただけであろう。


 だというのに、お前は問うてしまった。門の前に辿り着いてしまった。お前が城ではなく門を問うたのは、他ならぬお前が"逸脱者"であり、外にしか意味を見出せなかったからだ。」



 ────お前がこの書に目を通した時点で。お前はこの王国を読むことで、外に意味があると信じた。それが問いの大前提であった。



「今更、読解を放棄するのか? お前が読まなければ、この国はただそこに在っただけだというのに?


 ならば何故読んだ? ここで説かれずとも、お前は理解していた筈だ。


 他者を"読む"ということがどれだけ他者を苦しめるのかを、他者を"書く"ということがどれだけ他者を殺すのかを。」



 まだ分からないのか? お前が"諦めた先"が、ここでお前に牙を剥いたあの騎士、民……お前達の意味そのものだということが。お前達が求めた"閃光"の為だけに、理念によって落とされた他者の屍は再度、お前達によって殺されたことが。


 自己の魂の発露により、お前達は常に他者の魂を殺す定めにある。知らなかった訳が無い。お前はこの時代にて、多くのそれを見てきた筈だ。見て、無意識の奈落に追い落としたのが"それ"だったと。



「多くの物語が生まれたぞ。だが、お前はそれを見ようとはしなかった。題だけを読み、その先に触れられたものを理解しようともせず、流し見で済ませてきた。


 その度に世界は殺された。幾千幾万、幾億とお前達は選別し、死者に粗い刃を斬りつけてきた。」



 お前は答えない。答えられない。端的に反論を行うには、お前は余りにも事実を積み上げ過ぎた。いや───答えることが、私の論を肯定するに他ならなかった。…人が目を背けるのは、背けるべきものがあるからだ。存在を認識しなければ、その空白の有から逸れることはない。沈黙が最も実存に近いとはこういうことだ、一度言葉となれば事実は独り善がりの真実に固定され、"抜け落ちた全てが"無かったことになる。


 歪めて殺すか、せめて己が内で殺すか。実存した者は何れかを選ぶ他に無し。ならば、後者が最も"干渉しなかった"となるのは自明の理。そしてそれですら、お前の自己満足に過ぎない。何れを選んでも"語られなかったもの"には"語られて欲しかったもの"と"語って欲しくなかったもの"の全てがある。お前が在る以上、どれか一つ以外を須らく"否定"するしか無い。



「それでもお前は────。」



 私の言葉が区切られた時、騎士は槍を落とした。お前の理念の火が揺らいでいるのを見て、その騎士は疲弊を感じさせるような足取りで、先までの殺意が嘘だったかのように歩み寄る。光の範囲にも入ってきて、その全貌がようやく少し見えた気がした。兜の下から見える赤髪は、かつて"火"に打ち砕かれた記憶を仄かに写し、弛たんで血の涙の如き優美を魅せる。


 雷轟が止む。稲光が止む。逆さに昇っていた雨が緩やかに下に向かい始め、赤月は白へ、なお青へと変じて遠くなってゆく。


 兜を脱ぎ捨て、お前の弱々しい火の刃を騎士が両手で握る。自らが燃えて亀裂が入っていっても、騎士は呻き声の一つも上げることが無かった。───痩躯なのにも合点がいった。その面は、とても線の細く、三日月のように美しい姿だった。



「……貴公。この継ぎ火、何処へ向ける?」



 語られざる騎士の、その言葉の発露は、お前の想像より遥かに淑やかで波打つ海の音のようであった。


 騎士は微笑み、なお答えられぬお前の顔を見て、落ち着きを取り戻してゆく火の剣を撫でる。呼吸も表情も確かにあったその騎士を、お前は今の今まで"影だ"としか思えなかった。だが実際そこに確かに"在った"のは、誰も恨めず、一人の火を愛しただけの者でしかなかった。


 再び盛って燃えゆる剣を胸に引き寄せ押し当てるその姿は、己が抱けなかった赤子を、あるいは赤子だった己を肯定し続ける聖母の慈しみ。その瞳には、まだ帰らぬ想い人の影だけ覗く。己を焼いて、それでも火だけは変わらず、そこに"在る"。



「…ああ…だから、私は"彼"に憧れたんだよ。」



 一筋の涙が火に吸い込まれ、火は燃え盛ったまま、そこで"止まった"。騎士の涙に呼応したように、帰るべきだったと悔やむように。


 なお、帰れなかったと告げるように……



「───愛してる。ずっと、待ってる。」



 再び、劫火が舞い上がる。お前の眼を覆うほど空に向けて燃え上がり、騎士の微笑む姿も掻き消して。


 ───その火は、まさに日輪だった。








 …目が覚めた時、お前はソピアーの何処かに居た。ただ、夕暮れが夜に向かう中において、街路にも建屋にも人の気は微塵にも有らず、市井は寂れて泥だけが随所に散らばっているだけ。


 その身体は酷くベタつく汗をかいていた。あるいは魘されていたのか。ただそれも次第に気に障らなくなって、やがて無意識に還元されてゆく。



 お前の意はとうに、斯様な王国の形をした吹き溜まりを差し置いて、もはや門とその先しか見ていなかった。幾ばくの猶予も求めず、立ち上がっては剣を握り、白銀の輝きが多少の煤と暗い泥を汚れているのを見た。


 剣には傷があり、汚れがあり、ただしまだ歪んではいない。折れてもいない。もう冷たさが体温のように生温いものとなって、そこに在る。



 一歩を踏み出し、一歩を過去に手向ける。

 最後の問いを抱えて、ソピアーの門へと征く。



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