第4話

冬の気配が稽古場に忍び込むと、畳の匂いまで冷たく澄み渡っていった。

祖母の三味線は、いつもより低く、深い音を響かせている。

襖の向こう、廊下には灯油ストーブの匂いが漂っていた。石油の匂いは、なぜか心を落ち着ける。火の温もりより、その匂いだけが部屋を満たす。そんな冬の空気だった。


「蘭子。」


「はい。」


「来月から、名取試験の稽古を入れる。」


「はい。」


名取試験。十五を過ぎ、正式に桐山蘭子として名を許される儀式。

それは喜びではなく、重みだった。

障子を開け放つと、庭には霜柱が立っていた。ざくざくと踏むたび、足袋の裏に伝わる冷たさが心地よかった。


学校では、周りの女の子たちが卒業後の進路を語り合っていた。

看護学校や短大、就職試験の話題が飛び交う。

蘭子にはその輪が、遠い世界の光の粒のように見えた。


帰宅すると、母が台所で煮物を作っていた。干し椎茸と鶏肉の匂いが、古い廊下を満たす。


「おかえり。」


「ただいま。」


「今日は寒かったね。」


「うん。」


鍋の湯気が母の眼鏡を曇らせ、いつもより少しだけ柔らかい顔に見えた。

居間では、祖母が三味線の糸を張り替えていた。

障子越しに調弦の音が短く響く。それはまるで、この家の心臓の音のようで、響くたびに息を整える自分がいた。


「蘭子。」


「はい。」


「今日は飯、食うとき。」


「……はい。」


いつもなら「米は半分や」と言われるのに、その日は違った。

母が煮物を大皿によそい、茶碗に白米を盛ってくれた。

祖母は無言で煮物を口に運び、白湯を飲み込むと、箸を置いた。


「食べ。」


「……はい。」


米は甘かった。噛むたびに、涙が滲みそうになった。

身体に染み渡る温かさと甘さ。けれど、祖母の視線を感じて、涙は飲み込んだ。


夜、母が布団を敷きながらぽつりと呟いた。


「おばあちゃん、病院行かないんやね。」


「病院?」


「うん。最近ずっと咳してるやろ。」


「……うん。」


「家元は舞台の上で死ねたら本望、って言うけどな。」


母は布団を整える手を止め、薄く笑った。


「でも、やっぱり病院行ってほしいよね。」


蘭子は返事ができなかった。

障子の外では、冬の風が竹林を鳴らしていた。

その音は三味線の低音に似ていて、寒さよりも胸の奥がひやりと冷えた。


年が明ける頃、祖母の咳はひどくなっていた。

朝、稽古場に向かうと三味線が鳴っていないことに気づく。

それだけで空気が変わった。張りつめていた水面が、ふと軋むような、そんな音がした。


障子の奥、畳に正座した祖母が、膝に毛布をかけ俯いていた。


「おはようございます。」


「……ああ。」


その声はかすれ、糸のように細かった。

けれど背筋はぴんと伸びていて、それだけで稽古を始めるべきだと思った。


「……三味線、今日は、要らん。」


「……はい。」


扇を持つ手が冷える。踏み出すと畳が軋んだ。

祖母は何も言わない。声のない稽古は怖かった。正解も間違いも教えてくれない。ただ、探るしかない。


「……目線、落ちとる。」


「……はい。」


低く絞り出すような一言が、胸に刺さった。

舞うたび、祖母の咳き込む音が聞こえた。それがもう、何十日も続いていた。


夜、風呂上がりの母が小声で言った。


「病院、連れて行こう思う。」


「……おばあちゃん、行かへんて言う。」


「わかってる。でも、あんたの名取試験が近いんや。」


「……うん。」


「それまでに倒れたら、誰が三味線弾くの?」


「……」


「桐山の血筋って、家元の三味線の音と、舞手の呼吸が合うことやろ。」


「……そうやけど。」


「だったら、今守らなあかんのは“流派”やろ?」


母の言葉には棘があった。

けれどその棘は、祖母にではなく、母自身に突き刺さり続けていたのかもしれない。


翌朝、祖母は稽古場に現れなかった。

炭を起こす音も、撥の音も聞こえなかった。


「おばあちゃん、起きてへん。」


「……え?」


母が部屋を開けると、祖母は寝台に横たわり、静かに目を閉じていた。

息はしていた。けれど顔は土のように白く、頬は深く削げていた。


すぐに病院へ運ばれた。

後から駆けつけると、祖母は酸素を吸い、細い肩を上下させていた。


「おばあちゃん。」


「……よう……来たな……」


その声は別人のように細く、透き通っていた。

それでも、祖母は蘭子の顔を見て、微かに笑った。


「名取……の稽古……忘れたら……あかん。」


「……忘れてへん。」


「……扇……ちゃんと、使いなさい……」


「うん。」


「……鷺の……肘……切るな……」


「わかってる。」


祖母は目を閉じ、静かに頷いた。

その姿は稽古場で見た、三味線を抱える背中と変わらなかった。


病室の窓外には、早咲きの梅がひとつ、淡い紅を灯していた。

まるで祖母が最後に咲かせた、小さな光のように。

祖母は、春を待たずに逝った。


二月の終わり、梅が満開になった朝、白いカーテンが微かに揺れる中で、祖母は眠るように息を引き取った。


通夜の夜、稽古場は静まり返っていた。

三味線は白い胴掛けに薄く埃を被り、誰も触れないままだった。


「おばあちゃん……」


祖母の部屋には、家元ではなく、ただ一人の老婆の匂いが残っていた。

箪笥には若い頃舞台で使った帯が和紙に包まれ、しまわれていた。

その中に、黒地に白鷺の刺繍が施された帯があった。

初舞台で踊った「雪の白鷺」と同じ柄。


そっと抱き上げると、帯は驚くほど軽かった。

祖母の身体のように、余計なものを削ぎ落とし、美しさだけを残していた。


「蘭子。」


「……はい。」


母が立っていた。目は赤く腫れ、泣き疲れたように曇っていた。


「これから、あんた一人やで。」


「……うん。」


「桐山流は、おばあちゃんで終わりかもしれへん。」


「……」


「もう血筋守ってくれる人も、後ろ盾もない。あんたが続ける言うても、舞台に立てるかわからん。」


「……わかってる。」


「でも。」


母は帯に目を落とした。


「あんたの舞は、おばあちゃんが守ったんやで。」


「……」


「おばあちゃんが弾いた三味線の音が、あんたをここまで連れてきたんや。」


「……うん。」


「桐山流がなくなっても、あんたの舞は残る。……それでええんやない?」


蘭子は帯を抱き締めた。

黒地の帯に顔を埋めると、織糸の匂いと箪笥の木の匂いが混ざった。

冷たくて、優しい匂いだった。


葬儀の日、稽古場には門弟や弟子たちが集まった。

黒紋付に白足袋を履き、三つ指をついて祖母の遺影に頭を下げる。

祖母は笑っていなかった。家元としての厳しい顔で、ただ真っ直ぐに前を見据えていた。


夜、全てが終わり、家には蘭子と母だけが残った。

障子を閉めると、稽古場は冬の冷気に満ち、畳がひやりと肌を刺した。

蘭子は扇を取り出し、畳に正座した。


扇を返すと、骨の鳴る音が稽古場に小さく響く。

三味線は鳴らない。祖母の声もない。

けれど耳の奥で、あの声が聞こえた。


——肘を切るな。

——白鷺になりなさい。


涙は流れなかった。涙は、舞に必要ない。


「……おばあちゃん。」


「わたし、まだ舞うからな。」


夜明け前、障子が白み始めた。

新しい朝の光の中で、祖母の遺影に微かに影が射した。


桐山の血筋は、ここで終わる。

けれど舞は、まだ終わらない。

蘭子の中で、生き続ける限り。

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