無差別の彼岸

固定標識

相原千代

 君がどうして、こんな凶行に及んだのか。僕にはまったくわからない。

 けれども警察官として。そして、秩序の中に身を置く一人の社会人として、君の行いを事前に止めることが出来なかった自分を悔しく思う。

 君にどんな事情があって、どんな風に思って、結果──人を刺すに至ったのか。

 君と僕が話すのは、きっとこれが最期の機会になるのだから、壁にでも話すと思って、だからどうか教えてはくれまいか。

 君に何があったのか。君が何を想い、何を憎んだのか。

 君のことを教えて欲しい。

 この面会の時間も、どうも終わりに近いようだから。


 ──────────・・・


 相原千代という少女の生い立ちは、決して祝福されたものではなかった。母も、父も。天や地すらも、どうも彼女からは遠かった。まるで幽霊のように、もしくは古家の精霊のように、誰もが彼女を遠巻きに眺めた。

 それは実際、彼女が感じていた一成分的な視点に過ぎないわけだが、しかし実態として、彼女は【いない】ものとして扱われることが、少なからずあった。

 それがなに故かと問われれば、現実は無情にも答えるだろう。何せ、現実という奴は、まったく夢を見ない。その瞳は一切鼓動せず、拍動せず、閉じるべき瞼も無い。故に現実という彼は、否応なくすべてに直面してきたのだ。彼には、目を逸らすことも、閉じることも叶わない。

 だから事実を述べれば、相原千代という少女は不倫の末に生まれ落ちた、非業の落胤であった。

 

 父方の苗字を継ぐことは許されず、少女は、母方の相原の苗字を背負って、この十五年間を生きてきた。そして彼女の代で、ここに於ける相原の血筋は途絶えることとなる。相原を繋げる人間は、今や千代しかいない。

 千代の母親は美しい女性だった。

 所作も礼儀も、誰からも美しく映った。ただし、彼女には持ち得ぬものがあった。

 千代の母親は頭が悪かった。社会で生きてゆくには要領の悪い女だった。ただし、その有り余る所作と礼儀の美しさから、なんとか生き残ってきた。そしてその美貌は、とある春の日の花見に訪れていた名家の主人に見初められ、千代の母は思いがけず裕福な職と待遇を手に入れ、後に二人は関係を持った。

 それは完璧に秘密の交流であり、千代の母は、この時ばかりは口の紐を固く締めて、『この関係は誰にも言いません』と誓った。

 それから一年が過ぎて、千代が生まれた。

 母親は千代が生まれたことが嬉しかった。愛した相手との子が、確かに今この腕の中で、愛らしくも呼吸しているという確かな拍動が、彼女の心を打った。彼女は妄想の内にチャペルの鐘を鳴らし、白く清潔な花嫁衣裳を纏う自分を、心の泉のほとりに立たせてやっていた。

 しかし先にも述べたように、現実という奴は夢を見ない。もしくは、夢を見ることを許されない哀れなる断罪者であるから、奴は千代と千代の母に、厳しく吹きつけた。


 絶叫と嗚咽が吹き荒れる屋敷の中で、生まれたばかりの千代は、三日も四日も眠ることが出来なかった。こけてゆく頬、へこんでゆく腹、はらはらと、木枯らしに当たられたかのように抜けてゆく、やわらかい髪。そしてその全てを厳しく荒らす罵声が、親子を切りつけた。

 千代の母は自分を孕ませた男に涙ながらに縋ったが、彼は彼女を助けようとはしなかった。元より秘密の関係であることは、二人にとって当然の約束だったし、何故秘密なのかとか、明るみに出たらどうなるのか、とか、彼はそういうことを、当然女は理解していると思っていた。

 だが再三、言いたくも無い。しかし現実が告げるならば、千代の母親は頭が悪かった。

 二人は遠く、地方の古家を宛がわれた。そして何人かの世話役が、二人を世話した。無論、この世話役を監視役と換言出来るのは言うまでもない。

 

 相原千代は普通に生きた。

 自分の身の上に起きたことは、間違いなく不幸だとは思うし、古家での生活は不便だったけれども、十年もすれば慣れてしまった。世話役の厳しい視線も、偶に起こる理不尽な意地悪も、慣れてしまえばなんということは無かった。人は慣れる生き物だと、彼女は若干十一歳にして知っていた。

 彼女は母親の美貌を受け継いでいたから、生きる上では苦労しなかった。身についてしまった理不尽への耐性も、彼女が【上手く】生きる上で彼女を助けた。彼女は時折、慣れるという言葉は、均すという言葉にも通ずるのではないかと考えた。

 

 ──────────・・・


 相原千代が凶行に至ったのは、十五歳の誕生日のことだった。

 それは盛んに雨の降りしきる六月後半のことで、彼女は後に『誰でもよかった』と供述している。


 ──────────・・・


 千代の誕生日は、毎年何も起こらなかった。

 誕生日の贈り物は勿論、豪華な食事が与えられるわけでもない。しかし彼女は、世間一般で言うバースデイパーティーに招待された時には、その様子を興味深く観察しながら、それが既知の概念であるフリを続けたし、友人に祝われれば、その嫋やかな美貌を活かして『ありがとう』、などと言ってみた。それですべてが上手く回っていた。

 日常が回るというのは、彼女の中で当然だった。同じ時間に起床し、同じ時間に同じ食事を摂り、同じ時間に家を出た。そして周りと同じように生きた。

 それ自体を哀れに思うことは、正しくないのではないかと僕は思う。何故ならば、誰であろうと周囲に合わせた言動を取って、自らを群衆の中に埋没させていたいと思うのは当然のことだからだ。僕もまた、警察官という立場にいることで、自分を、少なくとも秩序を構成する集団に置きたいという、言ってしまえば個人ではなく社会や世間体に向けた、無差別な想いがあるではないか。

 だから、彼女を凶行に走らせたのは、そんな回転の中で螺子が空転してしまったわけでは無い。

 ここで話は、相原千代の母親の話に繋がった。


 相原千代の母親は、主人にこっぴどく扱われてから、すっかり気を病んでしまった。美しかった相貌はみるみる崩れ、肌が荒れて化粧がまるで乗らなくなった。化粧というものは、一種のエチケットであるとか耳にしたことがあるが、彼女は、化粧という行為が満たす一種の変身願望すら満足に得られなくなっていた。

 彼女が、その美しさをまざまざと世間に誇っていたわけでは無い。ただ、彼女自身も気が付いていた。

 自分という存在の価値は、どこまで行っても美しさにしかないということ。醜い自分という器を満たすだけの価値観を、彼女は齢四十近くになって、まるで持ち合わせていないことに、漸く自覚的になったのだ。

 人に会うことを拒み、千代の母親は部屋に引きこもる様になった。それが、千代がだいたい小学校を卒業した辺りから続いていたから、千代という少女は、ここ三年ほど母親の姿を見なかった。

 尋常であれば異常だと思うべき事態だが、相原千代という少女は、それに関してもなんら思うことは無かった。それは彼女から何か、人として重要な成分が欠けているとか、そういう批判的な意味合いを為すわけではない。ただ、人は慣れるということ。そして均されてしまった心は、そう簡単には起き上がることが無いということを意味している。

 証左に、千代は涙の味をとうに忘れて久しかった。

 

 その日は水曜日だった。天が水瓶をひっくり返したような豪雨の最中、中学校から帰って来た千代は、すっかり濡れてしまった靴と靴下を脱いで、裸足で廊下を歩いた。

 近くで雷鳴が轟いた。

 稲光が、濡れた家々を反射して、その悍ましい光を振り撒いた。

 千代は唐突な神の怒りに、うわっと身を屈めたりして、少ししてから下らないことだと割り切った。彼女は自分の部屋に戻ろうとしていた。

 切れかけの白熱電球がチカチカ笑って、その度に古家のテクスチャは黒くなっていった。カビの臭いが冷たく冴えていた。屋根に打ち付ける雨の塊が爆ぜて、天井は祟りのように軋む。

 彼女の水分を湛えた裸足が、ぺたりぺたりと、微かな妖しさを奏でながら歩いた。夏にも関わらず冷え切った廊下を、千代はくるぶしの辺りの冷えを気にしながら歩いた。

 そして丁度、母親が籠っている部屋の前を通り過ぎた。

 その瞬間襖が空き、掛け布団に身を包んだ、化け物のような母親が現れた。

 空間ごと動くようだった。碌に洗濯もしていない衣服と布団に染み込んだ、汗とフケの汚臭が千代の鼻先を突いた。

 雨の匂い。音。雷鳴も稲光も、その瞬間は二人から遠かった。

 濡れて黒々と照る千代の髪と、脂で張り付いた母親の髪が、同じ空気に触れて異なる輝きを放つ。

 千代は三年ぶりに母親の声を聴いた。


 それはあの時の言葉だった。

 千代の母親が、千代を抱えて、主人の元へと走り。千代の存在が明るみになり。二人がすべてを失ったあの時。周囲の人間に浴びせられた不貞への罵声と卑猥への暴言と、存在の否定。人が抱く中で、最も黒く、井戸の底へと押し込められていなければならない感情の渦が、雨音よりも雷鳴よりも轟いた。

 千代の母親の中では、時が止まってしまっていた。世界のすべてから存在を否定された瞬間から、彼女の心は完全に閉じてしまっていて、時計の針が泣くことはなかった。永遠の嗚咽と絶叫が、この十五年という長すぎる月日の中で、その威を絶やすことなく燃え盛っていた。

 誰もが知ることだが、一度心に受けた傷が癒えることは絶対に無い。いくら上辺で肉を取り繕おうと、痛みの記憶が消去されることは無い。

 母親が燃やしていた怨念は、今でも内から彼女を痛めつけていた。

 そしてそれは、千代も全く同じであって。

 母親の浴びせる罵声は、千代を遠く昔へと還していた。まだ物心付く前に、母親の腕に抱かれながら聞いた最悪の唄が、彼女の記憶を遠い過去へと戻していった。

 こけた頬を伝う母親の涙。空いた腹を撫でて謝る声。抜けた髪を拾い集めて震えるその拍動を。

 千代は無意識のうちに思い出し──それはやがて、意識的な表面にまで浮上してきた。

 千代は自らの生い立ちに起こった不幸の全てを思い出した。誰も自分たちを救ってくれなかったこと、誰も手を伸ばそうともしてくれなかったことを恨み──同時に、自分たちはきっと、頭が悪い母親と、均されてしまった自分では、誰の手も掴み返すこともなかっただろうと、賢く理解する自分を憎んだ。

 病んだ母親の声は、著しく唾にまみれていた。歯垢の臭いの沁みついたそれを、逃れることなく一心に受けながら、千代という少女の深度は、遠く、遠く、原初へと還ってゆく。

 赤子に色を名付けるなら、きっと白色なのだろう。しかしそれは、誰かがイメージする天使の翼にあやかった純白ではなく、何も描かれていない画用紙の白なのだ。それは、何色にも染まることが出来るし、何でも描くことが出来る。そしてその白色が絶望の礎であるか希望の礎であるかは、染められるまで分からない。

 子どもの運命を左右するのは大人と環境である。それは絶望的な事実だが、絶対に覆すことはできない。この世に不幸が一つあるとするならば、自分が自分であるということだけなのだ。


 喘息に疲れた千代の母親は、その場に座り込んだ。一頻りすべての暗黒の感情を吐き捨て終えると、彼女を支えていたものは一度に断ち切られた。

 千代はそんな母親を無意識の内に眺めていた。みすぼらしい恰好と、写真とはまるで異なる肌、瞳、髪。すべてが酷いものだった。実の娘であるからこそ、親のその醜態には明確に批判的でいられた。これも当然の事実であるが、最も安全に批判的であれるのは、親しい間柄だけである。

 母親は、娘の視線に気付くと顔を覆った。

 そして見るな見るなと叫んだ。こんな私を見るなと言って、その勢いのまま彼女を突き飛ばした。渾身の行為だった。尋常中学三年生の女子が、大の大人に突き飛ばされれば、その体は簡単に倒れるだろう。しかし、こともあろうか千代は、倒れるだけでなく、窓まで吹っ飛んだ。

 千代を支えるものは何も無かった。母親の罵声によって、彼女の心は赤子の頃へと還っていた。

 窓に叩き付けられ、うなじ越しの骨でその冷えた温度を確かめながら、千代は沈みゆく意識の最中、母親の最期の言葉を耳にした。

『私の顔を返せ』


 その言葉は相原千代を、より深い絶望に突き落としたように思われる。

 千代は二人で一緒に、すべてを喪ったと考えていたと。

 母親は、娘に最後の一握を掠め盗られたと考えていた。

 家族として。血の繋がった親子として。

 最後に残った想いは、いとも容易く破壊された。


 ──────────・・・


 相原千代は泣いていた。その涙が、僕たちへと雨を振り撒く夜空よりも、もっとずっと蒼く見えるのは、僕の持つ赤色が薄れているからとかそういう無粋な意味合いではなく、きっと世界が、彼女の為に啼いているからだ。

 昼間は暑く照る夏の日であろうとも、夜ともなれば過ごしやすいくらいに涼しいし、今日みたいに雨が降っていれば尚更のことである。

 耳元で、雨が鳴る。

「勇気を出して話してくれてありがとう」

 千代さんはしゃくり上げて泣いた。どうも、気持ちの悪い表現だが、泣き慣れていない感じがした。涙が流れる意味、そしてその熱さに困惑しきって、千代さんは何度も涙を拭っては、払った。すべてを我慢して押し殺してきたから、心から泣いたことがなかったのかもしれない。

 それでも彼女に過去を語らせたのは、彼女自身の力である。

 そう。勇気だ。彼女は勇気を以て唇で歌った。

 この盛大な濁音に──稲妻に、決して掻き消されぬようにと。懸命に呼吸をしたのだ。

 僕は敬意を表したい。千代さんの生き様に。

「僕の話をさせて欲しい」

 千代さんは少ししてから頷いた。雨に濡れた髪は張り付いていて、でも、その間隙から見える瞳は、虚の中で輝く宝石のように、その色を忘れない。

 僕は息を、自覚的に吸い直した。

「僕は、君と違って、多分普通で、幸福な人生を送って来た。やさしい母親とたのしい父親に挟まれて、いつも笑って生きてきた。他にも、友達にも恵まれた。僕ほどの果報者はいない。

 だからこんな風にお気楽に育ってから、返さなきゃって焦る様になった。 

 今まで貰った幸せを全部返さなきゃいけないって思うようになって、それで──」

 息を吸い直す。自覚的に。

「でも親も友達も、みんな既に幸せなんだ。人に幸せをあげられる人は、みんな幸せなんだよ。それに気づいて、僕は些細な絶望をした。これまでの恩を誰に返せばいいんだって、悩んで。

 それで警察になった。個人に返せないなら、社会や世界に返そうって。

 誰でも良かったんだ。誰かを守れれば、それでよかった。

 だからこれは無差別な善意なんだよ。

 君と同じように、誰でもよかった」

 腹部の痛みは、もう殆ど消えていた。感じなくなったというのが正しいかもしれない。傷を抑える時、痛みに震えていたはずの手は、今では寒さに震えている。血が足りていないという実感があった。霞む視界の中、千代さんはへたり込んでしまっている。裸足からは血が流れていた。僕と同じ色の血が流れていた。きっと、裸足のまま家を飛び出したのだろう。

 僕の腹部から流れた血と、彼女の血が混ざって、そのまま遠くへと流れて行った。 

 稲光が走る。

 破壊的な閃光が世界を貫いた。

「君を取り巻く環境に、僕は……畏れ多くも同情する。本気で分かっただなんて思わない。君の背負ってきた十五年間は、この、たかが五分かそこらの会話で理解されてしまうほど、浅はかなことじゃない。子どもだからこそ見える景色がある。見えてしまう景色がある。

 僕は

 ただ漫然と生きて──君のような人を救えなかった自分が憎い」

 弾丸のような雨が撃ち付ける。

 傾いた耳に容赦なく入り込んで、自分の声すら溺れているかのように判然としない。足りなくなった血液を必死に巡らせようと、心臓は無謀にも跳ね上がる。収縮し、拡大する音は、まるで硬い肉を噛むようで気持ちが悪い。

 千代さんは、こんな混沌の中で、勇気を振り絞って告げたのだ。無差別な僕に、彼女は言葉をくれたのだ。

 報いるならば今しかない。こんな面会の時間は、もう終わりも近い。

 僕と彼女が話す機会もこれで最期なのだから。

「だから最期にお願いだ。僕を暴行犯にしておかないか。君の刺突は、正当防衛だ。

 場合によっては過剰防衛と取られる可能性があるかもしれないが、それにしたって、君の罪が軽くなることは間違いない。

 おいで。腕に爪を立てるから。

 大丈夫。君に傷は残さない」

 千代さんの細腕は、暗夜の中でも白く浮き上がって見えた。嗚呼幽霊の正体だ、なんて笑いながら、まるで微動だにしないその腕に向けて、手のひらを差し出す。

「お願いだ」

 今まで自覚的に個人を助けようとした経験は、僕には無かった。警察という職務の上で、誰かの悩みに寄り添ったり、走ったり。僕に出来る事はすべてしてきたつもりだった。感謝され、謝罪され、そして引き換えに金を貰う。

 手元の金を見るたびに、僕はなんだか自暴自棄に陥るようだった。自分が人を助けている理由が薄れていく気がした。勿論過剰な潔癖症が妄想を生み出したことは言うまでも無い。無いが──

 けれどもこの少女だけは、警察の僕には救えない。

 職務という安定、器を捨て去り、その上で社会や世界という無差別な対象ではなく、目の前の誰かを助けたい。

 欲望が、頭の中央で燃えていた。

 僕の願いは此処に在る。

 少女の腕は、雨に濡れて冷え切っていた。しかしその白磁の透明をすり抜けて、僕は彼女の熱を見る。

 満身の力を込めて、小規模の少女を抱きしめる、願う。

 貴方の人生に、祝福の多からんことを。

 貴方が生きるこの世界に、祝福が残されていますように。





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