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接見を終えて署を出ると、匠は中川法律事務所へ向かった。途中で昼食をはさんだので、中野駅に戻ったのは十五時まえだった。
事務所が近づいてくると、いつもとの違和感に気づいた。
カメラやマイクを持った人々が集まっている。匠がビルに入ろうとすると、マイクを持った女性がすばやく立ちふさがった。
「中川法律事務所の方ですか?」
無視してそのまま押しのけるように前へ進む。匠の姿を追いかけるようにカメラが動くのが視界の隅に入った。
コートとマフラーのおかげで、スーツの襟につけている弁護士バッジは見えていないはずだ。
事務所のドアにたどり着いた。押すが、動かない。
鍵がかかっている。
二、三度ノックする。すりガラスの向こうに人影が近づいてきた。
「どなたですか」
「柴本です」
「柴本さん、お疲れ様です」
鍵が開く音がして、ほっとしたような顔の事務員に出迎えられた。
事務所の空気は重かった。
「外に集まっているのはマスコミですか?」
「ああ。ネットニュースに佐藤くんの自首の件が出てね。一時間ほど前からあの調子だ。ビルに出入りする人間を手当たり次第つかまえているようだ。事務所にも押しかけて来るわ、電話は鳴りっぱなしだわで、仕事にならん。どうしようもないから、さっき私が対応してコメントしたよ」
答える中川の声にはいらだちがにじんでいる。
「じゃあ、事務所の名前も?」
「今のところは出ていない。中野区の弁護士とだけ出ている。だが、カメラ集まっているようだし、夕方にはテレビのニュースで事務所の名前もしれ渡るだろうな。なにせ被害者が医者で、被疑者が弁護士だ。絶好のニュースだろう」
事務所の窓には、建物の外から見てわかるように「中川法律事務所」の黒文字ステッカーが貼られている。
匠は窓際によるとブラインドを指で少し押しさげ、外の様子をのぞき見た。人びとはまだ路上に集まっている。
マフラーとコートを部屋の隅にある共用ハンガーラックにかけ、鞄を自分の席に置くと、匠は中川と応接室に入った。
「なにもしなくていい、か。参ったなぁ……」
佐藤とのやり取りを手短に報告すると、中川は大きなため息をついた。
「こちらとしては、なんとしてでも佐藤くんの助けになりたいが、本人の希望が真逆ではなぁ。どうしようもない」
白髪まじりの七三の頭をひとなでしたあと、気を取り直したように匠に数枚の書類を手渡す。
「これは?」
「佐藤くんの履歴書と職務経歴書のコピーだよ。出身大学、法科大学院、司法修習先、以前の勤務先のことなんかが書いてある。弁護の参考資料に使ってもらえればと思ってね」
「ありがとうございます」
匠は一礼しながら書類を受け取った。
「黙秘ということは、動機もわからないという理解でいいか?」
「はい、そうです」
「そうか……。佐藤くんはウチの事務所で受けた案件と、個人で受けた案件の両方を抱えていた。どっちのクライアントにも被害者の浅井氏がいないことは、朝イチで事務所全員で手分けして確認済みだ。だが、クライアントの誰かと浅井氏につながりがあるかとか、うちに入る前のことまではわからん」
仕事の紙の資料は、個人に割り当てられた書類ロッカーで保管し、帰宅時には施錠するルールだ。
ロッカーの鍵も個人で管理している。
だが、中川はマスターキーを持っているので、それを使ったのだろう。電子化が進む昨今でも、弁護士の仕事は紙の資料無しでは成り立たない。
「柴本くん、これからどうする?」
「なにもするなと言われましたが、なにもしないではいられません。明日にでも被害者の勤務先に行ってみるつもりです。なにか接点の糸口が見つかるかもしれない」
「わかった。それじゃあ、柴本くんはしばらく自由に動けるよう、手もちの案件で急ぎのものの引き継ぎをしよう」
それから中川とイソ弁の深山に引き継ぎ作業を行った。さいわい、今の手もちにこじれている案件はなかったので、引き継ぎはスムーズに進んだ。
十八時すぎ、匠のスマートフォンが鳴った。
実家の母親からのLINEだった。メッセージの内容を確認して、匠は一気に気分が下がった。
『今日、ウチに顔を出せる? あんたの職場がテレビに出てる』
『了解』
短い返事だけを打った。
母親の佐知子は、一度気になることがあると、とことん追求する性格である。実家からの呼びだしを無視すると、こちらが応じるまで何度でも連絡がくる。
仮に無理と返信しても、今日が駄目ならいつならいいのかと再返信があるのは確実だ。面倒なことは、長引かせるより早く終わらせてしまうに限る。
続けて、LINEの麻美のアイコンをタップする。
メッセージはなにも届いていない。
匠は自炊派である。食材は週末に買い出しに行き、だいたい十九時半過ぎには帰宅して夕食づくりに取りかかる。
麻美のスケジュールに「ステイ」が書かれていない日――帰宅する日、帰宅時間はフライトによってまちまちだ。
帰宅時間が匠よりも早ければ「ご飯作っておく」、夕食に間に合いそうなら「今日は家でご飯食べる」、フライトが遅い便だったり、予定よりも遅れた場合は「今から帰る」のメッセージを送ってくる。
そう、いつもならば。
けれども今日は、そのどれも届いていない。
まだ、なにかに怒っているのだろう。
読んでくれるだろうか。読んで、なにか返信をくれないだろうか。
そう思いながら、匠は「今日は実家で夕食食ってくる」とメッセージを送信して、アプリを閉じた。
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