6話 初授業


 しおりが西園寺家にやってきた次の日の午後。

 その日は平日だったため、拓人が学校から戻った後にしおりの初授業が予定されていた。

 しおりが部屋で教材の準備をしていると、扉が軽くノックされる。

「雪村様。拓人様の準備が整いました。瑞希様も部屋でお待ちです」

 柊の声を聞いて、しおりは準備した教材を抱えて立ち上がる。

 扉を開けた柊は少し驚いた様子だった。

「……昨晩から今まで、そちらの準備を?」

「うん。これぐらいはやらないとね」

 しおりは、十冊近くの参考書を抱えながら何でもない顔で答えた。

「……では、拓人様の部屋までご案内致します」

 柊は使用人の表情に徹してしおりを誘導し、一つの部屋の前で立ち止まる。

「拓人様、瑞希様。雪村様をお連れ致しました」

「ええ、どうぞ」

 中から瑞希の声が返ってきたため、柊は扉を開いた。しおりは部屋に入り――その多くが自分の部屋とよく似ていることに気づいた。

 家具は華美な装飾のない木材で統一されており、キングサイズのベッドの端に瑞希は腰掛けている。そして、部屋の片隅に置かれたシンプルな書斎机の前に拓人は座り、しおりの方へと振り返っていた。

 しおりは、自分の部屋と一つだけ決定的に違う点があることに気が付く。

 部屋の壁一面には、床から天井まで届くほどの巨大な作り付けの本棚が置かれていたのだ。しおりの視線は思わず本棚に吸い寄せられる。

 そこに並べられていたのは学校の教科書や参考書ではなかった。印象派から現代アートまで、多岐にわたるジャンルの美術画集、分厚い美術史の専門書、色彩理論や構図に関する解説書、『十九世紀の植物画』や『日本の草花図譜』といった、ボタニカルアートに関する数々の書籍もしおりの目を引いた。

「では、わたくしはこれで」

 柊の退室する声とともにしおりは我に返る。

「あ……えっと、今日から改めてよろしくお願いします」

 しおりは拓人と瑞希に軽く頭を下げ、二人とも軽く会釈して見せた。拓人は学校の制服ではなく、昨日写生をしていた時の私服に着替えていた。 

「それじゃ、ちょっとこの本を机の横に置かせてもらって……と」

 ズン、という鈍い音と共に書籍の山が置かれる。

 その音と厚みに、拓人は少し顔を強張らせた。

「……これは?」

「あ、今は気にしないで……ください」

「雪村さんは僕の先生なんだし、昨日の庭園の時みたいに敬語じゃなくていいよ」

「じゃあ……お言葉に甘えて」

 そんな二人の様子を、瑞希は後ろから微笑ましく見守っている。きっと瑞希がいなかったらもっと喋れなかっただろうとしおりは感謝した。

「まず、拓人さ……拓人のノートを見せてもらえる?」

 拓人は机に用意していた数学のノートをしおりに渡した。

「…………」

 ぱらぱらとノートの頁をめくって、しおりは拓人がどこで躓きやすいのかを理解しようとした。

「……うん、大体分かった」

「?」

「拓人は多分、証明問題が苦手なんだよね?」

 しおりの言葉に、拓人は少し目を丸くしてみせる。それはしおりの言葉が的を得ていることの証左だった。

「……そんなにすぐ分かったの?」

「うん、全体的にはよく理解してるなって思う。だから敢えて言うならってぐらいだけど」

 すると、しおりは持ってきた書籍の山を崩し始めた。書籍を開いては「確かこの辺りにあったよね」と呟きつつ頁をめくる手を止め、机の上に置く。しおりは、それを全ての書籍について繰り返した。

 あっという間に拓人の机は開かれた書籍の山で一杯になる。

「だからほんの一例だけど……ここにある公式を覚えていけばいいと思う。さ、やってみよっか」

 しおりは持ってきた書籍に書かれた説明と問題、その解説の内容を全て頭に入れていた。その上で、拓人が苦手としている内容に合わせた説明が書かれた場所を提示してみせた。

「……うん」

 だが、彼の反応はしおりが期待していたものとは異なり、今ひとつだった。

「要するに……この公式が重要で、これを覚えればいいってこと?」

「平たく言うと、そういうことかな」

「……こういうのを覚えるのって、苦手なんだよね」

 拓人が零したその言葉の意味が、しおりには理解できなかった。

「でも、それが証明問題を解く最も効率的で近道なんだよ。まずは公式を覚えて、あとはひたすら問題を解くのが一番早く理解できるから」

 しおりにとっては、それが当然の勉強法だった。問題を解くためには、その鍵となる公式を含めて色々なことを覚える必要がある。彼女にとって覚えるとは単なる通過点に過ぎず、そこに悩む余地はなかった。

「この公式が大事なのは分かるよ。でもどうやったら、うまく覚えられるかな?」

 だから、拓人が浮かべる疑問に対して。

 しおりは明確な答えを持ち合わせていなかった。

「……えーと……口に出して読む、とか?」

 自信がなく、躊躇いがちな言葉に拓人は気乗りしない様子で。

 若干の苛立ちが、しおりを蝕んだ。

「わかった。やってみるよ」

 拓人はそれから自分が間違えた問題の復習を始めた。公式を口に出して読む様子を見ながら、しおりは拓人のことが理解できないでいた。

――公式を使って解くような問題は、証明問題に限らず色々ある。でも、他の単元ではきちんと公式を使って解けている問題も多かった。ならなぜ、拓人は証明問題だけが苦手なんだろう?

 その問いに答えが出せないまま、しおりの初授業の時間は過ぎていくのだった。


「はい、二人ともお疲れ様でした」

 ぽんと手を叩く瑞希の合図で、しおりと拓人は今日の時間が終わったことに気付いた。

「しおりさん、すごく頭が良いのね。宗一郎さんが家庭教師としてあなたを雇った理由が分かった気がするわ」

「あ、ありがとうございます」

「ふふ、それでは二人とも疲れたでしょうから、甘いものでも食べましょうか」

「え?」

 瑞希は立ち上がると、部屋の入口に置いてある電話機の側まで歩み寄り――横に置いてあったクッキーを手に取った。

「さっきしおりさんを連れてきた際、柊さんがこっそり置いていってくれたの。気づかなかった?」

「……全然気付きませんでした」

 退室する際の一瞬にそんなことがあったとは。

 その事におっとりとした様子の瑞希が気が付いていた、ということにもしおりは驚かされていた。

「さあ、いただいてちょうだい。柊さんお手製のクッキーでしょうから、きっと美味しいわよ」

「あ、昨日お部屋を案内していただいた時も戴きました。滑らかですごく美味しかったです!」

「そうね。本人はただの趣味だなんて謙遜しているけれど、私はお店顔負けの味だと思っているわ」

 瑞希は嬉しそうな顔をして、二人にクッキーを手渡した。

「いただきます!」

「……いただきます」

 昨日と変わらぬ美味しさにしおりは顔を綻ばせる。拓人も陰っていた表情が少し和らいだ様子だった。

「この後みんなでお茶でも……と思ったけれど、拓人はこの後も予定があるのよね」

「うん。せっかくだけどもう行かないと。母さん、柊にありがとうって伝えておいて」

 拓人はクッキーのラッピングをゴミ箱に捨てると、少し慌ただしい様子で部屋を出ていった。

「……ずいぶん忙しそうですね。もしかして、日が落ちる前に絵を描きに行ったんですか?」

 昨日の庭園での様子から、しおりは簡単な推測を瑞希に投げた。

「ううん、そうじゃないの。あの子は他にも色々習い事をやっているのよ」

「習い事……」

 言われてみればそうだ、としおりは納得した。巨大グループ企業のトップの家となれば、きっと息子である拓人は両親から将来のことを色々期待されているのだろうと思った。

「ああ見えて結構忙しいのよ、あの子は」

 瑞希は変わらず微笑んでいたが、その目はどこか寂しげなものにしおりには見えた。

 少し気まずい気持ちになったしおりは、つい謝罪の言葉を口にしてしまう。

「すみません、今日はあまりうまく授業ができなくて……せっかく拓人さんの貴重な時間をもらったのに」

「いいのよ。今日は初めてだったんですし、雪村さんは頑張ったと思うわ」

 それに、と瑞希は少し遠い目をしながら呟いた。

「……きっと、今のあの子に必要なことですから」 

 その言葉がどういう意味なのか、しおりにはよく分からなかった。

「では、私もそろそろお邪魔するわね、雪村さん」

 軽く会釈して去っていく瑞希の姿を見送って。

 しおりは、机に広げっぱなしの持ち込んだ書籍の整理を始めるのだった。

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