『おっさん、異世界でヒモになる ~パンツを盗んだら、なぜか女神と姫と王妃と女騎士に懐かれました~』

猫野 にくきゅう

第1話 働きたくない、絶対にだ

 日本のどこかにある、薄暗いアパートの一室。


 湿った空気とカビの匂いが染み付いた部屋の隅で、一人の男が体育座りをしていた。彼の顔を照らすのは、唯一の光源であるテレビの青白い光だけ。画面では、やけに健康的な顔色の政治家が、国民に満面の笑みを振りまいていた。


「……長年の少子化による労働力不足で初任給が30万を超えました! 働き盛りの氷河期世代の皆さん、今こそ、再び日本の労働力として活躍する時です!」


 その言葉に、小山内誠一(おさない せいいち)42歳はテレビに向かって、おもむろにリモコンを放り投げた。


 リモコンは畳に鈍い音を立てて落ちる。


「もうやだよ。今さら働きたくないんだよ……」


 彼の膝の上にあるスマートフォンの画面には、「異世界転生 楽に生きる」「チートスキル 転生」といった怪しげな検索履歴がずらりと並んでいた。画面に映る自分の顔は、青白い光に照らされて、なんとも哀れなものだった。


「40超えたおっさんが新入社員なんて無理だって、なんで分かんねぇんだよ……」


 誠一は元派遣社員だ。


 10代から工場で働き始めたが、その時期から労働環境は悪化の一途をたどる。賃金の安い外国人労働者が増え、会社は次々に海外へ拠点を移していった。そして35歳を超えた時、彼はあっけなく派遣切りに遭ってしまったのだ。


 彼は半生を振り返る。


「元を辿れば、中国をWTOに入れたのが世界経済の失敗だったんだ。消費税はどんどん上がって輸出企業は大儲け、内部留保を溜め込むばかり。そのせいで金が回らなくなってんだよ。――金持ち以外は、みんな貧乏だ」


 搾取されるだけの人生だった。


 グローバル化によって海外の低賃金労働者と「労働力の安売り競争」をさせられてきたのだ。ずっと――人生を振り返り、彼はそう考えるに至る。


 さらに増税に次ぐ増税。

 それらが相まった結果、日本の中間層は崩壊。


 残ったのはストレスによる不整脈と、底知れぬ将来への不安だけ。部屋の壁紙のシミが、彼の人生の行き詰まりを象徴しているようにも見えた。


「もうとっくに、詰んでるんだよ。俺の人生は、ここから先も……」


 だが、誠一には唯一の希望があった。


 それは「異世界転生」だ。


「トラックに轢かれるか、病気で死ぬか……とにかく死んだあと、神様に新しい世界への扉を開いてもらうんだ……」


 誠一は真剣な表情でスマホをタップしながらつぶやく。


 このおっさんの身体では、もう何もかもが手遅れだ。

 しかし、異世界で赤ん坊からやり直せば、きっと充実した人生を送れるはず。次の人生こそは子供のころから努力して、搾取する側に回ってやる。


 そう決意して、今日も彼はニート生活を謳歌していた。



 ***


 その日の夜のこと。


 誠一がインスタントラーメンを食べ終え、伸びをしようとした、その瞬間だった。


 部屋全体が、まばゆい白い光に包まれた。


「え、なにこれ? 宇宙人襲来? いや、核戦争か?」


 あまりの眩しさに目が開けられない。


 視界が真っ白に染まり、全身が浮遊するような感覚に襲われる。耳鳴りのように、キーンと高い音が響く中、誠一の脳裏には一つの期待がよぎった。


 ――これ、もしかして……転生の前兆か!?


 光が収まり、誠一がゆっくりと目を開ける。

 そこにアパートの部屋はなかった。


 代わりにあったのは、大理石の床と、巨大な柱が立ち並ぶ荘厳な空間。


 天井からは、天窓を通して幻想的な光が降り注いでいる。まるでRPGのオープニングに出てくる神殿だ。部屋には、乳香のような甘い香りが漂っている。


 目の前には、神々しいドレスをまとった水色の髪の女性が立っていた。光を浴びてキラキラと輝くその姿は、絵画から飛び出してきた女神そのものだ。


 彼女の前には、どこか緊張した面持ちの少年がいる。

 誠一の視界に入った瞬間、少年はびくっと肩を震わせた。


「勇者よ、この聖剣『デュランダル』を授けましょう。あなたは魔王を討伐し、世界を救うのです」


「は、はい!」


 少年が震える手で剣を受け取ると、女神に促され、足元に現れた光り輝く渦の中へと消えていった。


 この状況は……。


 誠一は確信した。

 これは、異世界に転生するための神の空間だ!


「あ、あの! 私も転生させてもらえるのでしょうか!?」


 ついに待ち望んだ時が来た!

 誠一は勇んで、女神に声をかけた。


 突然の闖入者に、女神は驚きで目を丸くした。

 その瞳には、警戒と困惑の色が浮かんでいる。


「えっ? きゃあ! なんですか、この変態不審者は……どうやってここへ!?」


「あの、転生させてもらえるんですよね? えっと、女神様……」


 誠一が期待に満ちた表情で尋ねると、女神は訝しげに誠一を見た。


「……何を言ってるんですか?」


「えっ、だって――光に包まれたと思ったら、次の瞬間、ここにいて……」


 誠一を観察していた女神は――

 やがて何かを悟ったように声を上げた。


「……ああっ! 勇者を召喚したときに、偶然巻き込んでしまったようですね。うっかり……。仕方ありません。そこの光に入ってください。私の管轄する異世界への入り口です。そこで生活してもらいます」


「えっ? あの……?」


「成人男性なんだから、何とかなるでしょう」


「ちょっと待ってください! 転移!? 転生じゃないんですか!? 冗談じゃない、おっさんの身体で転移なんて! それなら日本でニートしてる方がマシですよ! 家に帰してください!」


 誠一は必死に叫ぶ。

 だが、女神は冷たい視線を向け、きっぱりと言い放った。


「無理です。もう戻れません」


 絶望に顔を青ざめさせる誠一。


 ただのおっさんが異世界に転移したって、何もできはしない。

 搾取する側に回るなんて、夢のまた夢だ。


(これは、大変なことになったぞ。何とかしなくちゃ……)


「そんな……せめて何か、能力を授けては貰えないでしょうか! この通りです! お願いします!」


 誠一は床に額をこすりつけ、土下座で懇願した。

 このまま転移しても、まともに生活できるわけがない。


 下手すればすぐに命を落とすだろう。


 今後の異世界生活(?)がかかっている。

 みっともない振舞だが、なりふり構っていられなかった。


 女神は「仕方ありませんね」と呆れたように呟くと、誠一の体に淡い光を浴びせた。


「おおっ! なにか、力に目覚めたぞ! どんなチートスキルだ!?」


 誠一は歓喜し、早速能力を念じてみた。


 次の瞬間、彼の手に一枚の布切れが現れた。

 それは、目の前の光と水の女神、アクア・ディアーナのパンツだった。


 それは少し生暖かかった。

 童貞である彼が、初めて手にした女性の下着である。


(おおっ!)


 謎の感動が彼の中に生まれるが、それと同時に「これでは駄目だ」という冷静な分析もなされる。この能力では、すぐに死んでしまう。


「あの……これは大変素晴らしい能力なのですが、別の力に変更しては貰えないでしょうか?」


 誠一が真顔で懇願するも、変更はしてもらえなかった。

 光と水の女神は、跪いてパンツを返却する誠一から、乱暴にそれを奪い取る。


 アクア・ディアーナは顔を真っ赤に染めている。

 彼女は怒りに満ちた笑顔で異世界への扉を指差し、「早く光の渦に入れ!」と誠一を促した。


 誠一は抗議する間もなく、強制的に光に吸い込まれ――

 異世界へと転移していった。

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