第7話 共鳴士 Ⅱ

マグナスは何も言わず、サイラスを手招く。二人は音もなく、森の奥へ進んだ。


そこには、深く眠る大昔の遺跡があった。苔に覆われ、ほとんど大地に飲み込まれたそれは、ひっそりと静まり返っていた。


「この遺跡は、かつて人類が栄華を極めた時代の名残じゃ。そなたも、聞いたことがあろう?」


深く息をついて、続けた。


「技術は、今よりも遥かに進んでいた。彼らは、自然さえも支配しようとしていた。風を操り、雲を生み、雨を自在に降らせた。人の身体の設計図を書き換え、病も、老いも、死さえも、超越しようとした。


だが、手にした力に見合うだけの知恵も、節度も持ち合わせてはいなかったのじゃ」


マグナスは、石碑に手を添え目を閉じた。


「豊かさは貪欲を育み、進化は奢りを生んだ。互いに争い、奪い合い、傷つけ合い、ついには、地を汚し、空を曇らせ、海を死の色に染めた。地球は声なき悲鳴を上げたが、人々は耳を貸さなかった。


やがて……怒れる嵐が大地を引き裂き、飢えと病が街を飲み込み、空から黒い雨が降った。人は、自らが築き上げた繁栄のすべてを一瞬で灰に変えてしまったのじゃ。


この遺跡は、すべてを飲み込み、内に封じ込めている。この石に触れ、怒り、悲しみ、混沌を感じ取れるか?そして、それを制御できるか?」


サイラスは、巨大な石碑からかすかに流れ出ている波動を感じた。石碑に近づくほどに空気が重く、身体が引き込まれるような感覚に陥る。


そっと、石碑に手を伸ばした。だが、触れた瞬間、何百年、何千年もの「記憶」が、「感情」が、怒涛のようにサイラスを包んだ。


喜び、怒り、悲しみ、絶望。そして、微かな、けれどあまりにも儚い希望──あらゆる感情がサイラスを飲み込み、思わず膝をついた。


記憶とともに流れ出てくる感情に、押しつぶされる。



眼の前に広がるのは、灰色の空。


裂けた雲の間から、黒くねじれた竜巻が大地をえぐり、あらゆるものを飲み込んでいく。


怒り狂った海は、獣のように牙をむき、濁流となって街も、人も、森までも押し流していた。



崩れ落ちる街は、今の世の町並みとは異質だ。


サイラスの目に映るのは、見たこともない形の建物や用途のわからぬ物の残骸だ。誇らしげにそびえたっていたであろう数多くの建物は、まるで折れた枯れ木のようにひしゃげている。



人々の声が聞こえる。


助けを求める声。

泣き崩れる母親。

小さな子どもの手が、瓦礫の隙間から必死に伸びる。

 

けれど誰も気づかない。

誰も振り返らない。

 


救いなど、どこにもなかった。



降るものは雨ではない。


灰だ。


すべてを覆い隠し、希望のかけらさえも飲み込む、重たく冷たい灰。


「うわあああああああッ────!!」


耳をつんざくような絶叫が、頭の中になだれ込んできた。眼の前の景色が波打ち、歪み、色を失う。




これが…………、地球……なのか。




指先が震え、息が荒れる。マグナスの声が、遠い遠い彼方から聞こえる。


「感情に飲み込まれるな。制御するのじゃ……!」


遠い昔……そうだ……、呼吸だ。まだ、王城で訓練を受けていた頃。心がかき乱され、波動が暴れ出した時、先生が言った。


「サイラス、深く、深く、息を吸いなさい。その怒りも、悲しみも、お前の中のものではないかもしれぬ。まず、息を吸ってみるのだ。そうすれば、風が見える」


(風が……?)と、その時は思った。


けれど、今はわかる。


風は、通り過ぎるもの。飲み込まれるものではなく、見送るものだ。


深く、深く、吸う。そして、体の空気をゆっくりと吐き出す。


胸が焼けるように熱い。けれど、呼吸が、風が、それを冷ましていく。数回、繰り返すうちに、少しずつ感情の嵐が収まっていく。


あの頃の自分も、「こんなに簡単でいいのか……」と訝った。


先生はいつも言っていた。


「物事はいつも単純なのだ。それを難しくしてしまうのが、人間なのだ」と。


呼吸を整え、感情の嵐が過ぎ去るのを見守った。他者の感情が、自分を傷つけるわけではない。流しさえすればいいのだ。静けさの中で、自分の内に眠っていた「何か」が、ふっと目を覚ますのを感じた。



波動が……動いている。



それは、これまでのように暴れ狂うものではない。まるで、内側から湧き出す泉のように、静かで、澄んでいて、どこか懐かしかった。


石碑から放たれる感情の波が、再びサイラスに触れる。


けれど今は、それを「自分の感情ではないもの」として理解できる。


──悲しみはそこにある。でも、それに打ちひしがれなくていい。

──怒りはそこにある。でも、それを自分の刃にしなくていい。


 

その時だった。


身体の周囲の空気がふわりと揺らいだ。まるで空間そのものが、彼の内側の変化に応えているかのように。


風が足元の土をなで、石碑の苔をそっと揺らした。それは自然の風ではなかった。彼の波動が、生きもののように外へと広がり始めていた。



「……制御しているな」

 

マグナスの声が、すぐそばにあった。


ゆっくりと目を開いた。波動の嵐は去り、彼の中に残っていたのは、感情を通して受け取った「記憶」の重みと、確かな静けさだった。

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