第七章 第二幕 人はそれを運命と呼ぶ

――パンッ


「「ごちそうさまでした。」」


 息ぴったりで、熟年というより、若いカップルと言った方がしっくりするような感じもする。


「ふぅー。いつもより少しだけ早く起きたから、若干ゆっくりできそう。」


 綾乃は食器を片付けて、元いた椅子に戻る。


「7時から仕事って言ってたけど、何時ぐらいに家出るの?」


「いつもは6時半ぐらいには出るかな。」


 時計を見る。


――2024年6月5日06時02分


「じゃあ、あと30分もないぐらいか。」


「そうだね〜。けど、今日は慎一とゆっくり駅まで行きたいから、早めに出ようかなぁ。なんてね。」


 笑って誤魔化している綾乃。


「慎一の今日の予定は?」


「高校に行ってゴールキーパーの指導して欲しいって、政一先生に頼まれて、それで行く予定だよ。」


 俺の予定に付け足そうとするように、促してくる。


「それでそれで?」


「あとは……。」


 綾乃は期待の目をしている。


「ちゃんと覚えてるよ。18時に江北駅でしょ。」


 綾乃は満足げな顔をする。


「よく覚えてたね。」


「そりゃもちろん。あそこまでのことを忘れたらやばいでしょ。」


 これで忘れては、昨日の自分の気持ちも忘れてしまうことになる。


「まぁね。忘れられてたら、速攻で慎一のこと、家から追い出してたかも。」


「喧嘩別れはもうごめんだね。」


「そうだね。私もここ最近は喧嘩別れする人多かったし。」


 綾乃の目が翳りを見せるが、


「でも、こうして仲直りして、また一緒に話せる人もいるから結果オーライなんだけどね。」


 姿勢を正す綾乃に真っすぐと見つめられ、それにつられてこちらも背筋を伸ばす。


「喧嘩別れね…。俺は二度としたくないな。」


「人間関係って、生きてる限り続くもんね。」


 それもそうだ。2日前の自分なら、こんなことになるとは想像もしていなかったはずだ。


「一度途切れたと思っても、意外なところで線が繋がってることもあるんだな。」





――――「人はそれを”運命”って呼んだりするんだろうね。」





 その響きに心を動かされる。綾乃が頬杖をつく。


「なんかロマンチックだよね。」


 表情が恍惚としているわけではない。しかし、朝とは違う空気を浴びる。


「ええと……そろそろ準備しないとまずいんじゃない?」


 綾乃が手元の時計を見る。


「そうだね。少し余裕もって行こうか。」


――綾乃が食器を洗う。


「よし。あとは歯磨きして、荷物整えたら行くよ。」


「わかった。」


 返事をすると、綾乃は洗面台に向かう。


――今朝起きたときに書いた手紙…。まだ読まれていないはずだ。もうこれを読んでもらう意味もない。お互いの距離を縮めて楽しく過ごした朝に。こんな感傷は要らない。


 そうして近くのゴミ箱に捨てる。


――綾乃が歯磨きをしながらこちらに来る。


「あにすへはの?」


「要らない紙捨ててただけだよ。」


「しんいちもはやくじゅんひしへね。」


「いいから、綾乃は早く歯磨き終えてきなよ。」


「はいはい。」


――戻ってくる。


「よし、いくよー。」



――――――2024年6月5日06時20分43秒



「鍵もった、スマホはポケット。財布はバッグ。オッケーかな。慎一は?」


「大丈夫だよ。」


 ほぼ手ぶらで確認の必要もない。


「それで、ゴールキーパー教えに行くって言ってたけど、慎一は動けるの?」


 確かに久々で動けるかは怪しい。肩を回してみる。


「うわ…ゴリゴリいってるじゃん。四十肩?」


「いやまだ25な。」


「じゃあ二十五肩じゃん。」


「何それ。」


「今私が作った病名。症例の世界初が慎一。」


「唯一無二じゃん。」


「私に感謝しな。」


「なんでやねん。」


 朝日の昇る道路……薄く映り始める二つの陰の足取りは軽やかだ。




<<江北駅>>




「私はいつもこの次に来る特急で行ってるから、ここでいったんお別れね。」


「了解。18時にまた、ここくればいいんだよね?」


「そうそう。遅刻厳禁だから。」


 念を押される。


「わかった。綾乃こそ遅刻しないようにね。」


「私が遅刻するわけないでしょ?」


 誘導されるように口走る。


「じゃあ、もし遅刻したら?」


 綾乃は考えているふりをする。


「んー。じゃあ……私が遅刻したら、慎一のお願い1個だけ聞いてあげる。」


 つまりその逆は――


「慎一が遅刻したら私のお願い1個だけ聞いてもらうね。」


 やはり。


「で、二人とも遅刻したらお互いのお願いを1個づつ聞く。」


 綾乃が俺の口が開きかけるのを見て、畳みかけるように言う。


「でも、相手のお願いを聞かないっていうお願いは、なしね。」


 さすがにか……。


「じゃあ、二人とも遅刻しなかったら?」


――綾乃が少し残念そうな顔をして、


「お願いは聞かなくていいよ。」


――「まもなく電車が参ります。黄色点字ブロックの内側でお待ちください。」


 ホームのアナウンスが流れる。電車が入ってくる。


「わかった?」


「わかったよ。」


「約束だからね!」


 綾乃の言葉を背に受けて電車に乗る。扉が閉まる寸前――


「約束。」


 その一言が届いたかはわからない。しかし――――見送ってくれる綾乃の笑顔が、朝日のように眩しい。




―――――約30分後




 いったん家に帰らないと、サッカーの用具がないことに気づき、荷物を整理する。


「あれ、ここにしまってたはずなんだけどな……。」


 部屋の片隅にスパイクとキーパーグローブがあったはずなのだが見当たらない。


「あ、押し入れか。」


――ガチャ


 用具は意外にも整然と保管されている。


「よく考えたらキーパーグローブもスパイクも、すげぇ高かったな……。」


 それなのに、押し入れにこもらせていたのが、もったいなく感じる。


「久々にちゃんと使ってあげられる。」


 用具を丁寧にバッグに入れる。


「お前らも、今日になって掘り出されるとは思ってなかっただろうな……。」


 独り言が自分の部屋を支配する。

――しかし、その独り言は、昨日までの重苦しいものではなく、今そして未来へと続く自分自身のための、明るいものだ。


「よし、あとは水筒とタオルもって、準備完了かな。」


 久々にキッチンから取り出す水筒。大学に通っていた時も使っていた。年季が入っている。


「タオルは……。」


 あった。小学生の時のサッカークラブでもらった、U-12のマフラータオル。


「もうお前も10年以上俺の汗をふいてくれてたんだな。」


 物の一つ一つで、ここまで感情豊かに考えられるようになったのも、みんなのおかげだ。だから、それをみんなに返していくための最初の一歩として、今日、行くんだ。


「じゃあ、行こうか。」



――――――2024年6月5日08時00分29秒



 ドアノブに手をかける……。


―――過去を背負った明るい部屋を駆け出していく。

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