第2話 はじまりの嘘.2

千花の聡明さを思い知るまで、たいした時間は必要としなかった。


 彼女はよく頭がきれた。情報を100%正しく把握し、アウトプットしようとする癖から、発言のテンポ感や回転自体は遅く見えるが、物事を的確に理解する力という点では私が出会ってきた人間の中で随一と言っても過言ではなかった。


 家庭教師がついている、ということだったが、実態は酷いものだった。大学で習うだろう一般教養、そのテキストやレジュメを持ってきているだけなのだ。給料泥棒という言葉がこんなにも現実で当てはまる人間を私は知らなかったので、強い嫌悪感を抱いたのを覚えている。


 当時、21歳の千花は、砂漠の大地のように乾き果てていたのだ。つまりどういうことかというと、本来、その優秀たる脳みそに多くの知識や経験を刻む時期だったはずなのに、誰もそれを与えなかったということだ。


 持っている力、才覚を活かさないこと。活かし方を適切に教えないこと。


 私はそれが、人間が最も唾棄すべき罪の一つだと考えている。だからこそ、千花と一か月の時を共に過ごした頃には、家庭教師の役割も譲ってもらえないだろうかと花島会長を通して藤光会長に依頼していた。千花曰く、藤光会長は快諾したらしい。彼女の言葉添えもあってのことだろう。


 少しだけ、千花のことをここに記そう。そうしたほうが、この後、千花が示す言動をより澱みなく誤解できると思うから。


 千花は見た目こそ高校生の少女に見えるが、実際は初めて出会った段階で21歳と大人の一員であった。もちろん、ここで言う大人という表現は、法的扱いにのみ留まる。彼女は大人と呼ぶには浮世のことを知らなさすぎる。


 引きこもりになったのは、特待生で入学した私立高校で成績を維持していかなければならないことに対する重圧からのものだと聞いた。彼女をただ一人励ましていた祖母の急死もそのガラス玉のような精神を追い詰めたことだろう。


 そうして、千花は若くして気分障害――分かりやすく表現すると、鬱病を発症した。若年で鬱を発症すると病状は慢性化しやすい。千花もその例に漏れず、数年経った今でも薬物療法と月に一度の精神科受診を続けている。


 病気の影響で、千花は時折、酷く物憂げなときもある。些細な言葉や冗談に過剰な反応を示し、不意に涙することもあった。それだけならば比較的すぐに落ち着くのだが、思い詰めすぎたうえに何のフォローも得られていない場合は、号泣したまま動きが完全に停止してしまったり、過呼吸や体の震えを起こしてしまったりすることもあった。


 私自身の名誉のために言っておくが、私は、千花をそんなふうに追い詰めたことはない。彼女との距離感や言葉の受け取り方の目測を誤り、不安にさせて少し泣かせてしまうことはあったが、後述したような混迷に彼女を追いやることはなかった。彼女をそうした淵に突き飛ばすのはほとんどの場合、両親の言葉であり、聡明な彼女の頭が生み出す自責的思考であったのだ。


 とはいえ、これだけ千花について的確に把握するためには、あまりに多くの時間を要したことも伝えておく。


 人が人のことを知ろうとするとき、想像以上の時間がかかるものなのだ。知ったフリをすることはできるだろうが…。


 せっかくなので、私が千花の心に踏み込むきっかけとなったことを記そう。


 あれは、千花とやり取りを始めて二か月が経ち、彼女と6回目の対談が行われた日のことだった。


 


 「こんにちは」


 最初に私が違和感を覚えたのは、いつもだったら狭い歩幅でテクテクと別宅の玄関まで迎えにくる千花が、身じろぎ一つしないどころか、返事すらしなかったことだった。


 たまに、私が来ることを忘れてうたたねしていることもある千花だが、今日は違った。


 彼女は天蓋付きのベッドに横たわり、布団にくるまっていた。


 「…千花さん?」


 耳を澄ませば、すすり泣く声が聞こえてくる。これはどうしたことかとベッドの横に膝をつき、優しい声でこう尋ねた。


 「どうされました?何かありましたか?」


 千花は何も答えない。何度声をかけてもただ石像のように硬直し、時折、鼻をすするだけだ。


 その状態が十分ほど続いた。私は彼女と意思疎通を図ることを一旦諦め、独り言になる前提で呟く。


 「落ち着くまで、そばにいます。安心して下さい、急かしたりしません。ゆっくりとで構いませんからね。――もし迷惑であれば、そうおっしゃるなり、布団から手を出すなりして下さいね」


 数秒待っても、千花は何も言わず、手を布団から出すこともなかった。もしかすると、全く動く気力がないのかもしれないが…一先ずは受け入れてもらったと信じて、この場に残ることとしよう。


 私は、真冬でもいつもわずかに開かれている窓が閉ざされていることに気がついた。それはまるで、彼女の心の扉であるような気がしたから、一声かけてから立ち上がり、わずかに開けた。


 十二月のひやりとする風が室内に流れ込む。暖房は入っているが、首筋に触れる冷気は酷く他人行儀だ。


 千花の体に毒かもしれないとも考えたが、換気しないほうが毒だろうと考え直す。


 私はベッドのそばに戻ると部屋を見回した。不躾かもしれないが、普段はこんなふうにゆっくり観察することもできないから、つい、魔が差したのである。


 背の高い本棚には、文学小説や過去の文豪たちのエッセイに始まり、料理やお菓子作りの本が並べられている。作業机を挟んだ、同じデザインの本棚には色んな漫画がひしめいている。机のラックには名前も知らないミュージシャンのライブDVD。思っていた以上に多趣味で、なおかつ、俗っぽいようだ。


 枕元には編みかけの……なんだろう?レースでできた何か。アニメのキャラクターらしきぬいぐるみが着ている服も手作りみたいだから、そういうものを作っているのかもしれない。


 浮世離れしている印象、それこそ、深窓の令嬢のようなイメージの強い千花だが、年相応の趣味も持ち合わせているのだ。


 そうして部屋を観察し始めて、どれほどの時間が経った頃だろう?不意に、そばですすり泣いていた千花が声を発した。


 「…ごめんなさい…」


 蚊の鳴くような声だった。


 生きる気力もないのに、どうにか今を繋ぎ留めている…舞い散る寸前の花びらのようだ。


 この響きを耳にして、心が痛まぬものがいるだろうか?あるいは、どうにかしてやりたいと思わぬものが。


 「謝らなくていいんですよ。謝られなければならないようなこと、私はされていません」


 時計を見れば、彼女は私が来てからおよそ30分でようやく声を発していた。


 「……ごめんなさい」


 長い沈黙の後、再び謝罪がなされる。


 謝るな、と言ったところで彼女を追い込むだけだ。私は今ならやり取りができるかもしれないと期待し、膝を揃える。


 「何があったのか、教えてもらえますか?」


 さらに、しばしの沈黙。


 まだ信頼形成が出来ていないか、と諦めかけたそのとき、千花が弱々しい声で言った。


 「お母さんからの手紙を、読んだんです」


 「お母様からの手紙?」


 これはどういうことだろうかと、言葉を繰り返す。


 千花の母親は海外赴任して久しく、ここ数年、一度も日本に帰ってきていないと聞いている。そんな母親が、一体どんな手紙を千花に送ったというのだろう。


 「どんな手紙だったのですか?」


 わずかな間の後に、千花は意外なことを言った。


 「綺羅星さんへの、手紙です」


 「私に?」私は面食らって自分を指差す。「あの、千花さんのお母様がどんなご用件だったのでしょうか」


 「私のこと、なんです」


 「千花さんのことですか」


 繰り返す。人の話を聴く時のコツの一つだ。


 「はい」とようやく千花が布団の隙間から顔を出した。


 泣きじゃくり、涙でいっぱいになった黒目がちの瞳。


 不覚にも、そして、不謹慎にも、私はそのオニキスが宿す銀河の瞬きを受け、美術品を見ているような心地になった。


 藤光千花を苛む数々が、彼女の不幸を月明の下に引きずり出し、幻惑的に輝かせていて、見る者をたまらない気持ちにさせる。いや、もっとハッキリと言おう。彼女を抱きしめたいと思った。降り注ぐ辛酸から守りたいと。


 (……何を考えているのかしら、こんなときに。これも仕事なのよ、夕陽)


 やがて、千花はとても緩慢な動作で布団の間から手を出した。


 「これ…」


 病的なまでに白い手には、涙に濡れ、折り曲げられた美しい桜色の便箋が握られている。なるほど、これが私への手紙とかいうものか。


 「読んでも構わないのでしょうか?」


 答えが分かっていながら、一応、尋ねる。案の定、千花は承諾した。


 私は震える千花の手から手紙を受け取り、一拍置いてから、便箋を開いてみた。


 中には、色々なことが書かれていた。


 季節の挨拶に始まり、千花の母親として本当は面と向かって言葉を交わしたかったこと。親としては、二十歳を越えた彼女に何か仕事をさせて社会人経験を積ませたいということ。ゆくゆくは自社で働かせていきたいということ…様々だ。


 だが、話の本旨はそこじゃない。千花の母親がしたかった一番の話は、彼女の精神病的特質、症状、特性と言われるものについてだった。


 その手紙に記されていた内容を、私はあえてそのままに伝えよう。そのほうが、千花の感じていた虚無感や寂寥感を断片的にでも理解する助けとなるだろうから。


 ①とても繊細で、落ち込みやすいです。


 ②酷く落ち込んだときは、何を話しても無駄で、まともな会話にならないことが多いです。


 たったの二項目。たったの二行。


 個人の傾向や性格を記すのに、たったそれだけの情報量。それを血のつながった母親にされるのだ。どれだけの孤独や虚しさが千花の心の空洞に吹き荒れるのか…想像するのも難くないことだろう。


 私は手紙を読み終わると、そっとベッドの縁にそれを置いた。そしてそれから、千花には決して聞こえないようにため息を吐いて顔を片手で覆う。


 (…可哀そうに、きちんと“見て”もらえていないのね。お忙しいとは聞いているけれど、これでは千花さんがあんまりだわ)


 なにをどう捉え、考え、感じ、なぜ落ち込むのか。


 それを、きっと千花の母親は知らない。おそらくは父親も、祖父も、ハウスキーパーも、誰も。


 私は少しだけ言葉を頭で整理してから、できるだけ穏やかに、聞き取りやすいアクセントでこう尋ねる。


 「千花さん、一つ聞いてもいいですか?」


 こくり、と布団の中で頭が縦に動く。


 「千花さんは、この手紙を読んでどう思ったのでしょう」


 


 「どう…」


 少し困惑しているふうだ。抽象的すぎたかもしれない。


 「落ち込みましたか?憤りを覚えましたか?それとも、不安になりました?――私は、貴方の感情の機微を知りたい。いえ、正確には、貴方のことがもっときちんと知りたいのです。大事なことを見落とさぬように」


 千花は明らかに驚いている様子だった。目は丸く見開かれ、口はぽかんと空いていた。だが、そのうち思考する余裕が生まれると、ゆっくりと着実に自分のことを言葉に変え始める。


 「悲しく、なりました」


 こくり、と私は頷く。


 「それはなぜ?」


 数秒して、千花が答える。


 「たしかに落ち込みやすいかもしれないけど……落ち込みやすいのには理由があって、色んなことを考えるから、体に力が入らなくなるんです…」


 「色んなこと?例えば、とか、具体化できます?」


 「はい。…なんか、私のこと、理解するつもりないのかな…とか。迷惑、なのかなとか、考えちゃいます」


 「そう…もう少し、きちんと自分のことを知ってほしい気持ちとか、迷惑をかけているかもしれないという気持ちがあって、苦しいのね」


 「はい。そう、です。そうなんです」


 少しだけ驚いた様子で千花が何度も頷く。こんなふうに話を聴いてもらえる経験に乏しいのだろう千花は、幾度となく視線を逸らしながら、でも、断続的に涙できらきらする眼差しを私に浴びせている。


 なるほど、自信の感情を言語化することに問題はない。むしろ得意そうだ。気分障害の診断が下りているわりに反応も素早い。


 この二か月、多少なりと千花の信頼を得ている実感はあったが、その内側に踏み込む機会には恵まれずにいた。


 絶えずコミュニケーションを図り、粘り強くラポール形成を考えていくしかないかと思っていたが…これは彼女の心に触れる絶好のチャンスだった。


 私はそっと優しく声を発した。


 「ねぇ、千花さん。私はお母様には悪いけれど、こんな無機質なインクが綴る貴方ではなく、本当の貴方を、その言葉で知りたいと思っています」


 ふっ、と千花の瞳に影が落ちる。拭いきれない疑念があるのだろう。私は所詮、週に一度会うようになっただけの、付き合いの短い他人だ。


 だからこそ、今、このときが潮時だった。これを逃せば、時の流れに彼女との関係性を委ねることになる。


 私はシーツ越しに、千花の手に触れた。布地の下でとっさに手を引いた彼女の反応に、やりすぎたかと思ったが、開かれた本を閉じるわけにはいかない。勢いのまま、言葉を紡ぐ。


 「教えてくれませんか?千花さん。貴方のことを」


 千花の視線が、右、左、右、左、とちらつく。


 千花の桜色の唇が、小さく開いて、閉じて、開いて、閉じて…。


 逡巡が、迷いが見える。


 …どう出る。


 


 「私、いないほうがいいのかな、って、おも、思うんです」


 


 こぼれた。


 青々とした葉の上に乗っていた、悲しみと寂しさ、孤独が詰まった一滴が。


 


 こくり、と頷く。聴いていることを、きちんと表現するために。


 「お母さんも、お父さんも、私がいないほうが、仕事もしやすいと思うんです。診察代とか薬代とか、お金ばっかりかけて……私がいないほうが、世界は色んなことが綺麗に回るんですよ。きっと…」


 その後も、千花は色んなことを語った。


 千花が紡ぐ言葉のほとんどが自分の存在を否定するものか、無価値さの証明ばかりだったが、それでも、今まで彼女と交わした言葉の中で一番、真にその心から漏れ出したものだという確信があった。


 私は、否定も肯定もせず、受容のみを続ける。


 ひたすらに頷き、時折短い相槌を打ちながら話を聴いた。


 いつも千花が身を寄せている窓から、橙色の鮮やかな夕焼けが入り込んできても、ずっとそばにいた。彼女が、私が口にする小さな冗談に微笑むことができるようになるまで、ずっと…。


 夜の星が瞬き、月明が真っ暗な部屋を照らす。千花の美しい黒髪に、月の女神アルテミスがそっと口づけを落としていた。

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