三章 水深8m

第9話 水深8m.1

「え?」


 カラオケ終わりのファミレスで、桜色のカーディガンがよく似合っている千花が珍しく間抜けな声を上げた。


 私はそれがおかしくて、彼女にどう思われるか分からない不安を忘れて笑って、直前の言葉を繰り返す。


「だから、千花がさっきカラオケにいたとき、部屋の片づけをしてくれていたでしょう?私は、『片付けさせて悪いわね』なんて言いながら棒立ちしていたけれど、あのとき、貴方のココ、見ていたのよ」


 そう言って私は、自分のブラウスの襟を何度か引っ張ってみせる。胸元から千花の谷間を覗き込んでいたことを示す仕草だ。


 まぁ、決してお上品な話ではない。いかにも俗物ですと自分のことを教えているようなものだが、千花はそんな私を軽蔑することはなく、むしろ、楽しそうに笑った。


「あは、あははは!それ、私に言っちゃうのすごいですね」


「あら、お褒めにあずかり光栄よ」


「褒めてないですよぅ。でも、夕陽さんらしいと言えば、らしいです」


 千花とただならぬ関係が始まって、はや二週間。毎週末、彼女と時間を共にするようになって分かったことだが、意外と彼女は俗っぽい話題も苦にはしない。


 曰く、下心を隠すような薄汚さには嫌悪感を覚えるが、あまりに明け透けにされた下心については、一周回って面白さを覚えるとのことだった。おかげで私も自分の気持ちのほとんどを隠さずに済んでいるから、本当に、千花との時間は幸せだった。


「でも、大人として忠告よ、千花。ちゃんと周囲の視線には気をつけること。どこでだって、誰が見ているか分からないもの」


「えぇ…?私、夕陽さんみたいにスタイルよくないですし…。誰が見るんですか」


「見るわよ。私みたいな人間が」


「ふふっ。そうですね」


 千花が幸せそうに笑う。それだけで、私はこの奇跡みたいな関係性に多大なる感謝を感じていた。


 時刻はすでに夜の9時。久には連絡しているが、あまり遅くならないようにと言われている。まぁ、この場合、零時は過ぎるなよ、というぐらいのニュアンスなので、まだまだ千花と一緒にいられそうだった。


 久は、私が千花と頻繁に会うことについて、何の疑問も抱いていない様子だった。元々外に出て他人と関わらない私が行動パターンを変えたことには違和感を覚えないはずもないが、ここがまた彼の素敵なところ、わざわざ自分から、パンドラの匣を開こうとはしないのである。


 すでに久には、私が持てる最も特別な枠を与えている。人生のパートナー、配偶者という特別枠を。だからこそ…自ら暴くような真似、してほしくはないし、久もしないのだろう。


 こうして下心をもって千花と会っていても、何の罪悪感も抱かなかった。それはもしかすると、まだ恋人らしいことは手を握ることくらいしかしていないからかもしれないが…。


「この後、どうしますか?」


 珍しく、千花のほうが次の予定を聞いてきた。いつもは話すのに熱中して、時間なんて忘れるのに。


「なぁに?もうカラオケには行かないわよ」


「えっ?さすがに行きませんよ!7時間はいたじゃないですか」


「ふふ、冗談よ」


 そうは言いつつも、歌うのが大好きな千花のことだ。これからカラオケに行っても楽しく過ごせるのだろう。


 私は千花にどこか行きたいところでもあるのかと尋ねた。すると千花は、明後日の方向を見上げながら考えを巡らせる様子を見せた後、苦笑しながらこう答えた。


「時間も時間ですしね、どこがありますかね…?」


 一瞬、下種な脳味噌が『ホテル』と考えたものの、さすがにそこまで気は触れていない。まだ私と千花は手を繋いだだけ(しかも、私が一方的に)のプラトニックな関係だ。


 まぁ、今後それ以上のものに発展しうるのかどうかは、未だに私も疑問を抱いている。千花は『私にできることなら全部』してあげたい、と言ってくれたが、それは彼女の想像力が子どものまま止まっているからに過ぎないのではないかと私は思っている。


 私が汚泥のような心内で考えている邪なことを知れば、きっと千花は飛び上がって私から距離を取ることだろう。いや、そんなマニアックなプレイを求めているわけではないが…。


 私は少し考えてから、「じゃあ、ドライブでもいかがかしら?」と提案した。ドライブは、千花がカラオケの次に好きなことだった。




 千花は私の提案に一も二もなく飛びつくと、共に会計を済ませ、車へと移動した。ちょっとした情報だが、千花は決して私に奢らせようとはしなかった。むしろ、彼女は私が奢ろうとすると明らかに嫌そうな顔をした。曰く、『対価のある関係って、好きじゃないかもです』とのことだ。


 罪悪感を抱くこともなく既婚者と特別な関係にはなる癖に…こういうところはやはり変わっている。無論、それが千花の魅力でもある。


 ゆっくりと夜の闇に漕ぎ出した車は、そのまま市内中心部から郊外へと向かった。人が少ないほうが色々と都合がよいのである。対向車のライトに目が眩むこともなければ、万が一にも知り合いに見られることもない。


 夜天を滑る飛行機みたいに、夜を行く。その中で、千花はたくさんの話をしてくれた。小学生時代の思い出、行ってみたい場所、好きな漫画や小説、アニメの話。そして、彼女を語る上では欠かせない、ロックバンドの話も。


 途中、千花が川沿いを行きたいと言ったから、道を逸れて堤防沿いを走った。


「何も見えませんね」


 千花が残念そうな、でも少しおかしそうな声音で言う。


 彼女が言う通り、市内最大のこの川は、星や街灯に照らし出されることなどはなく、暗黒を水面に浮かべていた。


「そうね、何もかも飲み込んでしまいそうに暗いわ」


「ちょっとだけ、怖いですね」


「あら、そう?どうして?」


 私は前を向いたまま首を傾げる。


「えー、だって、こんなに暗いとどこからが危険で、どこまでが安全かも分からないじゃないですかぁ」


「なるほど、千花はそう思うのね」


「夕陽さんは違うんですか?」


「まあ、そうね」と私は頷く。千花が続きを促している感じがしたから、私は説明を始めた。


「たった一色の黒で、深く澄んでいるわ」


 これだけじゃ説明にならないか、と内心で肩を竦めていると、隣で千花がふふっ、と笑った。


「果てがなくて、綺麗ってことですか?なんだか、夕陽さんが好きそうな表現ですね」


 ほんのわずかな言葉。一行にも満たない言葉で、千花は私の言わんとするところを理解する。


 久にこんなことができるだろうか?いや、できるはずもない。彼は私の良き相棒ではあるが、真の理解者にはほど遠い。私の考えていることも、言うことも、永遠に理解することはできない。説明しても小首を傾げるのだ。


 無論、彼の頭が悪いわけではない。彼は聡明だ。ただ、哲学的な思考や、抽象的で、およそ現実では糞の役にも立たない考え方に興味がないのだ。


 でも、千花は違う。私と見ている方向が同じだ。


 人間の頭の中のこと、生き方のこと、共通的無意識のこと…あぁ、千花は本当に私を退屈させない。


 私はたまらなくなり、千花の手をまた無許可で握る。


「わぁ」と驚いたような、とぼけたような声を千花が出す。


「よく私のことを分かっているわ。もう、そういうところに私は惹かれてしまうのね」


「えー、えへへ…」


 こちらは千花の可愛さのあまり口説き始めたというのに、彼女はそういう私の気持ちが分かっているのかいないのか分からない、曖昧な照れ笑いを浮かべていた。


 私はもっと、こう、青々とした恋人たちのようなやり取りがしたかったのである。だから、それが愛情には鈍感な千花にも伝わるよう、彼女の小さな手のひらを握る指先に力を込める。


「千花、私今、貴方を口説いているのだけれど?」


「え?あぁ、そうなんですか?」


「そうよ。もう」


「そっかぁ…それなら、嬉しいです」


「本当?」


 私は堤防沿いを切り裂いて進みながら、ちらりと横目で千花を一瞥した。


 苦笑か照れ笑いかも判断のつかない表情を浮かべ、白い頬を対向車のヘッドライトで輝かせる千花。


 きっと、私の焦げ付くような想いは小指の先ほども理解できはしないのだろうと思うと、やりきれない感じがした。


 残念ながら、やはり、彼女は幼い印象が拭えない。実際、知識としても不十分なのだろう。千花自身、恋だとか愛だなんてものはよく分からないと言うではないか。


(…でも、それを残念がる必要はないわ)


 私は微笑んだ千花から視線を前に戻し、うっとりするようなため息を吐いた。


(だって、少しずつ教えていけばいいだけだもの……)


 その考えは、私にとって酷く甘美なものだった。


 純朴な千花に全てを教えていく。すでに社会で働いていく術は教えた。だから今度は、人と愛し合う術を教えるのである。




 私は千花の許可を取って、近くの運動公園に車を停車させた。


 運動公園とは言っても、古びたグラウンドと手狭な駐車場、それから、やけに真新しい公衆トイレがあるだけだ。塔のように大きな照明が四方を囲んでいるが、光がついているところは見たこともなかった。


「…静かな場所ですね」


 千花がぼやく。


「ええ、人通りもろくにないわ」


 エンジンを切って、Bluetoothで繋いでいた携帯から直接音楽を流す。もちろん、選曲は彼女の好きなロックだ。


 およそ1、2分、私と千花は無言のまま夜闇を見つめることに徹していた。


 ぼうっとそびえた連山のシルエットを眺めていると、「今日も、楽しかったなぁ」と千花が可愛らしく独り言みたいに呟いた。だから私も、そっと微笑みながら、「私も楽しかったわ」と返す。


 そのうち、ずっと握りっぱなしだった手に視線を落として、千花が尋ねる、


「あの、手…」


「嫌?」


 わずかな不安を隠して問い返せば、千花は大げさに首を左右に振った。


「嫌じゃないです。ひんやりしてるなぁ、って思って…」


「そう?」


「はい。よく言う、心があったかい人は手が冷たいって、もしかして、本当なのかなぁ…ふふ」


 私に目の前で今、小さな幸せの花が咲いている。


 それはもしかすると、不道徳の土の上に咲いた花なのかもしれない。人によっては、偽りの幸せと呼ぶ者もいるだろう。


 だが、私が思うに、幸せに本物も偽物もない。


 確かに感じられる、胸の奥からせり上がるこの温みに、真贋などあるものか。


 私は得も言われぬ感情に支配され、千花の手を、体を引き寄せた。


「でもそれじゃあ、千花の手があったかい説明がつかないわ」


 抱き寄せた千花の耳元でそう囁く。ほんの少しだけ、千花は呻くような声を発したのだが、それがまた私の心をくすぶった。


「気持ち悪くない?」


「いえ、全然。むしろ、安心します」


「そう。嬉しい」


 許しを得た私は、そのまま少しだけ調子に乗って千花の髪を撫でた。そうすれば、くすぐったそうに、あるいは幸せそうに千花が笑った。


 千花の真っ黒で艶やかな髪が指の間を何度もすり抜けていくうちに、幸せな気分になれた。前の関係性だったら、こんなに近くで見ることは一生なかっただろう彼女の黒曜石が、キラキラと光って私を映している。


 吸い込まれそうだった。


 何もかも引き寄せ、圧縮してしまうブラックホール。


 私はもう、その逃れ得ぬ引力の中に飛び込んでしまっている。


 落ちるように、もしくは、飛び込むようにして、私は千花の瞳にキスをした。


「あ」


 ちゅっ、というリップ音と共に、反射的に目を閉じた千花が可愛い声を発する。


「嫌だった?」と私は繰り返す。


「いえ、びっくりはしましたけど」


「そう」


 予想通り、首を左右に振った千花に私はのうのうと続ける。


「キス、してもいいかしら?今度は唇に」


「え…いや、ちょっと、唇には…」


 根が傲慢な私は、実のところ、その提案が断られるとは一ミリも思っていなかったので、気恥ずかしさと残念さとで焦ってしまった。


「ご、ごめんなさい」


「い、いえ…!あ、あの」


 千花自身も気まずい空気を感じ取ったのか、すぐに話の矛先を変えようと言葉を重ねたのだが…その言葉がまた、私の心の海に大きな波を生むのだ。


「それ以外なら、なんでもいいですから」


「なんでも……」


 思わず、視線が彼女の体に向く。


 特別スタイルが良いというわけではない千花だが、ちゃんと出るところは出ている。千花と触れ合って気分が昂揚している今なら、よりいっそう、その柔らかそうな膨らみは魅力的に見えた。


「…夕陽さん、見すぎ、ですよ」


 照れたように笑う千花に、思わず喉が鳴った。


「…千花、貴方という人は…」


 ゆっくりと千花の体をシートに寝かせ、そのままリクライニングのレバーを引いてシートを倒す。


「あっ…」


 唇にキスすることを拒否されたのは残念だし、正直、ちょっとショックだったが、まぁ、そういう人もいるだろう。私自体に嫌悪感を覚えるのであれば、体に触れることなど、許すはずもない。つまり、些事に過ぎないのだ。


 そして、そんな些事のために、今、目の前で緊張しながらも頬を染め、私を見上げる千花との蜜月を上の空で過ごすのか?いいや、馬鹿らしい。ありえない。


 目の前の彼女が全てだ。この瞬間は、私と彼女だけがこの夜に住んでいる。


「今、前言を撤回しないと…本当に触ってしまうわよ?」


「…うん」


 うん、なんて…どうしてこうも愛らしいことこの上ないのか。


「いいのね、本当に」


 今度は言葉もなく、頷くだけで千花は反応した。


 私は頬に静かな所作で口づけを落とすと、おそるおそる、千花の体に触れた。


 腕に始まり、肩、鎖骨、そして胸…。


 千花は、私の指先に反応して、金糸雀のように綺麗なさえずりを漏らした。魅惑的な声は、私の胸を狂おしいほどにかきむしったが、どうにか自分の制御を完全に失わずには済み、この場所、この関係性で許される範囲の愛撫に留めることはできた。


(ダメダメ…この子は初めてなのよ……ゆっくり、大事に進めないと。下手をすれば嫌われてしまうわ)


 自らを落ち着けるために千花から体を離し、深呼吸を何度か繰り返す。それから、千花の額に唇を当てる。


 すぐそばには、大きく息を乱した千花。彼女は私がどれだけ一生懸命こらえているかなんて知りもせず、「体に力が入りません」とか、「とってもドキドキしてます」とか、独り言のように漏らした。


 普段、淡々と抑揚なくしゃべる千花がそんなことを言うから、冷却しかけていた興奮が再燃し、どうしても、この艶やかで愛らしい桜色の唇を我が物にしてしまいたくなった。


 私は、千花の耳元に顔を寄せ、精一杯の自制心と共にこう尋ねる。


「どうして、唇にキスをしてはいけないの?」


 気持ち悪いから、なんて答えられたらどうしようという不安があっても、聞かずにはいられなかった。


「え、その…」


 千花は息切れした声で、こう続ける。


「チューしたら、離れられなくなるんじゃないかなぁって、思ってぇ…」


 ぼんやりとしたような、まどろみに揺れるような…そんな千花の声を耳にした刹那、私の心に、体にかかっていた歯止めは跡形もなく弾け飛んだ。


 彼女の柔らかい唇に、噛みつくようなキスをする。


 いっそ、傷がつけばいいとさえ思った。


 そうしたら、その傷が治る前に、また彼女の唇に傷をつけよう。


 そうすれば、永遠だ。永遠に、彼女に会える。


 そんな夢物語に及びもしない、自分勝手な考えを胸に、ただ彼女の唇を、彼女との時間を貪る。


 少し乾いた唇も、慣れない舌の動きも、並びの良い歯も、すべてが私のモノだ。少なくとも、今、この瞬間だけは。


 どれだけの時間が経ったのか…私は酸欠気味になって千花から身を離した。


 見下ろす彼女の唇が、見上げる彼女の唇が、ゆっくりと動く。


「……チュー、しちゃった…」


 口元を隠して、小さく微笑む彼女の姿に、私は確かな永劫を感じ、幸せで泣きそうになる心をどうにか落ち着けるのだった。

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