落ちこぼれ魔法士は、氷姫の秘めた想いを解読する

ゆうきちひろ

第1話 落ちこぼれ魔法士と理性至上主義の塔

氷の結晶が粉々に砕け散った。

試験官の視線が一段と冷たくなる。


「また失敗か……クロード・ハーウッド」


試験室に失笑と嘲笑が響く。

冷ややかな視線が彼の胸の銀の紋章――くすんだ灰色、学院における落ちこぼれの証――に向けられていた。


クロードの手がわずかに震えた。

今朝から3時間かけて準備した魔法陣、100回以上繰り返し練習した詠唱、そして何より、必死に感情を抑え込もうとした努力。全てが水の泡だった。


「今回も理性値は3.2。学院史上最低記録だな」


試験官はうんざりしたような目でクロードを見下ろす。その目には同情の欠片もなかった。


「事前練習では5.4まで達していたのですが……」

クロードの弁明は空しく響いた。


「言い訳は無用だ。結果が全てだ」


試験官の冷たい言葉に、クロードは歯を食いしばった。どれだけ努力しても、詠唱の瞬間に押し寄せる感情の波を抑えきれない。

(なぜ自分だけが……)


7つの尖塔が空を突き刺すエーテルクレスト魔法学院。

創立300年を迎えるこの魔法学院は、7つある魔法院(魔法研究機関)の頂点として揺るぎない権威を誇っていた。


エーテルクレストの魔法体系は単純明快だった。

魔法士は詠唱によって自然界のエーテル(魔力)を操り、様々な現象を引き起こす。その際、理性によって感情を徹底的に抑制し、純粋な意志のみで詠唱することが「純粋詠唱」と呼ばれる正統な手法だった。

感情の混入は詠唱の乱れを招く「穢れ」とされ、それを数値化した「理性値」が魔法士の評価を決めていた。


クロードの胸の銀の紋章がくすんだ灰色を示すのは、彼の理性値が異常に低いことの証だった。

それは彼が感情を抑制できないのではなく、彼にとって詠唱が別の意味を持っていたからだ。詠唱の言葉の奥に隠された感情の色彩が、彼にだけは見えてしまうのだから。


その威厳ある学院で落ちこぼれた魔法士を表す「落理魔法士」という蔑称を投げかけられる度、クロードは古代魔法の書物に向き合った。埃まみれの文献の中で、彼は詠唱中に自分だけに聞こえる色彩豊かな感情の意味を必死で探していた。


「なぜ、僕にだけに聞こえるんだろう?」


詠唱に混じる感情。それが聞こえることは欠陥なのか、それとも何か特別な意味があるのか。

答えの見つからない問いに幾度となく心が折れそうになった。


「これは欠陥じゃない。きっと……何か意味があるはずだ」


幼くして両親を亡くし、親類の間をたらい回しにされたクロードは、一人読書に没頭する幼少期を送っていた。周囲の嘲笑や蔑みに耐えられたのは、読書を通じて知った古代の魔法使いたちが残した言葉が、クロードの進む道を照らしていると感じられたからだった。


「心浄化の儀式を始める」


厳かな声が響き渡る中、クロードは思わず眉をひそめた。

学院の中央広場に整列する黒衣の学生たち。その胸の紋章が一斉に輝きだす。

純白、純白、また純白――。


《理性こそが全て。感情は穢れなり――》


学生たちの詠唱が始まる。その声に混じってクロードには聞こえる。抑圧された感情が作り出す、儚い色彩の声。

悲しみの青、怒りの赤、喜びの黄金――誰にも聞こえない色彩の交響曲。


(こんな美しい色彩をなぜ消そうとするんだろう)

クロードは心の中でつぶやいた。


青く透き通った六角形の浄化水晶を中心に上級生たちが円陣を組む。

全ての学生の胸には、感情の抑制度を示す理性値を刻んだ銀の紋章が光っていた。

理性値が高いほど紋章は白銀色に輝き、低いほど灰色に近づく――学院内での地位を決める絶対的な指標だった。


厳粛な雰囲気の中、学院長アウグストゥス・グランドクレストが壇上に姿を現した。長い白髪と髭を蓄えた威厳ある老人は、鋭い目で学生たちを見渡す。彼の胸の紋章はまばゆいばかりの純白に輝いていた。


「我がエーテルクレスト魔法学院の精鋭たちよ」


低く響く声が朝霧の立ち込める広場に響き渡る。


「我らが学ぶ魔法の道は理性の光によってのみ照らされる。感情という穢れを捨て去り、純粋なる詠唱を目指すことこそが、七大魔法院の頂点たるエーテルクレスト魔法学院の誇りである」


学生たちは背筋を伸ばし、表情を引き締めた。グランドクレスト学院長の言葉は「四大感情律」として学院の基本理念となっていた。


「おい、ハーウッド。四大感情律をちゃんと復唱しろ」

上級生が意地悪な笑みを浮かべる。


クロードは内心で溜息をつきながら口を開いた。

「第一律、感情は魔法の穢れなり――」


一句ごとに彼の目には色とりどりの光が見えた。理性を説く言葉の下に隠された、確かな感情の輝き。


「――理性の極致にて完全なる魔法は成る」


最後まで復唱し終えると、からかっていた上級生が驚いた表情を見せる。完璧な暗記力が、それ以上の嫌がらせの芽を摘んでいた。


「理性値は最低でもお勉強だけは一級品か……」


彼らの内なる感情を浄化し、理性の力を高める神聖な儀式が続き、光が広場を包み込む。学生たちの純白に輝く紋章が一斉に明滅する。


しかし、一人、クロード・ハーウッドの胸の紋章だけが、くすんだ灰色に輝いている。

周囲の学生たちから、小さな囁き声が聞こえてきた。


「見ろよ、ハーウッドの紋章。今月も最低理性値だってさ」

「落理魔法士の異名は伊達じゃないな」

「あいつ、なんで退学にならないんだろ?」


理性値が低すぎる者は学院にいる資格がないと言われることもあるが、学院にとってクロードのような者は理性の名の下に矯正される格好の的――学院が行う教育の成果のアピールになるのだろう。


クロードはそれらの声を無視し、儀式の詠唱に耳を澄ました。詠唱の一つ一つの言葉が持つ古の意味、文法構造、音の波動を解読することは、彼の数少ない才能であり、密かな喜びでもあった。


心浄化の儀式が終わり、学生たちが教室へと向かう中、クロードはふと高い塔の窓に目をやった。

塔の窓に一つの影が映っていた。

銀色の髪が朝日に輝き、まるで氷の彫像のように美しい横顔。


アイリス・フロストヘイブン――「純氷律姫」と呼ばれる学年首席。彼女の胸の紋章は誰よりも強く白銀に輝いている。


彼女の完璧な横顔を一瞬見ただけで、クロードの胸は締め付けられた。到底届かない存在。そう諦めながらも、彼は目を逸らせなかった。


「完璧に、感情を、抑えて……」

彼女の囁きが風に乗って届く。

氷の結晶が淡く輝く。アイリスの詠唱は完璧だった。


だが、クロードには何かが引っかかった。詠唱の奥に微かに揺らぐ感情の波が聞こえる。

(……気のせいかな?)

彼は首を振った。

完璧な純氷律姫に迷いがあるはずがなかった。

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