隣の君と1本のぬるいコーラ
功琉偉つばさ
隣の君と一本のぬるいコーラ
「付き合ってよ」
僕のもとにどこからともなく現れた彼女はいきなりそんな事を言った。運命というのは乱暴だ。なぜならこの一言で僕の人生が全く違うものに変わってしまったからだ。
◇◆◇
「この度は誠にご愁傷様です」
僕のもとにそうやっていろいろな人が挨拶をしに来る。気温は高くなってきているはずなのに、長袖のスーツでも暑さを感じない変な場所で、僕は独り佇んでいた。
親父が死んだ。
その事実は本当に受け入れられ難いものだったけど、どうしようもない、変えられない事実だった。
明日になったら死んだ親父がおはようと挨拶をするわけでも、棺桶の中から起き上がって
「よう」
と笑うわけでもない。命の巡りとはそういうものだ。だが、いかに人間はいつかは死ぬとわかっていても、脳で理解していても、本能的には唐突な変化は受け入れられるはずもなく、僕は混乱していた。
さて、状況を一回整理しよう。まとまりのない感情をただ闇雲に発散していても、収まる場所はどこにもない。
僕は小さいころからシングルファザーの親父に育てられて18年間、健康に生きてきた。
こないだも、学校から帰ってきたら、いつも通り親父は親父の仕事場所、家に隣接している診療所にいるはずだった。
でも今更後悔したって、命はもう戻ってくることはない。その日、親父は交通事故で帰らぬ人となった。いつもの往診の帰り道だったそうだ。
診療所の看護師さんたちが僕のために色々と準備してくれた。祖父母の存在なんか知らなかったし、お母さんと呼べる人はそもそも僕が産まれたと同時にこの世界から消えていた。
色々と僕は祭り上げられて、いつの間にか喪主になっていた。まあ血縁者は僕しかいないから当然だ。それに僕は1ヶ月前には成人していた。
そしてやりたいと言ってもいない大げさな葬式をやらされた。なんだか神輿に担がれて頂上の見えない山を登っているみたいだった。
僕は僕の知らないたくさんの人の前で、僕が親父に対して思ったこともないようなことをただ機械のように、原稿用紙に書かれた文字列を辿って読んでいた。しかも、その機械は今となっては古い、ただの棒読みの機械だ。
原稿用紙の中の親父は不自然にかっこよかった。多くの患者を救っただとか、この地域の医療の発展に貢献しただとか、僕が知らないようなことばかり書かれていた。そこには僕が知っている親父はいなかった。
僕が知っている親父は、僕が家に帰ると疲れた顔もせず、ビールを飲みながら豪快に笑い、患者さんの話をし、地域の高齢者の診察で軽口をたたきながら、そしてまた豪快に笑う。そして、ときに僕自身も吸い込まれそうな程に真剣な眼差しになる。そんなどこにでもいる普通の医者であり、父親だった。
僕にとって、親父はそれ以上でもそれ以下でもない。
そうして、目まぐるしく世界が動き回り、いつの間にか僕は一人になっていた。幸い、親父は金を結構持っていたらしい。どこに書いてあるかもわかんない規定や法律に従って、僕にはまあまあな金額の遺産と家と隣の診療所が残った。
ここでまあまあな金額と言ったのは、親父が雇っていた看護師6名に残りの給料を払い、相続税として国に取っていかれたからだ。
そうして親父が死んでから2週間後。僕の身はすっかり落ち着いた。ただ、今までと違うのは親父がいない。それだけだ。
「学校…… 行くか」
朝、起きて食パンにハムとチーズを乗っけて焼いたものと、ティーパックの紅茶を飲み、何も考えずにとりあえず先々週と同じように学校に行くことにした。
◇◆◇
高校生だったら、こんなとき年相応に、泣いて、泣いて、泣き潰れて学校に行けない人もいるはずだろう。でも、そんなの僕の性に合わない。だって、脳では親父が死ぬことは自然の摂理だって理解しているし、自分の体がまだ興奮状態に入っていることだってわかっている。
それでも、あまりも大変だった1週間を振り返ってみて、大人しく学校に行ったほうが僕の心も休まると思った。
でも、現実は違った。そう、僕は忘れていたんだ。僕には友達と呼べる友達がいないことを。
いつもと同じように何食わぬ顔で教室に着くと、僕の席は何も変わらずに主人を待っていた。
サイド黒板には僕の名前の磁石が欠席のところに、(忌引)と横に添えられて申し訳なさそうに鎮座していた。
欠席のところから磁石を動かし、自分の席に座った。そしていつものように数学の積分の問題集を出して頭の体操をする。
数学の先生曰く、
「毎朝積分体操をすると地頭がよくなる」
らしい。そうして∫1/(x^3-x)dxに頭を悩ませていると、どんどん人が入ってきた。でも、先週と変わらない僕の様子に誰も話しかてくる人はいなかった。
まあ、集中してたら話しかけづらいんだろうけどね。
その後もいつも通り授業が始まり、学校が終わって放課後となった。僕はついこの前まで図書局に入っていたが、3年生になってから引退した。だから放課後は特にやることがなかった。
強いて言うなら受験生なので勉強だ。でも、
「なんか勉強嫌だなぁ」
僕は正体のわからない、わかりたくない憂鬱に襲われ、手持ち無沙汰な状態で塾もサボって学校の近くの河川敷を歩いていた。
近くで河のせせらぎが聞こえる。大きな水の塊がたった一つの物理法則に則って流れていく。この地球の大きな質量エネルギーがこんなにも淀みのない空間を作り出している。
遊水公園のベンチ目で降りていき、思いリュックをとなりに下ろしてただぼーっと大きな水の塊を眺めていた。ここにあるこんな大きな水の塊もこの地球からしたら本当にちっぽけなものでしか無い。そう考えると、今の自分の状況も重なり、ますます動くことができなかった。
そうして日が落ちてきた頃、僕は今日初めて人の気配を感じた。振り返って見ると、そこには僕と同じ高校の制服を着た女の子がいた。
「ここ座っていい? 」
女の子がそう話しかけてきた。
「どうぞ」
特に断る理由もないのでリュックを自分側に寄せてスペースを開けてあげた。
「ありがとう」
隣りに座ってきた彼女はまっすぐ、河を眺めながら持ってきていたらしいコーラを、さも美味しそうに飲んでいた。
僕もコーラをなんだか飲みたくなってきた。
いきなり話しかけてきた女の子を見ていると、河の流れに沿って吹く、少し冷たい風に髪が揺れ、夕日が頬を照らしていた。その様子になんだか見とれてしまった。
「なに? どうしたの? 」
視線に気づかれてしまった。なんだか申し訳ない。
「いや、なんでもないよ」
「そう」
それだけいうと、そこから20分ほど、日が沈んでくるまでぼーっと河を眺めていた。
「ねえ、明日もここに来ていい? 」
「いいけど…… 」
別に僕に聞くことじゃないんじゃないかな? と、言いかけたけど、その前に
「やった! じゃあ、また明日ね」
と彼女は言ってリュックを背負って帰っていった。
「また明日って⋯⋯ 何だったんだろう…… 」
嵐のように彼女が去っていたあと、僕はただ一人残され、時間も結構経っていたので帰ることにした。
◇◆◇
翌日、いつもと同じように起き、昨日と同じように学校へ向かう。でもやっぱり、体は唐突な変化には対応できていなかった。
やけに空気清浄機の音が大きく聞こえる、やけにトースターの音が大きく聞こえる。やけにスズメのさえずりが大きく聞こえる。
部屋は広く感じ、音は大きく聞こえる。やっぱり、脳でいろいろなことを理解はしているけれどまだ落とし込むことはできていない。
とりあえず、まだ落ち着かない自分をおいておいて、理性で行動して学校へ行く。
昨日の今日だから別になにかがあるわけでもなく、先生になにか言われるわけでもなく、どんどん授業が進んでいった。
今日は久しぶりの化学で、いつの間にか有機化合物の範囲に入っていてついていけなかった。だからと言って、気軽にノートを貸してくれる友だちがいるわけでもなく、僕は1日中化学の教科書とにらめっこしていた。
新しいことはいつも僕を混乱させる。いままでこれで全てだと思っていたところに新しい理論を持ってこられても、すぐには対応できないんだ。
そんな些細な日常はさておき、放課後、昨日と同じように僕は河川敷のベンチへと向かった。同じ場所に、同じ時間に。塾はちょうど休みだったので、なんの心置きもなく。足が勝手に動いていった。
彼女のまた明日、という言葉のせいかもしれないが、僕の心の中は昨日よりもいくらか楽だった。
学校から出て放課後の喧騒から抜け出し、僕は真っ直ぐ、しっかりと意図を持って河へと向かった。
昨日よりもなんだか周りの景色が見えているようで、近くに商店があるのが見えたり、自販機があるのが見えた。何処かに遊びに行くのか、小学生らしき子たちが自転車で駆け抜けていく様子も見えた。
そして約束のベンチへつくと、僕はまた真っ直ぐ河を眺めた。キラキラと水面が太陽の光を反射している。ここを見ていると、僕の悩みなんて、ちっぽけなもののように思えてきた。毎日何万人ものの人が死んで、何万人ものの人が生まれる。そんなものなのだ。
「ど〜ん! 」
そう真っ直ぐ眺めていると、後ろからペットボトルが飛んできた。
「痛っ」
「へへへ、昨日ぶり」
そこには、やはり、昨日会った女の子がいた。昨日と同じ制服、そして右手にはコーラ。
「隣いいよね」
「うん、」
そう答える前に、彼女は当たり前のようにすっと、隣りに座った。そしてプシュッとコーラのキャップを開けた。
「昨日もコーラ飲んでたけど好きなの? 」
「うん、体には悪いかもしれないけど好き」
そう話しながら昨日と同じように河を眺める彼女はやっぱり不思議な雰囲気を纏っていた。そういえば⋯⋯
「そういえばまだ名前言ってなかったね」
と、彼女の方から僕の疑問に答えてくれた。
「うん、僕は
「私は
「あれ? 同じ高校だよね? 」
「うん。同じ制服でしょ」
「じゃあ、何組? 僕は1組だけど⋯⋯」
「私は8組だよ」
そっか、1組と8組だったら教室が遠いから接点があんまりない。それに、僕は同級生320人中その3分の1も名前を知らない。唐牛で3年間で同じクラスになったことのある人くらいだ。同じクラスだとしても僕は人とあまり話さないタイプなので認識できていない人のほうが多いかもしれない。
「そうなんだ」
「ねぇ、大河くんはなんでここにいたの? 私は放課後ここを散歩してるんだけど⋯⋯」
「なんか、昨日河を見たくなって、来たんだ」
それから僕は最近のいろいろな出来事を話した。不思議と、橘さんだと、自然と言葉が出てきた。
「そっか。大河くんは、頑張ってたんだね」
「そんな、頑張ったってほどじゃないよ」
「う〜ん、あのさ、」
橘さんは、少しためらってこう言った。
「なに? 」
「付き合ってよ」
「え? 」
待った。僕の脳は一瞬で停止してしまった。
「なんでまた、そんないきなり⋯⋯ 」
「だって、大河くんには今、隣に一緒にいる人が必要。お父さんも、お母さんも、友達もいないなら私が隣りにいるしかないじゃん」
なんだかよくわからない理屈なんだが⋯⋯
「だからっていきなり、付き合うってのは⋯⋯ 」
僕は生まれてこの方、恋愛はしてきたことがないはずだ。幼稚園の頃になんか会ったかもしれないけど、覚えている範囲では今まで人を好きになったことも、好かれたこともない。
「もう、これ以上言わせないでよ! 」
橘さんは顔を真っ赤にして言ってきた。
「だから、付き合おうって。別に、悪いことじゃないでしょ。会って2日しか経ってないけど、あなたなら信頼できる気がするの。だから、どう? お試しでも⋯⋯ 」
恋愛にお試しってなんだ? と思いながらも、真剣に僕の目を見て話してくれる橘さんに押されて、OKをだした。
「よし! ねぇ、明日ってなんか用事ある? 」
「明日って、学校じゃなかったっけ? 」
「何言ってるの? 明日は土曜日よ」
そっか、曜日感覚がおかしくなっていた。
「じゃあ、塾かな。夜から」
「夜なのね。じゃあ午前中は暇でしょ」
「うん」
「じゃあ決まりね。明日は私とデートしよう! 」
◇◆◇
翌日、午前8時50分。僕は見慣れない駅に来ていた。なんでこうなったかは未だに僕の理性は理解できていないようだ。でも、約束は約束だ。
ここは家から一番近い電車の駅だ。ここに9時に橘さんと約束している。
「お待たせ! 」
僕が駅に着くとすぐに橘さんがやってきた。デニムのショートパンツにTシャツ、という服装で、眩しい笑顔を振りまいてやってきた。
僕が見たことないくらい明るい笑顔だった。
対する僕はジーパンに無地のTシャツといった格好だ。いつも制服しか着ないので普段着はあまり持っていない。なんだか場違いな気がして、ソワソワする。
「よし、じゃあ行こっか」
橘さんはとても楽しそうに駅の方へと向かった。
「ほら、置いて行っちゃうよ! 」
そうして僕はすごい久しぶりに電車に乗った。ICカードは持っていたものの、使い方がわからず、橘さんにチャージしてもらうという醜態を見せてしまった。
どこが何番線で、どこに行くのかもわかっていなかった。どれだけ社会から離れていたか思い知らされた。
いや、学校には行っていたから社会から取り残されているわけではないのか。まあいい。
「こっちだよ」
子ガモのように橘さんの後ろについて進んでいった。
20分くらい電車に揺られて、なんだか大きな駅に着いた⋯⋯ 流石に駅の名前は知っていたが、来たことはなかった。親父との生活圏も家の周りから動くことはなかった。
普通に生きていたら経験したことがないような人数の人に揉まれながらも僕は必死に橘さんについて行った。
「いったいどこに向かってるの? 」
「ふふふ、秘密! 」
そしてエレベーターを何回も登った先には今までの階より暗い場所についた。
「ここは⋯⋯ 」
「じゃ〜ん、映画館! デートって言ったらやっぱり映画でしょ! 私、見たい映画があるんだけどいい? 」
いいも何も、僕は映画なんて全く見たことがない。たまに金曜ロードショーで興味がありそうなのを見るだけだ。
「いいよ」
初めて? いや、小学生の頃に一回くらい親父とスーパーヒーロものの映画を見たことがあったかもしれない。でも、ほとんど記憶にない。
「やった! じゃあ、これなんだ。実は、いいっていってくれると思って、ちょうど映画がやっている時間に来れるようにしました! 」
そして橘さんは券売機の方に行って、これの映画だと、指を指した。
内容を見てみると、恋愛系なのかと思っていたら、ぜんぜん違う、アクション系だった。しかも、多分、僕がCMで見たことあるやつだ。
「あっ、知ってるかも」
「本当!? じゃあ、結構楽しめるかもね! すごく有名なやつだからきっと面白いよ」
そうして、僕は橘さんに1000円札を渡して、チケットも買ってもらった。こんなに便利な機械があるんだ⋯⋯ そんな事を言っていたら、
「もう、おじいちゃんみたいだよ。しっかり使えるようにならないとね」
と、言われてしまった。
そして、負けじと、ポップコーンとジュースは僕が注文し、(もちろん、対人の場所だったら大丈夫だ)映画を見ることになった。
ポップコーンはお財布にも優しい、ペアセットを買った。2種類の味を食べれて、しかもジュースが2つつく。橘さんが塩とキャラメルで迷っていたので、これにした。
ポップコーンとジュース⋯⋯ 僕はメロンソーダで、橘さんはもちろんコーラ。を2人分持って、橘さんに席に案内してもらう。そして席に座り人心地着く。
隣には昨日いきなり彼女になった? でいいのか? がスクリーンに映っている宣伝を見ながらもしゃもしゃとポップコーンを食べていた。まあいいか。細かいことは考えないで。今を楽しもう。
そして始まった映画は確かに名作だった。アクションもCGが多すぎたりしなかったし、色々疎い僕でも内容がしっかりとわかった。
◇◆◇
「面白かったね! 」
映画が終わり、伸びをしながら橘さんはそういった。眼の前のポップコーンはいつのまにか空になっていた。
その後、また僕は橘さんに付いて行って、カフェに入った。なんでも、映画の感想戦をするらしい。
僕はブラックコーヒー、橘さんはカフェラテを頼んで、席についた。
「橘さんって、よく映画見に来てるの? 」
「うんん、久しぶりだよ。3年生になってからは初めてかな。どうして? 」
「いや、色々と慣れてるな〜って」
「いや、一回来たら覚えるよ」
「そう? 」
そこからは他愛のない話をいっぱいした。なんだか、話していくうちに僕の心にかかっていたドアの鍵が解けて行くような気分だった。
「あ〜あ、楽しかったね!」
「うん、思った以上に映画も良かった」
「でしょ〜」
「あっ、そろそろ塾だからこれで」
「うん、じゃあね! 」
「そうだ」
帰り際に、危うく忘れるところだった連絡先を交換して、僕は塾へ、橘さんは家へ帰っていった。
◇◆◇ 日曜日を勉強をして過ごして月曜日。学校に行くと、
「明日から夏休みです。夏休みは受験生にとっての天王山。しっかりと勉強してください」
と言われた。そうだ。いつの間にか夏休みだ。そういえば親父がなくなったのは7月の頭だった。
夏休みか⋯⋯ 塾の夏期講習に行って、勉強してって感じかな⋯⋯
そうして放課後、先週のように河川敷に行こうとすると、先生に呼び止められた。
「河野君、ちょっといいか」
「はい。大丈夫です」
「伸ばしていてできなかった面談をと思ってね」
そして僕は職員室につれていかれた。
「君のお父さんのことは残念だった。あれから大丈夫かい? 生活の方は」
「もともと家事はやってたんで大丈夫ですよ。成人になってるんでしっかりとクレジットカードも使えますし、収入はないですけど、親父が遺してくれた遺産が結構あるんで」
「志望校はどうだ? 医学部だったよな。経済状況からも私立は大変だろうが、奨学金がもらえるから大丈夫だと思うが」
「第1志望校は変えないで、国立大学の医学部で行こうと思います。幸い、自分ひとりなんで、お金はどうとでもなります」
「そうか。困ったら遠慮なく言うんだぞ。相談に乗るからな」
◇◆◇
僕は橘さんといつものベンチで待ち合わせしていた。
「ごめん、遅くなった。先生が面談やるっていきなり言ってきて⋯⋯ 」
あの後、勉強の話などを結構長く聞かれた。まあ、親父が最近死んだってのが原因だな。自分の行動や未来には自分で責任を持っていかないといけない。そう言えば、6月に18歳の誕生日を迎えたときに、親父は、
「もう18だろ? 俺がいなくても大河は賢いから行きていけるな! 」
と笑っていた。その時は縁起でもないことを言わないでほしいと思っていたが、本当になってしまったのはもうしょうがない。感情は脇に置いて、生きていくしかないんだ。
「全然大丈夫だよ」
こないだと同じように二人で並んで夕日が反射している河を見る。もちろん、僕と橘さんの間には一本のコーラ。
「そう言えば明日から夏休みだったんだね」
「そうだよ。って⋯⋯ 知らなかったの!? 」
「うん。忙しすぎてそれどころじゃなかったから」
「そっか⋯⋯ じゃあさ、また土曜日みたいにデートしよ。あと、勉強ってできる? 数学とか⋯⋯ 」
「いいよ。勉強は得意ってほどじゃないけど⋯⋯ 」
「じゃあさ、勉強教えて! お願い! 絶対に夏休みの宿題というか、受験勉強終わんない! 」
「別に、いいよ」
「本当に!? 」
「うん、勉強以外に特にやることないから」
「やった! じゃあ、明日から、図書館でいい? 」
「いいよ。僕の塾が5時からあるから、そこまでしかできないけど」
「全然大丈夫! 本当に助かる。じゃあ明日9時から図書館でね! 」
◇◆◇
翌日から僕達は一緒に勉強した。図書館の自習室には僕達以外誰もいなくて、ゆっくりと勉強できた。
眼の前にはついこないだできたばっかりの彼女。橘さんは何だかもっと昔から知っているような気がした。でも、こないだ会ったのが初めてのはずだ。
エアコンの効きが弱い図書館の自習室で、セミの元気な声を聞きながら、時間が過ぎていく。
暑いし、ジメジメしているし、全然いい環境ではなかったけれど、不思議と集中できた。
「あっ、コーラ⋯⋯ 」
夏休みも終盤に差し掛かったある日、図書館からの帰り道、橘さんは自販機をみついけて、そういった。
「飲む? 」
「そう言えば私財布忘れたんだった⋯⋯ 」
「いいよ、ちょうど僕も飲みたかったし」
「ありがと」
そして近くにあった公園のベンチに座ってコーラを飲む。今日がとても暑い日だったからか、買ったコーラはぬるかった。
「うわっ、全然冷たくない⋯⋯ でも、美味しいね」
「そうだね」
久しぶりに飲んだコーラのシュワシュワと喉の奥で弾ける炭酸が、心地良い。
「今日は塾休みだから、夜まで居れるよ」
「やった! うちは門限ないから大丈夫だし、彼氏と勉強してるって言ってるから大丈夫。こないだのテストで、自己採点結果結構良かったもんね! 」
まだ、橘さんに彼氏と呼ばれるのはなれない。僕はまだ下の名前を呼ぶ勇気もないんだ。
生ぬるいコーラを挟んで二人、段々と暗くなっていく空に目を向けていた。
「そっか、もうお盆だもんね」
ぽつんと、橘さんはそういった。
「だから塾も休みなのか。お盆休みか⋯⋯ 親父と⋯⋯お袋の墓参りしないとな」
「それはしっかりしないとだめだよ! あと、できたら私も連れて行ってね」
「そんな、楽しいところじゃないよ」
「いいの。大河くんの彼女ですって、報告しないとね」
僕らはしっかりと付き合えているのだろうか。でも、こんなに可愛いと思える橘さんの隣だったらいつまでも居れる。
夏でも、なんでもいい。とりあえずなんかのせいにして、このまま夜がふけるまで一緒にいたいなぁ。
まあ、橘さんは橘さんで9時までという門限があるらしいから無理だけど。
◇◆◇
そして残りの夏休みは一瞬で過ぎ去っていった。週に1回。何処かに出かけて、それ以外は勉強。そういう1ヶ月だった。
でも、夏休みが終わりに近づいたところで、僕たちの関係に異変が起きた。ずっと続くと思っていた日常は、そんな簡単なものではなかった。
◇◆◇
「ごめんね。ちゃんと戻ってくるから」
当たり前のように次の日も一緒に図書館で勉強するものだと思っていたけど、それは幻想に過ぎなかった。
朝、家を出ようとすると、ドアの前に便箋と一本のコーラがあった。結露で濡れている一本のコーラがやけに非日常の風景に見えた。
僕は急いで電話を開いた。でも、連絡先は消えていた。昨日まで橘朱音と書いてあった場所はUnknownになっていた。
「どういうことだ? どうしたんだろう? 」
僕はとりあえず図書館まで走っていった。でも、橘さんはいなかった。太陽が僕を照りつけるなか、僕はなりふり構わず走った。
二人で図書館帰りに一緒に寄ったカフェ。一緒に昼ご飯を食べたファミレス。そんなところにはいない。そうわかっていたけれども、いても立ってもいられなかった。
ただ、前を見て、ひたすら走る。足が痛い。乾いた喉に血の味がする。でも、そんなの関係なかった。僕は好きになっていたんだ。橘さんのことが⋯⋯ 朱音のことが。
大切なものはいつもなくなってから気づくものだ。親父の時のそうだったような気がする。それにそれが気持ちだとしたら⋯⋯ 恋の気持ちだとしたらそれはなおさらだ。
僕はいつの間にかあのベンチに来ていた。彼女と出会ったあのベンチ。大きな水の塊の前に佇んでいるベンチ。日はもう高く昇っていた。
「やっぱりいないか⋯⋯ 」
電話をかけても、この電話番号はもう使われていないと、幹室な音声が響くだけだった。
僕は河をじっと眺め、焦燥と不安に壊れそうになりながら、どうしようもなくなって帰ることにした。
◇◆◇
当たり前が当たり前じゃなくなるとき、明日も変わらぬ毎日が来ると思っていたけど、それが打ち砕かれたとき人は絶望を感じる。
それからの夏休みは呆然とただ過ごしていた。特に意味も見いだせず、ただできること、勉強だけをする毎日。
他に何も考えられない毎日。会話もなければ娯楽もない。ただ過ぎていく毎日。
僕は朱音に、たったあの一言だけでこんなにも僕を、僕の人生を変えられてしまったのだと実感した。
学校が始まってもあまり変わらなかった。朱音といる毎日は不確かな毎日だった。あのときは何でもできる気がした。いつもは解かないような問題も朱音にカッコつけて解いたりしたときもあった。
でも、明日は、何が起きるのかもすべて予測できてしまう、面白みのない日々だった。
朝起きて、顔を洗って、適当にご飯を食べて、いってきますを言う相手もいなく、一人で学校に向かう。学校でも特に誰とも喋らずに勉強、昼は一人で購買のパンを食べて、放課後は何も考えずに塾へ直行。塾が閉まるギリギリまで勉強して、まっすぐ家に帰って寝る。
そんな毎日だった。
「⋯⋯で、志望校はここでいいんだな? 」
ある日、いつの間にか秋になり寒くなってきていた頃、僕は志望校を決めるようにしていた。
「はい」
僕は機械のようにただ言われた質問に答えていった。国公立大学医学部⋯⋯ 親父が卒業した大学に僕は行こうとしていた。なにか、深い意味があるわけじゃない。ただ、なんか導かれているような気がした。それだけだ。
「まあ、成績は大丈夫そうだから、あとは頑張れよ。生活の方は大丈夫か? 」
「特に困ってません」
「よし、じゃあ、後は頑張れよ」
そして秋になり、冬になって出願をして、1月になり共通テストを受けた。
会場は受ける予定の大学。特に何も考えることもなく、淡々と問題を解いていく。そのたびに、朱音と過ごしたあの日々が蘇ってきてしまう。
ああ、この問題、あの時解いたな⋯⋯ これはあの時、質問されたやつだ⋯⋯
なんだか涙が出てきそうになるが、そんな余裕はない。
共通テストも無事に切り抜け、2次試験の日がやってきた。
なにも代わり映えのない毎日は1ヶ月だろうが、一瞬で過ぎていった。
そして、面接が終わり、合格発表まで僕はやることがなくなってしまった。
◇◆◇
学校に卒業の準備をしに行き、そう言えばと思って、8組の名簿を確認した。不思議なことに、僕は一回も同じ学校で朱音の名前を聞いたことがなかったのだ。
僕は不思議に思って、先生に聞いてみた。すると、
「橘さんは去年転校したよ。なんでも家族のご都合で海外に転勤だとか⋯⋯ それでも、なんで今さらそんなことを聞くのかい? 」
8組のおじいさん先生がそう答えてくれた。
嘘だ。あの時の朱音はちゃんと居た。そんな幽霊だったとか、そういうファンタジーの話じゃないはずだ。もしかしたら、日本に帰ってきていただけかもしれない⋯⋯
その日の夕方、雪の積もっている中僕は一人、ベンチに座っていた。手元にはあの日、朱音が手紙と一緒に置いていったコーラ。(賞味期限は切れていないから大丈夫だ)
それに、あの時からコーラを飲んでいないことに気づいて、僕の中の時間が止まっていたことにびっくりした。
プシュッ
キャップを開けると、小気味よい爽やかな音がなる。そして一気に飲む。
「ぷはぁ」
あの時みたいにぬるくない。すごく冷たいコーラだった。
「うまい⋯⋯ 」
何も考えずに、そう口に出していた。この隣に朱音が居たら良いのに⋯⋯
ベンチの隣に置いたコーラと、その奥の席がすごく遠く感じた。あの日、親父が死んで空っぽになった僕の隣に居たのは君と、この一本のコーラ。
「朱音。いまどこにいるんだい⋯⋯ 」
見上げた空は嫌になるくらいどこまでも透き通っていた。
◇◆◇
大学はしっかりと合格していた。嬉しいは嬉しいけど、朱音がいない中、誰も一緒に喜んでくれる人はだれもいなかった。
それから、また環境は変わったが、味気のない日が来てしまった。と思っていた。
「ドーン! えへへ、コーラ飲む? 」
ある春の日、僕は大学の帰りにいつものベンチに座っていた。すると、後ろから硬いペットボトルが飛んできた。
「痛っ。って⋯⋯ 朱音? 」
「ふふふ、久しぶりに会って、いきなり呼び捨てになるか〜 」
そこに立っているのはあの日、「付き合って」と初対面の僕まさに、この場所で言った、あの朱音が居た。
「本当に⋯⋯ 朱音? 橘朱音なのか? 」
「そうだよ。大河くん。いや、大河」
「一体今までどこに⋯⋯ 」
「もう、そんなに焦らないで、後で全部話してあげるから。これでも飲んで」
眼の前に僕の頭を叩いたコーラを突きつけられた。
「わかった」
吹きこぼれないように慎重に蓋を開けてコーラを飲む。
「ぬるい⋯⋯ 」
そう言ったら、なんだか今までのこともひっくるめて、全部おかしくなって二人で笑ってしまった。
「だって、あったかくなってきたんだもん」
そうして、朱音は僕の隣に静かに座った。
「待っててくれてありがと」
「どういたしまして」
僕の隣には好きになった君と、ぬるいコーラ。ただそれだけなのに、この場所ははこんなにも幸せな空間になっていた。
いつ変わるかわからない毎日を、僕達はこの先も生きていかないといけない。それなら少しでも君のそばでこの景色を見て、コーラでも飲んで自分なりに恋の味を決めておこう。
◇◆◇
ねぇ、私がいないあいだどうしての?
どうしてたって⋯⋯ ずっと勉強してたよ。ちゃんと大学もうかったんだから。
寂しくなかったの?
いや、寂しかったけど、なんか、色々と考えれなくなってた。
ごめんね。
大丈夫。今こうやってここにいてくれるから⋯⋯ もう、急に消えたりしないでね
大丈夫。いつまでもそばにいるよ。
隣の君と1本のぬるいコーラ 功琉偉つばさ @Wing961
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