ニクティリスは月を知らず

 神々が創造した楽園――ユピラディア。

 そこは苦しみも、争いも、貧しさも知らぬ、祝福された世界だった。

 日が昇れば木々は輝き、天気を司る神、ネフレオスが気まぐれに涙を世界に落とせば恵みの雨となり作物は豊に実る。赤子が生まれれば生命を司る神、ゾイオスに感謝の祈りを捧げ、名を授かり、その肉体が朽ちれば魂は星になり、天上へ登ってゆく。神々が創りしこの美しき世界で人々は穏やかに暮らし、神々はそれを見守っていた。


 その楽園の片隅に、同じ時に生まれ、同じ時を過ごす二人の男女がいた。

 名をリュカオンとミリア。平民の身分である二人は野に咲く花を、夜空に輝く星空の美しさを愛で、穏やかに楽園で暮らしていた。栗毛のくせ毛に黒い瞳の平凡な容姿をしたリュカオン。対してミリアはそよ風が吹けば靡く金糸の長い髪にサファイアの様な澄んだ青い瞳をしていた。対照的な容姿をした二人が常に共に行動をしている様は周囲の人間から見てなぜあの二人が共にいるのだろうと疑問を抱いていたが二人はそんな周りの疑問に見向きもせず今日も世界樹の木の下で初夏の爽やかな風を感じていた——。


「どうした?ミリア?気分が優れないのなら戻って休めばいいのに」

「ええ、体調は悪くないわ。ただ……」


 リュカオンの畑仕事をミリアが傍で見守っていたときのことだった。この所、朗らかに微笑むミリアは時折、何か物思いに耽ることが多くなった。共に過ごす仲だ。リュカオンがミリアのその顔に気がつかないはずがなかった。


「どうしたんだい?俺にも話辛いことなのかい?」

「そんなことは無いわ。でも、リュカオン、貴方に言ってもいいことなのか……」


 リュカオンは畦道に座るミリアの隣に座りミリアの華奢で白く透き通った左手に自身の右手を被せた。


「君が話せるまで待つよ。だから抱え込まないで」

「ありがとう、あのね、フィロクレス様の従者が何度も尋ねてくるの」

「フィロクレスが?何で平民であるミリアの元に?」


 二人は平凡なただの平民であった。そんなミリアの元にフィロクレスの従者が何度もやってくるなんてありえないことだった。楽園の暴君とまで呼ばれる悪名高い王が平民に見向きなどしないのが常だ。


「……私を妃に迎え入れたいって」


 リュカオンは小さく息を吸い込んだ。美しい美貌のミリアだ。誰が見ても伴侶に欲しいと思うだろう。しかし、寄りにもよって暴君と呼ばれるフィロクレスだ。彼の伴侶になればどんな目に遭うかどうか想像に難くない。


「君は、受けるのかい。その求婚を——」


 乾いた唇でなんとか紡いだ声。それを聞いたミリアは力なく首を横に振った。


「あの方の妃になんてなれないわ」


 リュカオンはミリアのその返事に小さく溜息をついた。これからもミリアと一緒にいることができる。リュカオンにとってミリアと共に過ごすことが生活の一部なのだ。


「ねえ、リュカオン。新月の日に、ニクティリスの花を見に行かない?」

「ああ、もうそんな時期だね」


 ミリアの憂いたその顔をリュカオンは見ぬ振りをした。

 

「見に行こう。今年も君とニクティリスの花を」

「ええ。約束よ」


 巡る季節にまた二人であの花を見ることができる喜びを感じつつ新月の日まで二人はいつもと変わらぬ生活をしていた——。


 ある日のことだった。それは太陽の神、へリオナスが微笑むような爽やかな日差しが射し、心地良い風の吹く昼下がりのことだった。ミリアの元へ従者がやってきたのだ。二人がニクティリスの花を見る約束をしたあの日から数えて三度目のことだった。一度目は光り輝く白金の指輪を、二度目は何色にも染まらぬ純白の花嫁衣裳を携えて従者はミリアの元へやってきた。しかし、ミリアの返事はフィロクレスの求婚を受けることは無かった。


「ミリア殿、今日こそはこの申し出を受けてもらいます」

「従者様、何度来られようとも私はフィロクレス様の申し出を受けることは無いのです」

「では、これを」


 どうか、お引き取りをと続けようとしたミリアの言葉は従者が懐から取り出したそれによって彼女の口からは出ることは無かった。炎と双剣が施され蝋で封をされたそれは正しくフィロクレスからの文だったのだ。従者の手からミリアの白く細い手に渡りそっと蝋を解き開かれたそこに書かれた文章にミリアは小さく引き攣った悲鳴を上げた。文にはミリアの美貌を賛美する言葉と求婚の言葉。ありきたりな恋文だ。しかし、それは異様であった。赤黒い色と咽返るような錆びた臭い。フィロクレスが自身の血で書いた物だと想像に難くなかった。

 血で書かれた文、それはミリアを手に入れるならフィロクレスがどんな手でも汚すという歪んだ願望の証だった。それは決して誓いではない。あの男の醜く冷たい宣告だった。


「……また、参ります。その時は色好い返事を」


 手紙を投げ出し、震えるミリアを置いて従者は去っていった。


「どうして、神様……」


 悲痛を絞り出したミリアの声は神の身許へ届くことは無かった——。

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