第4章 ディーラーを探して

あの日、寺嶋のバーを出てから、城戸寛の世界は色褪せて見えた。彼を支えていた、万能感という名の骨格が、音を立てて砕けてしまったからだ。


アイテムを「食べる」ことも、「装備」することも、もはや彼に何の興奮ももたらさなかった。それは、答えを知ってしまった手品を、繰り返し見せられているような退屈さだった。寺嶋の言葉が、呪いのように頭にこびりついている。『あなたは、ただ、今の自分じゃない何かになりたいだけ』。その通りだった。そして、その「何か」になるための手段を、彼は失ってしまった。


日曜の夜、彼は溝の口の、二十四時間営業のゲームセンターの片隅で、ただぼんやりとクレーンゲームの動きを眺めていた。煙草の煙と、電子音が混じり合った淀んだ空気の中で、彼の時間は止まっていた。


「あれ、城戸じゃん。何してんの、こんなとこで。世界の真理でも見つかった?」


背後から、弾けるような声がした。振り返ると、出村璃子(でむら りこ)が、面白そうに彼を覗き込んでいた。派手な色合いのスカジャンを羽織り、その瞳は、常に何か面白いことを探している猫のように、きらきらと輝いている。彼女もまた、この世界の「法則」を、スリリングな遊びとして楽しんでいる側の人間だ。


「……別に。暇つぶし」


「ふうん? あんたが暇なんて、珍しいじゃん。新しい味のガラクタでも見つからなくて、スランプってとこ?」


璃子の言葉は、的確に彼の痛いところを突いた。城戸は、苛立ちを隠しもせずに舌打ちする。


「遊びは終わりだ。もう飽きた」


「えー、つまんないの。あんたが一番、このクソみたいなゲーム、楽しんでたじゃない」


「だから、もうプレイヤーでいるのはやめにした」城戸は、立ち上がると、璃子の目をまっすぐに見据えた。そして、自分でも予期していなかった言葉が、口から滑り出た。「これからは、ディーラーを探す」


その言葉は、彼自身が今、この瞬間に作り出した、新しい「ゲーム」だった。退屈から逃れるための、苦し紛れの宣言。


だが、璃子の目は、城戸の予想以上に輝きを増した。


「ディーラー? 面白そう! この街の、ヘンテコなルールの元締めってこと? あんた、本気でそんなのがいると思ってんの?」


「さあな。だが、調べてもいないことを、いないとは言えないだろ?」


「最高じゃん!」璃子は、手を叩いて笑った。「それ、乗った! 退屈しのぎには、ちょうどいいや。で、どうやって探すわけ? 心当たりの一つや二つ、あるんでしょ、名探偵?」


璃子の、からかうような、しかし本気で面白がっているその態度に、城戸は引きずられるように、失いかけていた高揚感を取り戻しつつあった。一人ではただの負け犬の遠吠えだった虚勢が、共犯者を得たことで、現実的な計画のような輪郭を持ち始める。


「この街には、歪みがある」城戸は、まるで長年研究してきた学者のように語り始めた。「他の場所より、『法則』が強く働く場所。一種のパワースポットみたいなもんだ。鹿島田の、あの跨線橋。武蔵小杉の、再開発から取り残された稲荷神社。あと、南武線の、始発でしか買えないって噂の、あの自販機のコーンポタージュ……」


それは、この街のプレイヤーたちの間で囁かれている、根も葉もない都市伝説の寄せ集めだった。だが、二人の間では、それが真実であるかのように語られる。


「いいね、いいね! 地道な聞き込み調査ってわけね。今夜から、早速始めちゃおうよ!」


璃子は、城戸の腕を掴んだ。その体温が、妙に熱く感じられた。


城戸は、一瞬ためらった。これは、寺嶋に指摘された「自分からの逃避」と、何が違うのだろうか。だが、璃子の、理屈抜きの、ただ面白いことに向かって突き進むそのエネルギーが、彼の逡巡を吹き飛ばした。考えるのは後でいい。今は、この退屈を殺せるのなら、何でもよかった。


「ああ、いいぜ」城戸は、不敵な笑みを浮かべてみせた。「今夜、この街の秘密を、一つ暴いてやろうじゃねえか」


ゲームセンターを出ると、生温かい夜の空気が二人を包んだ。城戸は、久しぶりに、自分が物語の主人公になったような気分を味わっていた。だが、その高揚感は、どこか空虚で、焦りに満ちていた。彼はもう、自分がこの新しいゲームの主導権を握れていないことに、気づかないふりをしていた。隣を歩く、予測不可能な共犯者が放つ、純粋な好奇心という名の混沌に、ただ、流されているだけだということを。


最初の目的地は、鹿島田の跨線橋だった。JRの線路を無機質にまたぐ、ただの鉄とコンクリートの通路。昼間は学生や主婦が通り過ぎるだけのその場所も、終電が過ぎた深夜には、世界の境界線のような、よそよそしい空気をまとっていた。オレンジ色のナトリウムランプが、二人の影を不気味に引き延ばしている。


「で、ここが最初の聖地ってわけ? 何か特別なことでも起きんの?」


璃子は、橋の真ん中でくるりと一回転すると、手すりにひょいと腰掛けた。その危なっかしい仕草に、城戸は眉をひそめる。


「やめろ、危ねえだろ。伝説じゃ、丑三つ時に、この橋の真ん中から硬貨を落とすと、拾った奴の運気を吸い取れるって話だ」


「へえ、えげつな。で、やるの?」


「やらねえよ。俺たちは運気泥棒に来たんじゃない。ディーラーの手がかりを探しに来たんだ」


城戸は、自分がさっきでっち上げたばかりの設定を、さも真実であるかのように語った。彼は、このゲームに何らかの「ルール」と「目的」を課すことで、主導権を取り戻そうと必死だった。だが、璃子はその試みを、軽々と飛び越えてくる。


「手がかりねえ」璃子は、手すりの上で身体を揺らしながら、面白そうに言った。「例えば、こんなのはどう? 今から私が、この橋の上で一番美しいポーズを取るから、もしディーラーが見てたら、何かサインを送ってくれる、とか!」


「馬鹿かお前は」


「馬鹿とは何よ! あんたの、古臭い都市伝説をなぞるだけの退屈なやり方より、よっぽどクリエイティブでしょ!」


璃子はそう言うと、手すりの上でバレリーナのように片足を上げた。その姿は、狂気と紙一重の、危うい美しさを放っていた。城戸は、彼女の底なしの奔放さに、もはや眩暈すら覚える。こいつは、ルールを求めているんじゃない。ルールを破壊すること自体を楽しんでいるのだ。


「……あった」


不意に、璃子が動きを止めて、手すりの一点を指さした。


「ほら、サイン来たじゃん」


城戸が駆け寄ると、そこには、黒のスプレーで描かれた、小さな落書きがあった。渦巻きの中心に、点が一つ打たれた、単純な記号。どこかの悪ガキが描いた、意味のないタギングだろう。


「ただの落書きだろ、これ」


「はあ? あんた、節穴? これは、ディーラーの『目』よ。私たち、見られてるってこと。試されてるのよ、このゲームに参加する資格があるかどうかを」


璃子は、完全に自分の作り出した物語に没入していた。その瞳は、本物の神秘を発見したかのように、らんらんと輝いている。城戸は、そのあまりの熱量に、反論する言葉を失った。馬鹿げている。そう思うのに、この記号が、何か特別な意味を持っているような気がしてくる。いや、そう思いたがっている自分がいることに、彼は気づいていた。このくだらないゲームを続けるための、言い訳が欲しかった。


「……そうか。これが、印か」


城戸は、自分の声が、自分のものではないように聞こえた。


「でしょ! じゃあ、次のミッションは、この『目』の印を、この街から探し出すことね! よーし、燃えてきた!」


璃子は手すりから飛び降りると、満足そうに腕を組んだ。その時だった。橋の向こうから、一人の背広姿の男が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。深夜とは思えない、きっちりとした身なりの、四十手前の男。その厳しい目つきが、はしゃいでいた二人を、射抜くように一瞥した。それは、まるで、子供の遊びに水を差す、大人の冷ややかな視線そのものだった。男は、間宮文彦と名乗る地元の不動産屋で、この辺りの治安を気にして夜回りしていると、後に知ることになる。だが、この時の二人には、彼が、自分たちの狂騒を咎める、現実世界の番人のように思えた。


男が通り過ぎると、璃子はわざとらしく大きなため息をついた。


「なにあれ。一般ピープル? 超しらけるんですけど」


だが、城戸は笑えなかった。あの男の、揺るぎない、現実だけを見つめる目に、寺嶋のバーで突きつけられた、自分の空虚さを、もう一度見せつけられた気がした。


「……行くぞ」


城戸は、その居心地の悪さを振り払うように、歩き出した。


「次は、武蔵小杉の稲荷神社だ。そこにもきっと、『目』の印があるはずだ」


彼の声には、先ほどまでの空っぽの響きとは違う、切羽詰まったような熱がこもっていた。寺嶋の声が、頭の中から消えていく。代わりに、この馬鹿げた記号探しのゲームが、彼の思考を埋め尽くしていく。


それでいい、と城戸は思った。今は、それでいい。


彼は、自分たちが、ただ、円を描くように、同じ場所を走り回っているだけだという、心の奥底にある冷めた声から、必死に耳を塞いでいた。

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