第9章 ガラクタの神様
七月に入り、街は、巨大な蒸し器の中に入れられたかのように、じっとりとした熱気に満たされていた。羽依里は、大学の講義室の窓から、陽炎に揺れる景色を眺めていた。教授の声は、催眠術のように遠く、彼女の意識は、もっと別の場所にあった。
クラスメイトたちの、何気ない仕草。願掛けのように、決まった色のペンだけを使う友人。プレゼンの前に、指輪にそっとキスをする先輩。停電の夜以来、彼女の世界は、秘密の記号と、個人的な儀式で満ち溢れていた。誰もが、自分だけの神様を、ポケットの中に、あるいは心の奥底に、隠し持っている。
もっと、知りたかった。この奇妙で、哀しくて、どこか愛おしい生態系のことを。その答えを知っている人物を、彼女は一人しか知らなかった。
その日の夕方、羽依里は、再びあの雑居ビルの前に立っていた。今度はもう、迷いはなかった。ドアを開けると、伽羅の香りと、寺嶋の、全てを見通すような優しい笑顔が、彼女を迎えた。
「あら、おかえりなさい。今日は、迷子の顔はしていないわね。どちらかというと、答えを探しに来た、哲学者の顔かしら」
羽依里は、カウンター席に座ると、まっすぐに寺嶋の目を見た。
「教えてください。どうして、この街はこうなんですか? 私も、江莉も、城戸さんも、カフェで会った人も、みんな……。あなたが言っていた『集団ヒステリー』って、一体何なんですか?」
寺嶋は、ゆっくりとグラスを磨きながら、ふう、と長い息を吐いた。
「難しい質問ねえ。……まあ、単純な話よ。神様が、死んじゃったから」
その言葉は、あまりに唐突で、芝居がかってさえいた。
「昔はね、もっと大きな、みんなが共有できる物語があったの。神様とか、仏様とか、国家とか、家族とか。良い悪いは別にして、人々は、自分より大きな何かに、自分の人生を預けることができた。でも、今はどう? そういうものは、みんな、力を失ってしまった」
寺嶋は、磨き上げたグラスを、照明にかざした。
「でもね、祈りたい、って気持ちだけは、なくならなかったのよ。だから人々は、新しい神様を探し始めた。どこに? 自分の手の届く、身近な場所に。道端に落ちてる石ころ、錆びた釘、使い捨てのライター、データの欠片。そう、ガラクタよ。人々は、ガラクタで、自分だけの小さな、手作りの神様をでっち上げたの。だって、どんなにちっぽけでも、自分だけの神様がいてくれる方が、何の神様もいないより、ずっとマシでしょう?」
羽依里は、息をのんで聞いていた。
「特に、この川崎という街はね」と寺嶋は続けた。「常に、古いものが壊され、新しいものが建てられていく。自分の記憶が、街ごと上書きされていくような、不安の土地なの。だから、人々は、変わらない『何か』に、必死にしがみつこうとする。たとえそれが、他人から見れば、何の価値もないガラク
タだったとしてもね」
その時だった。
カラン、とドアベルが、場違いに乾いた音を立てた。入ってきたのは、この店の、柔らかく曖昧な空気とは、完全に異質な男だった。堅い生地のスーツに、鋭い眼光。現実そのものが、スーツを着て歩いているような男。
間宮文彦だった。
彼の、値踏みをするような視線が、店内をゆっくりと舐めるように動く。カウンターに座る羽依里を見て、眉をひそめた。また、あの手の人間か、とその目が語っていた。そして、彼の視線は、カウンターの内の寺嶋に、ぴたりと固定された。ここが、害虫どもの巣の、中心か、と。
店の空気が、張り詰めた。寺嶋の顔から、いつもの、からかうような笑みが消え、その代わりに、深い、底なしの疲労と、そして、硬質な鋼のような何かが、その瞳の奥に浮かんだ。
この店の主と、現実の番人。
この街の、相容れない二つの極が、静かに、対峙した。
やがて、間宮が、重い口を開いた。その声は、彼の揺るぎない正しさと同じくらい、冷たく、硬質だった。
「オーナーの方と、少し、お話をさせていただきたい」
寺嶋は、ゆっくりと、しかし完璧な笑みを作って、それに答えた。
「あら、怖いお顔。ええ、もちろんですよ、お客様。ご注文は、何になさいますか?」
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