第39話:双六の果て【急 • 三】

五月二十二日 深夜


 盤面は、ゴールの淡い光を目前に控え、張りつめた空気だけが室内に漂っていた。格子の木目は残り数歩。しかし、そのわずかな距離こそが、これまで紅玉と真珠から奪われた聴覚・視覚をも霞ませるほどの、「再生の礎」を削る致命的なリスクを示す模様で覆われている。


 そして、直前に踏んだマスの文言。


「賽振る者、一人の犠牲を踏み台に残りは進む」


 これまで奪われたのは“五感”だった。だが今回は違う。現れた賽子もデザインが違う。あからさまに“質”が違う。

 術式そのものが段階を上げたのだと、左目の奥の痛みが告げていた。


 喉奥に血の味を覚えるほど、感情を押し殺した。左目の奥が痛くて視界が揺れる。私はただの人間で、因果も分からぬまま『視える目』を得ただけだ。この理不尽さに、精神が軋む。


 翡翠が状況を察し、抑えた声で前に出る。


「主。僕が振りますよ」


 まるで雑談の続きのような、落ち着ききった声。恐怖も迷いもない。その声には、命を差し出す覚悟と同時に、術師の反応を冷静に見極める鋭さが、確かに潜んでいた。


 その背を見て、私は奥歯を噛み締めた。そんな犠牲の上で進む勝利……聴力と視力を奪われたのですら血が滲むほど悔しいのだ。命を奪われるなど――耐えられない。


 翡翠は振り返らず、低く笑った。


「僕の命は主に賭けています。主がゴールすれば良い。勝てば、僕らは元通り。……皆、主の勝利を疑っておりませんから」


 確信そのものの声音だった。

 翡翠は茶を点てる前の所作のように端正で無駄のない動きで賽子を振った。


綺麗な弧を描いた瞬間、空気が震え、光が彼の輪郭を飲み込んだ。


 光が収束したとき、翡翠の姿はそこには無かった。


 胸が張り裂けそうになった。分かっている。屋敷の所有権を奪われなければ“全て元通り”。翡翠も、それを前提に私に賭けてくれた。


 それでも、目の前で存在が消えるのは、耐え難い。


 紅玉は、聴力を失ったまま真珠の表情を読み、静かに頷いた。真珠も皮肉を封じ、翡翠の立っていた場所に向き直る。二人は既に大きな代償を払っている。


 私は無力で、仲間を危険に晒すだけの存在だ。悔しさに手が震える。


 翡翠の言葉がよみがえった。


――ゲームに勝てば元通り。屋敷を奪われなければ問題なく再生できる。主は腹を括ってゴールを目指してください。


 そうだ。私の役目はゴールすること。彼らの覚悟に応えることだ。


「屋敷の主導権、テリトリーを守り抜き、全て元通りにする」


 私のすべきことはただ一つ――上がることだ。


 残り【五】。


 怒りを押し込み、手帳を開く。翡翠の要約が、左目に焼き付いた。


•『奪うために』双六を媒介に『』駒を進める術。

•媒介を相手のテリトリーに忍ばせ、抗えないルールで手順を踏ませ、己の欲するものを奪う術師。

•そして“”のみを、術式は厳密に読み取る。

•振った者から奪う――代償の“質”のルールは術師が自在に変更できる模様。


 盤面奥の闇。その中に潜む術師から、かすかな“感情の波”が伝わる。

 自分の罠で全てが思い通りになると確信した、わずかな慢心。


 その揺らぎこそ、翡翠が残した“隙”だ。


 波を捉えた瞬間、左目の痛みが一瞬和らぎ、極限の集中が盤面の構造を透かした。


 術師が本当に望んでいるのは「代償として提示したものの回収」だ。そのためには、相手に「

 

 “振られたら奪う”。

 

 しかし、とはルールにはない。


 ――翡翠が命を奪われたのは、これまでの目、耳、口の賽子では術師がクリアの突破口を開く可能性のある翡翠の「頭脳」は奪えない。術式ルールを捻じ曲げてでも“規格外の代償”として命を回収しようとしたわけだ。


 でも、すでに翡翠は術の破り方をメモに残してくれていた、私は紅玉と真珠を見る。二人は微かに頷いた。


 ゆっくりと賽子を盤面へ――投げずに。


 五の目を上にして置いた。


 賽子は空気を切らず、回転しない。

 その瞬間、術式が“手順不成立”と判断した感触が左目に走る。

 

 術師の感情が、一気に「困惑」へと転じた。


 手順外の行動により、術式が停止する。

 これが、賽子を媒介とする術式が抱えていた「構造的な盲点」。


 私は、左目の痛みも、仲間の代償も、術師の困惑も全て脇に置き、『上がり』のマスへ最後の一歩を踏み出した。


 ――上がり。


 踏み出した瞬間、盤面は音もなく霧散し、冷たい空気が温かい屋敷の気配へと変わった。


 視界の奥で光の残滓が薄れ、緊張に凍りついていた心臓が激しく脈打つ。

 肺の奥に溜まっていた空気が、一気に解放される。

 床板の木が軋む音、風の流れ、庭の蛙の声――屋敷の“生”が戻るのが、五感でわかった。

 足裏に感じる床の温もりさえ、帰還の証だった。


 帰ってきた。


 闇の向こうから、微かな声が届く。


「……まさか、術式の構造的な盲点を突くとは……!」


 ――全て、元通り。

 屋敷の所有権は私のままだ。


 紅玉は『耳』にそっと触れ、真珠は瞬きをして『目』を細めて笑った。

 二人の表情に、張り詰めた緊張が少しずつほどけていく。


「やれやれ、死ぬって気分の悪いものですね。」


 背後から声。振り返ると、いつもの柔和な笑顔の翡翠が立っていた。

 盤が消えた瞬間、テリトリーに引き戻されたのだと直感で理解した。


 胸の奥に溜まっていたものが、ゆっくりと溶けていく。


 安堵した。ゲームに勝ったのだ。


 だが、完勝ではない。


 術師の姿は、まだ見えないのだから。

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