42話 美しい夢の、つづき

「……っ!」

 気がつくと、しおりは拓人の部屋で花図鑑を握りしめていた。

 部屋の時計を見ると、幻想の世界に入った時からほとんど時間は経っていなかった。

「…………」

 しおりはゆっくりと目を閉じ、記憶の旅を、幼い自分との対話を思い出す。温かい気持ちと、少しの切なさで胸が満たされていくと共に、かみさまに願う前の本当の記憶をしおりは思い出していた。

――交通事故で亡くなった両親の代わりに、自分をずっと支えてくれた大切な人がいた。私はその人が告げた両親の死を受け入れられず、挙げ句の果てにはその人のことをずっと忘れてしまっていた。

 すぐに連絡を取って、これまでのことを謝らなくちゃいけない。

「……うん」

 花図鑑を元に戻すと、しおりは拓人の部屋を後にした。

 向かった先は――宗一郎の部屋だった。

「失礼します」

 扉をノックすると、入りなさいという宗一郎の声が中から聞こえた。

「……」

 宗一郎はしおりの来訪に少し驚いた様子だった。

「西園寺さん。先ほどは話の途中で出て行ってしまい、申し訳ありませんでした」

 しおりは静かに頭を下げ、顔を上げると真っ直ぐに宗一郎の目を見つめた。

「――もう、大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「……そうか」

 宗一郎は素っ気なく答えたが、その響きはどこか安堵の趣きを含んでいた。

「それで、急なんですが……一つお伝えしたいことがあります」

 すぅ、としおりは大きく息を吸って、吐いた。

「……本日をもって、私はこの家の家庭教師を辞めようと思います。短い間ですが、本当にお世話になりました」

 再び、しかし今度は先ほどより長く、しおりは宗一郎に頭を下げた。

 宗一郎はしおりの様子に、僅かに息を飲んだ。

「……短い間に、君はまるで別人のように変わったな。何があったかは判りかねるが、君の意思を尊重しよう」

 しおりが頭を上げると、宗一郎は困惑しながらもどこか喜びを噛みしめるような表情をしていた。

「すぐに経つのか?」

「はい。この後行きたい場所があるので……他の皆さんには直接挨拶できず、すみません。私のこと、伝えておいてもらえますか?」

「わかった」

 それから、しおりは世間話をするかのような顔で宗一郎に伝えた。

「私から見て、拓人さんはもう立派に自分の道を歩み始めたと思います……今まで話せなかったことを、話しても良いのではないでしょうか?」

「……!」

 宗一郎は、これまでで最も驚愕の表情を浮かべた。しおりの言葉は宗一郎と瑞希しか知る由のない、あの約束のことを明らかに指していたからだ。

「……君は、一体」

「どうかされましたか? 私、お二人の仲がさらに良くなることを願っていますね」

 あくまで知らないふりをしながら、しおりは満面の笑みを浮かべた。

「あ、そうだ。最後に一つだけお願いがあるんですが――」


 しおりは部屋の荷物をあっという間にまとめ、キャリーケースを引き始める。

 屋敷の玄関を出ると、麗人の使用人――柊が、静かに立っていた。

「宗一郎様からお話は伺いました。駅までお見送り致します」

「あ、自分の足で歩きます。少しこの街の景色を見てから帰りたいので」

「……承知いたしました」

「柊さん、色々ありがとうございました。駅で最初に出迎えてもらったのが柊さん、あなたで本当に良かったです」

「恐縮です」

 あくまで事務的に、しかし完璧な使用人として柊は振る舞ってみせる。

 その気高さに、プロフェッショナルな態度にしおりは改めて尊敬の念を抱いた。

「ねえ、柊さん。最後にあれ、見せてほしいな」

「あれ、でございますか」

「ほら、この家に私が来た時にやってくれた、パッと一瞬で着替えるやつ。あれ、もう一度見たいの」

 柊は少し不思議そうな顔をしたものの。

 しおりの要望通り、衣装の裾を摘むと――女性物から男性物の衣装に着替えて見せた。

 ぱちぱちぱち、としおりは拍手を送る。そして、問いかけた。

「ねえ、柊さんはどっちの衣装が好きなの?」

 しおりは涼しい顔で、かつての少年の問いを何気なく繰り返した。柊は少し驚いた様子を見せると、

「どちらも、でございます。ですが……」

 少しだけ、使用人という鉄仮面を外した彼女は――まるで少女のように悪戯げな笑顔を浮かべてみせた。

「――最近は、他の衣装にも興味が出て参りました」


 カラカラとキャリーケースを引きながら、西園寺邸の坂を下りきったところで。

 しおりはポケットからスマホを取り出して、ずっとオフにしていた電源を入れた。

「……バッテリー繋がないとすぐ電源落ちるな、これ」

 荷物からゴソゴソとスマホのバッテリーを接続し、スマホの画面を操作して。

 ある人物に電話をかけた。

「……」

 コールして三十秒ほど経った頃。

『……もしもし、しおり君!? 今どこにいるんだい!?』

 しおりがずっと忘れていた、とても大切な人、本当の「親」の声が電話口から聞こえてきた。

「……榊さん。長らく、私のせいでご心配をおかけしました。本当に、ごめんなさい……そして、これまでありがとうございました」

 両親が弁護士繋がりで懇意にしていた男、榊は、しおりの両親が亡くなってからずっと、彼女の後見人を務めていた。

 彼はしおりに何があったのか、何を受け入れたのか……その言葉で察したようだった。

『……こちらこそ、君を傷つけてしまってご両親に合わせる顔がないよ。君はずっと、ご両親が生きていると信じていた。だから、君の世界を壊さないよう、私の方からは不用意に連絡が出来なかった。メディア出演の許可も君のご両親のことや私の存在を公にしないことを条件にして……でも君が幸せに過ごしてさえいれば、私はそれで良かった。だが……研究室で何があったか、全部大学関係者から聞いたよ。取り返しのつかない傷を、君に負わせてしまった。それでも、いつか君から連絡が、くるだろうと、ずっと待って、いたんだよ……』

 榊の最後の声は、震えていた。

 学校の手続きも、しおりが生活に必要なものの手配も、彼はしおりに一切顔を見せずに進めていた。

 それを、しおりは本当の両親が進めてくれているのだと思い込んでいた。

「榊さん。私はずっと、夢を見ていました。でももう、その夢は終わりました。だから安心して下さい」

 それから一つお願いが、としおりは続ける。

「急で申し訳ないんですが、この後行きたい場所があるんです。榊さん、お手数ですが案内していただけますか?」

『……もちろんだよ、今日の仕事は全てキャンセルする。どこに行きたいんだい?』

「はい、それは――」


 しおりは榊と目的地の駅で落ち合い、それからタクシーを呼んだ。

 榊が運転手に行き先を告げると、タクシーはゆっくりと進み始める。運転席と後部座席は分厚いアクリル板に仕切られており、半個室のような空間となっていた。

 後部座席に並んで座った榊は、しおりに声をかけた。

「……しおり君、大きくなったね。お母さんにそっくりだ」

「はい、榊さんとは生前の両親と何度か一緒に遊んでいただいて……懐かしいです」

 両親が亡くなってから、榊は自分が後見人になることをしおりへ告げに来た。しおりはその事をずっと忘れていた。

 かみさまに願ったときに、その記憶をあげてしまったのだろうとしおりは思った。

「ある日、西園寺宗一郎という人から私に突然電話が入ってね。しおり君はうちにしばらく滞在するから、何かあっても心配しないでほしいと……そう連絡があったんだ」

 その言葉に、しおりは身体を小さく震わせる。

 やはり、あの人は最初から全てを見通した上で自分を迎え入れたのだと、しおりは改めて理解した。

「……はい。あの人がいなければ、私はここにいませんでした。本当に感謝しています」

「あの西園寺グループのトップだろう? さすがに連絡をもらった時は驚いたよ」

 はは、と彼は冗談めかして笑った後、真面目な表情を浮かべた。

「……鷹倉は傷害と収賄の容疑で塀の中だ。しおり君の件に加えて研究室の他の学生が彼の不正を証言してくれた。今回の件は私と西園寺さんでマスコミへの牽制と圧力をかけている。勿論、しおり君が望むなら告訴もできるし、その際は私が弁護人になろう。だが……」

 それから榊は苦渋の表情を浮かべた。

「……今更何を言っても言い訳にしかならないが……私は事業再生の案件を得意としてきたから、大学が抱える問題を十分に理解できていなかった。あの男にしおり君の研究室への進学を説得された時、彼の権威と語り口に騙されて、恥ずかしながらその悪意を見抜けなかった。私は、弁護士失格だ」

「そんなこと言わないで下さい。榊さんは何も悪くないです。世間知らずで、ずっと両親の夢を見続けた私が悪かったんです」

 しおりのどこか清々しい表情に、榊は呆気に取られた様子だった。

「……しおり君は優しいね。西園寺さんには一生をかけても感謝しきれないよ」

「はい。私も受けた恩を少しずつ返していきたいと思っています」

 そして、タクシーは目的地に到着する。

 ……しおりの両親の墓が眠る場所に。


 しおりは寺の住職に一声かけ、桶に水を組んで行きがけに買った焼香の包みを解いた。

「……こっちだ」

 榊に案内され、しおりは『雪村家之墓』と刻まれた墓石の前に立つ。

 墓石は綺麗に維持されており、おそらく榊が欠かさず手入れしていたのだろうとしおりは想像し、感謝した。

「……」

 墓に水をかけ、焼香を供えて。

 しおりは最後に、キャリーケースから取り出した花束を添えた。

「……綺麗な花束だね」

 その花々の鮮やかさに、榊は言葉を漏らした。

「はい……この花は、私がここまで来られた理由そのものなんです」

 西園寺家の庭園で去り際にしおりが摘んだ花々は、両親への手向けの花だった。

「……長い間、来られなくて。ごめんね……」

 しおりは手を組み、静かに祈りを捧げる。

 一筋の涙が、墓前に落ちて弾けていった。

 ずっと伝えたかった、たった一つの思いと共に。


「――大好きだよ。パパ、ママ」

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